朝の学び26(創世記講解)創世記3章
- 2 日前
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そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 創世記 3:23-24
「自分がそこから取り出された土」とは何でしょうか?
肉的には、この地球の土です。父なる神がアダムを創造されたとき、この地球の土を根本材料として使わ れました。アダムは罪を犯した後、地球に降りてきて、土地を耕して、野の草を食として得ました。汗を 流して働いてこそ糧を得ることができたのです。「自分がそこから取り出された土」を耕す人生になりました。
霊的に「自分がそこから取り出された土を耕すこと」とは
これとともに、アダムは霊的にも「自分がそこから取り出された土」を耕さなければならなかったのです。これはまさに、自分の「心の地を耕す作業」のことです。農夫が荒れ地を良い地にする時、どんな作業をするでしょうか? まずは雑木と雑草を取り除きます。
次に、大小の石を拾い出します。その後は、地を深くすき返さなければなりません。霊的な開墾作業も同じです。心の地に植えられている「いばらとあざみ」を取り出して、硬い石を拾わなければなりません。深く根を下ろした悪の属性まで引き抜くためには、根本的に心をすき返す作業もしなければなりません。
アダムがエデンの園にいた時は、心の地に父なる神が植えて下さった善と真理だけがありました。ところが、善悪の知識の木の実を食べてから、真理に逆らうものと悪が植えられ始めました。アダムが自由意志によって、サタンの声に聞き従うと、闇の属性が心の地に植えられたのです。「霊」とは「肉の属性」が 0.1%もない、純粋な状態です。もし霊の心に肉の属性が少しでも混ざれば、その瞬間から霊と言えなくなり、「肉的な存在」になります。
生きものとされたアダム、エバが手渡したその木の実を食べた瞬間から、肉的な存在になりました。霊は死んで、たましいが主人になりました。このように肉の人になり、地球に降りてきたアダムは、「自分がそこから取り出された土」を耕さなければなりませんでした。
つまり、心の地を耕さなければならなかったのです。心から真理に逆らうものと悪を捨てる作業をしなければならなかったのです。それで再び「霊の状態」に回復しなければなりませんでした。この作業をしなければ「死んだ霊」の状態にとどまっているしかなかったのです。耕されていない地が、何の使い道もないように、心の地も同様です。
真実な愛を分かち合えるまことの子どもが出てくることを願われる神
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神 の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。 ヘブル人への手紙 6:7-8
父なる神はアダムをこの地上に追い出しながら「自分がそこから取り出された土を耕しなさい」と言われました。これは、アダムだけでなく、エバとふたりでこの地上で生んだすべての子孫にも当たるみこと ばです。この耕作は、実はとても貴重な過程でした。アダムが初めに創造された時に持っていた霊の心 と、私たちが心の地を耕した後、持つようになる御霊の心には、多くの違いがあります。
たとえば、心の優しいふたりがいます。ひとりはもともとから優しいです。悪を見たり聞いたりしたこと がなく、悪についてよく知らないままです。一方、もうひとりは世の悪がどんなものなのかよく知ってい るけれど、心を優しいまま守りました。あるいは、心から悪をみな捨てたので、優しい心になりました。 このように、悪が何か知らないで優しい人と、悪をよく知っていても優しい人とは違います。
父なる神の心をもっと深く理解できる人は後者、すなわち、悪についてよく知っていても優しい人です。 父なる神は、アダムがそのように父の心をもっと深く知って、理解することを願われました。この時、人 は神とさらに濃い愛を分かち合うことができます。
[ヨハネの手紙第一 2:14]に「初めからおられる方を知った父の信仰」について書いてあります。父なる 神は、アダムの子孫からそのように父を深く知って、真実な愛を分かち合えるまことの子どもが出てく ることを期待して信じました。そのような望みをもって、アダムをこの地上に送り出されたのです。
23 節に「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので」とあります。それから次に[24 節] には「こうして、神は人を追放して、」とあります。アダムがエデンの園からこの地上に来た同じ出来事 について、どうしてこのように表現が違うのでしょうか? 二つの表現の観点が違うからです。
まず「追い出された」とは、父なる神のほうからの表現です。彼が罪を犯したからといって、冷たく対し たり、御顔を背けたりされませんでした。それで、アダムを追い出された時も、最後まで愛の配慮をされ たのです。これは父なる神が、罪を犯したアダムに罰を与えるために追い出されたのではないことを見 せてくれます。
父なる神は、人間耕作のためにもどかしい心でアダムをこの地上に追い出されました。すでに神は、アダ ムとエバに皮の衣を作り、着せられ、父なる神が見捨てなかったことを、アダムとエバがいつも覚えられ るように、愛で配慮してくださったのです。このように、父なる神のほうからは、アダムとエバを追い出 されたのは、耕作のためだったのです。
それでは、[創世記 3:24]には、なぜ「神は人を追放して、」と書いてあるのでしょうか? ここで「追放した。」という言葉は、アダムの立場を客観的に表現したものです。
アダムはいのちの息が吹き込まれた存在から肉の人に転落しました。エデンの園では食が豊かだったが、 地球では自分で汗を流して働いてこそ、土から食を得ることができます。この他に、住居環境や生活水準 で、この地上とエデンの園とは大きな違いがあります。アダムは地位が大きく墜落したし、暮らし向きも とても難しくなりました。まるで、ある国の王だった人が一日で平民になるようなものです。こういう外 形的な条件を基準とすれば、アダムがエデンの園から地球に追放された、と見られます。
父なる神はアダムが体験するようになるこのすべてを知っておられました。それにもかかわらず、アダ ムを地球に追い出されたことには、アダムに向けられた父なる神の深い愛と人間耕作の摂理が込められ ていたからです。アダムはこの地上に降りてきた後、多くの歳月を涙に明け暮れて、あれこれと考えまし た。アダムはエデンの園を懐かしく思いました。そうするほど、自分がどれほど愚かだったかを骨に凍み るほど感じました。 その当時、アダムの心が込められた告白を紹介いたしましょう。
アダムの告白
「あまりにも遠い遠いところにあるんだなあ。以前、私が第二の天に住んでいた時は、第一の天があまり にも近いところで、ここから第二の天も近いところだったのに。今はこういう立場になり、ここから第二 の天がある所をながめると、そこはあまりにも遠い遠い所なので。触ることも、行くこともできないし、 見ることさえできないんだ。私の愚かさが父なる神様の心に影を落としたので、私がどれほど愚かで愚かな者だったのか。ここには何もない。ただ自分で自ら努力してやり遂げなければならない。
第二の天で受けていた父の愛と栄光、そして力がすべて無に帰ってしまった。このように低くてみすぼ らしい姿でこの地上に立ったので、どれほど愚かで愚かなことなのか。これから、ここで幾々日を生き て、どれほど多くの日々を数えて生きていかなければならないだろうか。自分自身を見ると、はなはだし くみすぼらしい。
第二の天に住んでいて、この第一の天に降りてきた時とは、全然違う立場になったのだ。いまここに来て みると、以前見たその地も、その環境ではなく、その時に見た動物でもない。これによってはなはだ恐ろ しくて震える思いだが、自分が罪を犯してこのように決められたので、ここで最善を尽くして生きなけ ればならないだろう。
私の気持ちを整理して、天を思い焦がれ、父が下さったこの人生をどれほど生きるべきだろうか。私の寿 命が尽きる日まで、その日を数えてはまた数え、私がしたすべてのことを警戒に警戒しよう。私によって この地上で起きたことのゆえ、本当に罪を贖う心で、大変心苦しくて申し訳ない心で、一日一日を過ごさ なければ。 今、目に見えるすべてが物寂しくて、限りなく物寂しい。天は届くようで届かないし、あまりにも遠い遠 いところにあるのだ。嘆かわしい、ああ嘆かわしい。
しかし、このように父から再び新しい人生を得たことを、幸いに思わなければ。新しい人生が恐ろしくて 震えるけれど、与えられた人生を送るしかないのだ。将来、私のいのちが終わる日には、父にお目にかか るだろう。その方に再びお目にかかるだろう。本当に私がこの日々が尽きるまで警戒して、警戒して、警 戒しながら生きるだろう。」
アダムが第二の天で受けていた栄華と威厳は大いなるものでした。そのようなアダムが以前と多くが違 うこの地上に降りてきました。すべてを自分の力と努力でやっていくことは決してやさしくはありませ んでした。何もない状態で、初めからすべてをやり直さなければならない、先が見えない状況に置かれま した。そのショックから抜け出すまで、かなり多くの時間が必要でした。
アダムは永い歳月の間、自分がしたことを悔いて後悔しました。「私はどうしてそうしたのか。あの時、 惑わされてはいけなかったのに」と言いながらです。アダムは自分が嘆かわしかったけれど、限りなく後 悔だけしてはいられませんでした。自分にもう一度の機会を下さった父なる神の愛を思い出して、自分 を慰めました。新しい人生を下さったことに感謝して、自ら決断する告白をしました。神のお心を痛めた 自分の行動を悔い改めて警戒して、新しい人生を歩むことにしたのです。
