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朝の学び99 創世記12章

9月6日
読了時間: 10分

創世記12:10-20

さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。



 

序論


アブラムは幼い頃から神様について多くのことを聞いて見て学んでいました。しかし、このように見て聞いて学んだだけで、アブラムの信仰が完全になれるわけではありません。その為神様は、アブラムに信仰の父になるための本格的な訓練を許されたのです。その中の一つがまさに、自分の知恵と知識に依存し、全能な神様を全面的に頼れないようにする肉の考えを破ることでした。それで、神様は最初からいくらでもアブラムが妻のサライを奪われないようにすることができましたが、アブラムが自分の考えを働かせて自分の方法どおりに行っていくことを放置しておかれました。

 

飢饉を避けてエジプトの地に至るようになったアブラムは、そこでもしかして、自分に迫ってくるかもしれない生命の脅威を免れようと、妻のサライに「私の妹だと言ってくれ。」と言ったのです。ところがこのように考えを働かせた結果、アブラムはたとえ自分の命は救われたとしても、妻をエジプトの王パロに奪われてしまいます。前の時間に、アブラムが神様の前にささげた告白を通しても分かるように、アブラムは明らかに神様の前に、「その方の名の前にすべてのことが恐ろしく震え、すべてがその方の足元にあるからだ」と告白したにもかかわらず、現実の急迫した状況に置かれると、肉的な考えが働いてしまいました。箴言16:3見ると、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」と言われましたが、アブラムは全知全能の神様を知って信じると言いながらも、すべてのことを神様だけに全面的に頼らず、その結果考えられなかった困難に陥ってしまいました。

 


エジプトで妻を奪われる訓練を受けたアブラム


アブラムは肉の考えを働かせましたが、それが神の前に悪を行ったり、誤りを犯したわけではありませんでした。この時、もし神様がアブラムに「何も恐れずにエジプトの地に行け」と言われたとすれば、アブラムは十分に信仰で行ける人でした。しかし、神様は何の干渉もしないまま、アブラムがどのようにするのかを見守っていたのです。もちろん、アブラムの信仰がより完全だったとすれば、たとえ神様が先のことについて話さなくても、考えを働かせずに神様に頼ったでしょう。しかし、アブラムの信仰はまだそのような段階まで至ったわけではありませんでした。

 

全く見知らぬエジプトの地に入ったアブラムは、神様から何の指示も受けることができず、そのような状況で、それなりに自分の知恵の中で方法を講じようとしました。しかし、これが神の御言葉に不従順なことでもなく、真理と反対の闇に行ったわけでもありませんでした。それにしても、彼が信仰の父になるためには、このような小さなことの一つでも、完全でなければならないので、神様は訓練を通して、彼の不足したことを明らかにさせたのであり、アブラムはこの訓練を通して自分を発見することができるようになります。

 

それなら、皆さんご自身を一度点検してみてください。「果たして私はどれほど肉の考えを働かせているのか」ということです。肉の考えというのが結局は、神様と敵になるようにし、神様の御心とは反対に出るようになることですが、その人に肉がどれほどあるかによって、肉の考えにも程度の差が出てきます。

 

サウルの場合のように肉の考えを働かせ、神様の御心と全く逆に行なうことで、死に行った場合もあるし、考えを働かせたとしても、不従順や悪を行ったのではなく、アブラムのようにただ少しの肉の考えを通して、まだ自分の完全でない部分を発見する変化のきっかけとなる場合もあるのです。ところが、今日肉の考えによって、明らかに神様のみことばであり、御心であると分かっていても、結局不従順する場合がどれほど多いのでしょうか。自分の利益を追って肉の考えを働かせることで、悪を行う場合がまたどれくらい多いでしょうか。

 

アブラムはまだまだ完全になる前でしたが、肉の考えを働かせて悪を行うとか、神様のみことばに不従順することはありませんでした。だから、この当時のアブラムの姿と比較してみても、自分がどれだけ肉の考えを働かせているのか自ら分別がつくでしょう。瞬時に肉の考えを働かせて妻を奪われたアブラムは、それによって悩み苦しみます。命はとりとめましたが、その心がどうやったら楽になるでしょうか、妻を思う時、どれほど心に苦痛を受けたでしょうか。このような状況に至ると、アブラムは結局、神だけに頼るしかありませんでした。自分の考えがどれほど間違っていて、自分の知恵がどれほど愚かなものだったのかを徹底的に悟ったアブラムは、神様の前に祈りながら頼ることになったのです。

 

ところが、ある人は肉の考えを働かせて、それが間違っていることに気づいたにもかかわらず、引き続き肉の考えを働かせていく場合があります。自分の考えが間違っていることに気づいたなら、一刻も早く立ち返る人が賢いのですが、むしろ考えが後を絶たないので、結局、不従順な行いが現れる場合です。箴言15:24を見ると、「悟りのある者はいのちの道を上って行く。これは下にあるよみを離れるためだ。」とおっしゃいました。

 

この御言葉のように賢い人なら、もし自分が行った道が、下にあるよみへ向かっていた道であることに気づいたら、その道から立ち返り、上に向かって命の道に行くのが当然です。

私たちはできるなら、当然神様の前に小さな間違いでもしてはいけませんが、完全になるまでは誰でも間違いを犯すことがあり、問題はその次の態度です。自分の間違いを認めて迅速に戻す人と、そうでないまま考えを働かせ続ける人とは、全く違う結末を得ることになるという事です。

 

ところがアブラムはすぐに自分の足りないことに気づき、すべての問題の解決者になる神様の前に出てきました。だから神は当然、このようなアブラムの祈りを聞いてくださったのです。コリント第一10:13「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」の御言葉のように、アブラムにも耐えられる試練を与え、彼が自分の能力で解決できない状況で神様の前に出た時、その試練から逃れる道を開かれたのです。神様が直接干渉することで、人には解決できない問題を解決していかれたのです。


 

すべての事を働かせて善を成し遂げ、祝福の道に導いた神様


本文17節を見ると、「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」とあります。それだけではなく、彼の子孫たちとその家に属する者たちに、病気が降りかかり皆が苦しむようになったのです。するとすぐに、自分と自分の家になぜこのような災いが降りかかったのかを考えるようになります。そしてまさに自分が取ろうとした女性であるサライによるものであることに気づき、アブラムを呼び、妻のサライを返し、そのすべての所有するものを持って出るようにしました。

 

そして16節に記録されたように、パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。バロがサライを取ろうとする代わりに、アブラムを手厚く待遇して与えてくれた羊と牛、ロバ、男女の奴隷、雌ロバとラクダまで、すべての所有物を持ってエジプトから出てきたのです。アブラムが自分の知恵で解決しようとした時は、むしろ問題が絡み合って、人では到底解決できない状況だったのですが、神様が直接干渉して手を差し出したら、瞬間に問題が解決され、エジプトに入る時よりも多くの所有物を得て、エジプトから出ることができたという事です。

 

詩篇40:1-2「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」とおっしゃったとおり、神様は直ちに自分の過ちに気づき、神様の前に出て、全面的に頼って求めたアブラムの祈りを聞き、彼が陥った穴と泥沼から引き上げてくださったのです。

    

聖書にはこのように、人の方法と知恵で解くことができないことを神様が自ら働き、万事を都合よく導いていく場合が多く出てきます。ダニエルと彼の3人の友人たちがそうだったし、ハマンの詭計から同族を救ったモルデカイがそうだったし、ヨセフもそうでした。彼らがその時、もし人の知恵と方法を働かせたなら、決して抜け出すことができない泥沼や穴に陥ったでしょうが、彼らはただ神様だけを信じて頼り、神様の方法に従ったので、神様が彼らを救い、むしろもっと尊い地位に高めたのです。

 

アブラムも一瞬考えを働かせて、思いもよらなかった困難に陥りましたが、すぐに立ち返って神様に頼ったので、神様はすべてを働かせて善を成し遂げ、結果的にはさらに祝福された道に導かれたという事です。そしてこの訓練を通して、アブラムは初めて、「すべてがその方の足の前にある」という告白が、まさに真で真実であることを悟ったのです。だからこういう訓練を通過して、神様に対する信頼を築いてきたアブラムは、後にひとり子イサクを捧げなさいという神様のみことばにも、少しの考えすら働かせず、ただアーメンだけすることができたのです。

 

信仰の父アブラムが一朝一夕のうちに造られたのではなく、このように一段階、一段階の信仰の訓練を通して考えを破り、全能な神様を感じて悟りながら、結局は完全な信仰と従順の人として出ることができたのです。皆さんも一夜のうちに信仰がすくすくと育つといいのですが、信仰とは自分が望むからと言って一気に育つことができるものではありません。訓練を通して、自分の足りないことを悟り変化する分、神様を悟ることができるのです。私たちがある人と信頼関係を築いていく時、一夜にして信頼関係が築かれるわけではありません。また、ただ相手について多く知っているからといって、信頼関係が築かれることでもありません。相手を身近に体験してみながら、その人の心と真実について一つ一つ感じて悟っていく時こそ、相手に対する信頼も築かれるのです。神様との関係もこれと同じだということです。

 

ですから、人が訓練を受けている間は、どこにも頼るところがなく一人ぼっちのようで、時には先が見えないこともありますが、訓練をよく受けると、彼の信仰が以前とは違って、ぐんと成長しているのを見ることができます。したがって、訓練を恐れるのではなく、積極的に訓練を通過する姿勢が必要です。もちろんわざわざ訓練を自ら招く必要はありませんが、訓練が来たときにあちこちに避けようとすれば、信仰の成長がそれだけ遅くなるしかありません。また、同じ訓練を継続して受けることも信仰の成長を遅らせる原因となります。訓練を受けた時、その原因が何かを悟り、立ち返って変化することで、同じ訓練を再び経験する愚かさを犯してはいけません。

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