朝の学び176 創世記27章

創世紀 27:1-13
イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ。」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます。」と答えた。イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。 もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」
「おいしい料理」を通して祝福が臨む霊界の法則を悟ってこそ
イサクは、長子のエサウをより一層愛したので、祝福もエサウにだけ思う存分祈ろうとしました。ところが、エサウに祝福を祈ろうとする時に、まず自分が楽しむおいしい料理を作って持ってくるようにします。あえておいしい料理を作ってくれと言わなくても、エサウのために祝福を祈ることもできたはずなのに、イサクはそうしませんでした。それも適当に料理を作って来いと言ったのではなく、自分が楽しむ特別な食べ物、すなわちおいしい料理を作って持って来るようにと命じました。これを通して私たちは、祝福がどのように臨むのか、これに対する霊界の法則を悟らなければなりません。イサクは父として、それもエサウをとても愛する父として、いくらでもエサウを祝福しようとする気持ちでした。しかし、ただ無条件に祝福を祈るからといって、その祝福が臨むのではないことをイサクは知っていました。必ず蒔く過程がなければならないのです。心の中心を込めて捧げる信仰の行いが、蒔く過程を通して現れなければならないのです。「蒔く」という行いの中には、彼がどれほど心と思いを尽くして信仰で出てきたかが含まれているからです。
エリヤ預言者がツァレファテのやもめに、最後に残された一握りの食物で、自分のために食べ物を作ってくれるように懇願したのも、やはりこのような信仰の行いが必要だったためです。エリヤの言葉に聞き従い信仰の行いを現わした時、初めてエリヤが祈ってくれる祝福がその家庭に臨み、日照りが終わるまで食料が尽きない祝福を受けることができました。
また、ピリピ4:18-19には、ピリピの教会が使徒パウロの働きのために蒔いた時、使徒パウロが彼らのために祝福する内容が記されています。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」使徒パウロのために蒔いた贈物が、結局は神様の前に、神様がお受けくださるに値する香ばしい供え物として、神様を喜ばせたことになったので、使徒パウロは彼らのために祝福を祈ることができたのです。
このように私たちが、神様の前に祝福を受けるためには、必ず蒔く過程がなくてはなりません。これは神様の前にあることを知らせる時や、問題を解決しようとする時も同じです。本当に神様の前に祝福され答を受けるだけの信仰があり、神様の前に誠実と真心を持って出てくるならば、そこには必ず蒔く行いが伴うことになります。そしてこの時、おいしい料理、すなわち自分にとって最も貴くて貴重なものを蒔くことができる信仰ならば、これはより一層神様の喜びになるという事です。それで神様は、世の何物にも変えられない、一人子の息子であるイサクを捧げたアブラハムを認めてくださったのです。また、自分のすべての感謝と真心を込めて、非常に高価な香油をイエスの足に注ぎ自分の髪の毛でその足を拭ったマリアの行いも、イエスの称賛を受けることができたのです。私たちが蒔かないで収穫することを願うのは、霊界の法則にも合わないだけでなく、神に対する真心と誠意もない姿です。
したがって、ガラテヤ6:7に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とおっしゃっています。ある場合は蒔いても収穫できない時があります。もちろん、信仰で植えたものは、今すぐではなくても、必ず時がくれば刈り取るようになるのですが、問題は私の方では植えたと思っているのに、神様の方ではお認めにならない時です。したがって、私たちが蒔くのにもいくつかの法則があるという事を悟らなければなりません。まずは、心に決めたとおりに、嬉しい気持ちで喜んで蒔かなければなりません。 コリント第二9:7に「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とあります。
いくらたくさん蒔いたとしても、それが最初に決めたことから変ったとすれば、神様は喜ばれません。レビ記27:9-10には、「主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげるものはみな、聖なるものとなる。それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。」とありますね。これは神様の前にあるものを捧げると誓願した時、もし後でもっと良いものを捧げようとしても、以前に捧げようとしたものまで全て捧げなさいという意味です。 一度捧げることに決めたのは、決して変えてはいけないということです。もっと良いものを捧げようとする時も、このようにして、まして初めに捧げようとするより劣るものを捧げようとするならば、これはより一層神様の前にふさわしくないのです。また、ささげ物を捧げながらも、惜しむ心やケチな心、あるいは無理に捧げる心なら、神様はそのような心で捧げるささげ物を受け取ることができません。神様は捧げ物の多さや少なさではなく、嬉しい気持ちで楽しむ人を愛しています。そのような人に祝福があるのです。
次に、蒔く時は必ず信仰で蒔かなければなりません。 ヘブル11:6に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とおっしゃったように、報いてくださる方を見上げ、信仰をもって種を蒔くことです。そうして初めて、豊かな収穫を得、天での報いを受けることができるのです。神様は信仰どおりに働いてくださるので、信仰で行ったことはすぐには目の前に現われないとしても、時がくればおさめることになっています。神様は各人に一番良い時期を待っていてくださるのです。
しかし、信仰をもって種を蒔かない人々は、祝福がすぐに訪れないと疑い始め、「私には祝福が来ないようだ。」と言って、祝福を遠ざけるような言葉を口にすることさえあります。 一方、信仰で蒔いた人は、すぐに実が見えないからといって失望したり、唇で祝福を退けてしまう言葉を言わないでしょう。忍耐して祝福の時を待ち、祝福が来るまで決して信仰を失いません。次に、少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、多く蒔く者は多く刈り取るということです。もちろん、神様は生活費の全てである二レプタを捧げた未亡人の信仰を喜びますが、結局、多く蒔いた時に多く集めるのが霊界の法則です。さらに、たくさんあるのでたくさん蒔くのは当然のことですが、ない中でも最善を尽くすのが本当の信仰なので、これは明らかに神様の喜びになります。私は、神様の前に蒔けば祝福されるという法則を知った時、莫大な負債が残っているにもかかわらず、神様の前に信仰で何とかたくさん蒔こうとしました。信仰が来たからそうすることができたのであり、結局、神様は信仰通りに働いてくださって私に驚くべき祝福を与えるしかなかったのです。
最後に、ふさわしい適切な時期に蒔かなければならないということです。例えば稲は春に植え、麦は晩秋に植えるように、植える時期を逃してはいけません。また種の種類によって、植えなければならない土地も異なります。 同様に、神の前に種を蒔くのにも、適切な時があるのです。神が祝福の時を定めておられることを認識し、それが祝福を受ける機会であることを悟って、聖霊の導きに従って「種を蒔く」ことは賢明なことです。また、同じ物質を蒔く場合でも、どのような目的で蒔くかによって、それに伴う祝福が異なります。どうせなら、同じ物質でももっと大きく神の国を成すのに使われるなら、それによる祝福と賞ももっと大きいからです。
皆さんがこのようないくつかの法則だけでも悟り、神様の前に信仰と真心で蒔けば、神様のしもべを通して祝福の祈りをうける時に思う存分、祝福が臨むことができるという事です。しかし、最も重要な基本的な法則は、蒔いた通りに刈り取るということであり、ヤコブがたとえ狡猾な知恵を使ってはいたものの、イサクが好むおいしい料理を準備し、その前に出た時、イサクがそれをおいしく食べ、思う存分祝福を祈ってくれたのです。その内容は次の時間に続けて見ていきましょう。
結論
今日は癒し集会が続く日ですが、本文のお言葉を通して癒しを受け、答を受けられる秘訣二つを学びました。一つ目は、病気や問題が訪れる根本的な原因が罪にあるということです。二つ目は、答を受けて祝福を受けるためには、必ず蒔く過程がなければならないということです。
出エジプト記15:26に「そして、仰せられた。『もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。』」と言われました。これはすなわち神様の言葉に聞き従わず、神様の御覧になる義を行わなかったし、神様の戒めに耳を傾けず、神様が下さった規測を守らなかったために結局すべての病気が来ることになったことを意味します。
したがって、皆さんが病気の癒しを受けるためには、神の言葉に背いたことを悔い改め、振り返って罪から離れればいいのです。 創世紀3:14後半節に神様が蛇に「おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とおっしゃいましたが、ここで蛇は敵である悪魔サタンを指し、彼らにちりを食べなさいと言ったのは土で造られた人、その中でも罪の中にある人を彼らの権勢の下に与えたという意味です。したがって、罪の中から離れることになれば、その時からは光の子であり、神が守る光の空間に住むことになるので、敵である悪魔サタンがこれ以上働くことはできません。これは病気の問題だけでなく、他のすべての呪いや災いにも同じように当てはまります。
罪から立ち返って離れ去ることが、すべての問題を解決して頂く最初の段階です。その後、神様の前に信仰で蒔くことになれば、神様はその信仰を見て問題を解決し、答えてくださいます。罪の中にいる時は、罪の壁によって、蒔いたものがまともに実を結ぶことができなかったのですが、今は罪を悔い改めることによって、以前に蒔いたものまでも実を結ぶことになります。 また、心に願いがあって申し上げる時も、心を込めて神様の前に蒔くことは、神様を喜ばせる方法の一つです。それがすなわち信仰であるため、その信仰によって神様を喜ばせることであり、このように神様を喜ばせさえすれば答は与えられることになるのです。このような簡単で最も基本的な祝福と答の法則に気づき、皆さんが全能なる神様、子供たちに何でも与えることを願う愛の神様に出会って体験できますように神様の御名で祈ります。



