朝の学び23(創世記講解)創世記3章
- 2 日前
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さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であっ たからである。 創世記 3:20
人間耕作を与えられる父なる神の心
アダムが神から受けた罰をひと言で要約するなら、「あなたの糧はこれから自分で求めなさ い」ということでした。このために、まず土地を耕して、苦しんで農作業をしなければなり ませんでした。これには神の深い愛が込められています。
また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた 神の賜物であることを。 伝道者の書 3:13
農夫が農作業をする時は苦しいけれど、豊かに刈り取ると、やりがいを感じます。どんな労 苦もしないで、初めから豊かさを味わった人にはとうてい感じられない、そんな幸せを感 じます。神は愛するアダムにこのような幸せを感じさせたかったのです。それで、アダムが つらいと思っても、人間耕作を受けるようにされました。
私たちは、どんな方法で人間耕作を受けていても、人生そのものが神の賜物であり、その中 には、私達に良いものを与えようとされる神のみこころが込められていることを信じなけ ればなりません。それでいつも喜んでいて、すべてのことに感謝しながら人生を誠実に歩み、父なる神の御前に美しい喜びの実として出てくることを望みます。
「すべて生きている者の母」エバ
さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。 創世記 3:20
アダムは妻に「エバ」という名前をつけました。これは「すべて生きているものの母」という意味です。「すべて生きているものの母」、これには二つの意味が込められています。
第一は、肉的な意味です。エバは人類最初の女性です。エデンの園のすべての人はアダムと エバの子孫です。そして、地球上のすべての人もアダムとエバの子孫です。したがって、エ バはすべての人類の母であります。こういう意味から、エバを「すべて生きているものの 母」と言ったのです。
第二、霊的な意味で、エバは「すべて生きているものの母」であります。今日、地球の人口 80 億の人が霊的に「生きているもの」ではありません。神の御目には、まことのいのちで ある「永遠のいのち」を持っている人だけが、霊的に生きているものです。
聖霊を受けていなくて、いのちの種が眠っている人は、霊的に死んでいるもののようです。 イエス・キリストを受け入れて、罪の赦しを得て、水と御霊によって新しく生まれた人だけ が永遠のいのちを得て、霊的に生きているものなのです。
では「エバ」が霊的に生きているものの母であるとは、どういう意味でしょうか? 今後、エバの子孫から、霊が生き返って、永遠のいのちを得る人々が出てくることを示して いるのです。また、アダムとエバも救われるという意味が込められています。
アダムとエバはこの地上で耕作を受けながら、自分たちの罪を徹底的に悔い改めました。 その結果、救いに至ることができました。このように「すべて生きているものの母」という 意味の「エバ」という名前には、二つの意味が込められているのです。
「死んだものの母」ルシファー
「生きているものの母」がいるように、「死んだものの母」もいます。霊的に「死んだもの」 とは、救われないで死んだ人のことです。それでは「死んだものの母」とは誰でしょうか? 、 それは「ルシファー」です。ルシファーは堕落した御使いであり、悪い霊どものかしらです。 ルシファーはその使者たちとサタン、悪魔、悪霊どもを用いて、何としてでもひとりでも多 くの人を地獄へ引いていこうとします。
黙示録 19 章 2 節にも、ルシファーについて「不品行によって地を汚した大淫婦」とありま す。ルシファーは人々が霊的な不品行を犯すようにします。神より世のほうを愛するよう にして、神を知ろうとしたがらないようにします。はかない罪の楽しみを受けて、結局、永 遠の死である地獄に至るようにします。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのよう に、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 第一ペテロの手紙 5:8
今日、このみことばのように私たちは、いつも霊的に目をさましていなければなりません。
サルデス教会
黙示録 3 章に出てくる「サルデス教会」は、「生きているとされているが、実は死んでいる。」 と指摘されました。サルデス教会は直ちに立ち返って悔い改めないなら、救いとは関係の ない状態でした。
しかし、彼らは真理を聞いて学んだので、それでも知識的には真理を知っていました。それ で、この知識的な信仰を、行いがある生きている信仰に変えなければならなかったのです。 心に植えつけられたみことばの種を、最善を尽くして育てて、豊かな実を結んでいく人が 本当に新しく生まれたのであり、「生きている」と言えるのです。
