朝の学び177 創世記27章

創世紀 27:5-23
リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとしたが、
序論
愛する皆さん、私と宣教チーム一行は、父なる神様の大きな摂理の中で行われたペルー連合大聖会を無事に終えて帰ってきました。祈りと断食と真心を尽くした宣教献金で、ペルー連合大聖会に参加して下さったすべての聖徒たちに心より感謝申し上げます。聖徒たちの献身と真心が集められ、このように大きく神様に栄光を表して帰ってくることができたのです。本当にこの地のものは少しも眺めず、ただ天国を望み、天から与えられる永遠の賞を眺めるので、このような信仰のある聖徒たちとして父なる神様の前に捧げることができるのです。
使徒パウロも信仰のある聖徒たちを見ながら、テサロニケ第一2:19-20に「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」と話したことが見られます。このような信仰と希望を持てるように導いてくださった父なる神様に感謝と栄光を捧げ、聖徒たちにももう一度感謝を申し上げます。
今日もマンミンマガジンを通して、ペルー宣教に関する簡単なハイライトをご覧になりましたが、来週の日曜日から宣教報告をさせていただきますし、マンミンマガジンは、次の金曜日から本格的にペルー連合大聖会に関して放映されます。止まることのない神の御業の中で2004年を美しく締めくくり、栄光に満ちた2005年を迎えることを許してくださった父なる神の御心と摂理を、すべてのマンミンの聖徒の皆様が悟られますよう、そして喜びと祝福、そして霊的な満たしをもって2004年を終え、2005年を迎えられますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。
偏狭な愛を持ったイサクとリベカ
イサクは自分の寿命が終わることを感じると、自分の後を継ぐ息子に祝福を祈ろうとしました。 その息子がまさにエサウでした。イサクは、エサウとヤコブの2人の息子のうち、エサウをもっと愛していたので、エサウに長子として授けることができる祝福を与えようとしたのです。しかし、これは神様の意思とは異なるものでした。神様はすでに胎の中からエサウではなくヤコブを選び、その事はイサクやリベカも知っていました。それでも、イサクは自分がもっと愛するエサウに、長子としての祝福を受けさせようとする気持ちから、このように最後の瞬間までもエサウに対する偏狭な愛を見せているのです。
これを見守るリベカも又、決して美しい心ではありませんでした。リベカもイサクと同じように息子たちに偏狭な愛を与え、リベカはヤコブをもっと愛していました。 だから、イサクがエサウにだけ祝福を与えようとしているという事を知ったリベカは、どうしてもその祝福をヤコブが受けるように望みました。それで、自分が盗み聞きした話をヤコブに伝え、どうすれば良いのか、その方法を教えます。しかし、その方法はけっして良い方法ではありませんでした。 リベカにとっては自分の夫を騙し、ヤコブには自分の父親を欺くことでした。肉に属する知恵により、エサウに与える祝福の祈りをヤコブが代わりに受ける、巧妙な方法を考え出したのです。最上の子やぎを取って、リベカがイサクの好むおいしい料理を作り、それを持ってイサクの元に行き、エサウの代わりに祝福の祈りを受けるということでした。
これに対し、ヤコブは母親のリベカに答えます。11-12節に「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」とありなす。ヤコブは、父親のイサクが神から保証される人であることを知っていました。そのため、祝福を祈ると、その祝福が相手に臨むのは当然でしょうが、逆に呪いをかけると呪いがかかるということも分かりました。ヤコブ自身と兄とは外見的にあまりにも大きな差があるので、父親のイサクをだまそうとすることは、祝福はおろか呪いを受けることになるのではないかという恐れがあったのです。
これはすなわち、ヤコブの心の中では母親リベカの提案を受け入れたいが、その提案を快く受け入れることができない理由が「ひょっとして父親のイサクが、自分がエサウでないことに気づくのではないか? 」という恐れからだということが分かります。つまり、ヤコブは今、母リベカの提案が真理にふさわしくないので、その提案を受け入れないのではなく、イサクが気づいた時にふりかかることになる呪いが怖いからだということです。 本当にヤコブが真理の人で、善と正道を追う人だったとすれば、いくら母親のリベカが自分のためにこのような提案をしてきたとしても、断固として断るべきでした。父親を欺くことです。また、自分の母親は夫をだますことなので、当然断るべきだったのですが、しかし、ヤコブは、エサウに与えられるはずの長子の祝福を自分のものにしたいという願望を抱いていたため、母の提案を断ることができなかったのです。
長子の祝福を受けようとリベカの提案を受け入れたヤコブ
リベカがヤコブに「わが子よ。あなたの呪いは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」と言うと、ヤコブはリベカの言葉どおり子やぎを取ってきます。事がうまくいかなかった場合、自分にふりかかってくることになる呪いを、彼の母親が代わりに受けると言ったら、ヤコブはこれ以上退ける理由がなかったのです。まさにここでもヤコブの本質が出ています。ヤコブは、母親の話を聞いて狡猾な方法を働かせたのですが、結局彼にも長子の祝福を受けようとする欲と狡猾な心があったために、母親の提案に従ったという事です。ヤコブが善良な心だったら、善ではない方法を追うこともなかっただろうし、母親が「あなたの呪いは私が受けます。」と言ったからといって、その言葉に直ちに行動に出ることはなかったでしょう。
リベカが、自分が望む通りにヤコブに祝福が臨むようにしようとする気持ちで、あまりにも簡単に口から言葉を出したのを見ます。箴言18:21に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」という言葉のように、一言が思いがけない実に帰することがあるので、単なる唇の言葉だからといって決して簡単に出してはいけません。リベカはこのように安易に出した一言によって、残りの人生を心の苦痛を受けながら生きていかなければなりませんでした。 結局、それは愛していた息子を遠くに行かせなければならなかったし、息子が他の地で二十年間も苦労することを覚えて、リべカの心がどれほど痛かったでしょうか? しかも、エサウがヤコブを仇のように思いながら、彼を殺そうとしていることを知っているリベカとしては、一日も安楽な日がなかったのです。だから、自分の肉の考えを働かせた結果、このように家族の平和が崩れて別れて暮らさなければならない状況を迎え、リベカは自分の言葉による実を食するようになったのです。
人が訓練を受けると、自然に心の苦痛が伴うようになります。これは訓練を受けた方なら誰でも体験したことがあると思います。訓練は自分を発見し、変化して霊に入っていくためにどうしても必要な過程なのです。このように心の苦痛が伴う訓練を受けながら、人は自分の肉の考えが砕かれ、人の考えと方法が無駄であることに気づくのです。人が神様の意思と方法を求めずに、人の考えと方法を追った時は、必ず訓練が伴うことになるという事実を肝に銘じて下さい。ヤコブも結局は変化して神様の前に使われる心の中心でしたが、まだ彼には砕かれて変化しなければならない分野が多く、このように自分の欲の中で訓練の道を自ら招いていくことが見られます。
本文の内容を見ると、ヤコブがこのように狡猾な方法を使ったにもかかわらず、結局は自分が目的としたことを成し遂げることになります。そして、イサクが彼に祝福を祈った通り、ヤコブは結局、長子の権利を受け継ぐことになります。それなら、ヤコブはこのように狡猾な方法を使ったにもかかわらず、なぜ神様はヤコブがイサクを通して、長子の祝福の権利を受けることを許したのでしょうか?勿論、ヤコブは狡猾な方法を使いはしましたが、これは悪人が詭計を使うのとは違うという事です。
例えば、ダビデの息子アブシャロムは父親の王位を奪うために、緻密でありながらも狡猾な方法を使いました。民衆の心を味方につけ自分の勢力を築き、ついにダビデを追い出し、城を占領したのです。しかし、アブシャロムがそのように緻密に準備したとしても、神様は依然としてダビデ王の味方でした。 結局、アブシャロムは悲惨な最期を迎えます。この時、肉の人たちが見るには、アブシャロムが人をだまそうと計略をしたことと、ヤコブが狡猾な方法を使ったことが似ているように見えるかもしれないのですが、心の中心を見る神様の視点では、心の根本が全く違うという事です。もちろん、アブシャロムの詭計やヤコブの狡猾な方法がすべて悪であることは確かです。しかし、アブシャロムの場合は、自分が取ろうとするものを得るために、本当に邪悪な心から始まった行動であり、一方、ヤコブはその心が根本的に邪悪だというよりは、欲を成し遂げようとする気持ちで、つい肉の方法を使うようになった場合だと言えます。
しかし、これも根本的には狡猾な属性の心から始まったものなので、このような心では神様の前に使われることができませんでした。それで神様は彼が長子の祝福を受けられるように許しはするものの、訓練を通して根本の悪まで徹底的に発見し、抜き出すことができるようにしたのです。このようにアブシャロムとヤコブの場合、単純に表に見える姿は似ていても、その原因は全く違っていたという事です。そして、ヤコブがどうであれ、父親のイサクから長子が受けなければならない祝福の祈りを受けることができたのには、以前に煮物一杯で長子の権利を買ったできごとが、あまりにも重要な契機になったことを知らなければなりません。
エサウが長子の権利を軽薄に思うことで、唇を通して長子の権利を渡すと話し、ヤコブはそれに対する代価を支払ったので、すでに霊的に取り引きが成立したのでした。 人は文書にサインをして、契約書にサインをして印鑑を押さなければなりませんが、霊的な世界はそうではありません。唇の言葉がまさに契約書であり、印鑑です。霊的な世界は真実だからです。そのため、ヤコブがイサクから長子の権利の祝福の祈りを受けるしかなかったのです。しかしその過程が、善良で良い心から正当な手続きに従って行われたわけではないので、神様はヤコブを神様が望む完全な中心に立てるために訓練を許すしかなかったのです。



