朝の学び100 創世記12章
更新日:9月10日
創世記12:10-20
さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
妻を奪われる二番目の類似事件との違い
ところが、アブラムの場合は、後日、本文に出てくる事件と非常に類似した事件をもう一度体験することになります。創世記20章に出てくる事件として、今回はアブラハムがゲラルに住むとき、そこの王アビメレクに再び妻を奪われる事件が発生したのです。この時も原因を見ると、本文に出てくる事件のようなことがわかります。まさにアブラハムが自分の妻を「私の妹」と言ったのです。ですから、ゲラルの王アビメレクはアブラハムの妻サラを取ろうとしたのです。
それならおかしくないですか?創世紀20章では、すでに神様がアブラムに諸国の父という意味で、その名をアブラハムと直してくださった後でした。さらに本格的な訓練を受け始めたばかりの初期の時でもなく、すでに訓練が始まってから24年が経って、完全な信仰にそれほど近づいた後でした。それでも、アブラハムは以前に肉の考えを働かせて経験したのと同じ訓練をもう一度受けていたのです。
それでは、なぜこのことが起こったのでしょうか? 表面的には、同じように見える2つの出来事が霊的には非常に大きな違いがあることを知らなければなりません。ある人々はアブラハムが同じ間違いを2回もしたと言いますが、なぜアブラハムのような人物が神の前に同じ間違いを2回もしたのでしょうか?今日の本文に出てくる事件は、アブラハムが肉の考えを働かせて自ら招いた訓練だとすれば、創世記20章に出てくる事件は、神様の御心と摂理の中で許された訓練であり、この訓練は神様が目的としたところがあり、アブラハムをそのように主管して行なわれたという事です。すなわち、アブラハムが再び以前のように肉の考えを働かせて、妻を妹と言うことで妻を奪われるようになったのではなく、むしろこの事件を通してアブラハムを広く知らせ、神様が栄光を受けるために許された神様の摂理の中にある事件だったということです。
今、創世記20章全体の内容をすべて見ることはできませんが、この時も神様が直接干渉することで問題を解決していきました。アビメレクの夢に自ら現れ、彼が取ろうとした女性が誰であり、アブラハムが誰であるかを教えてくださいます。創世記20:7に、「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とこのように恐ろしい話をされたのです。本文の場合のように、アブラムが神様に懇願して神様が干渉してくださったのではなく、神様の側でまず夢を通して働かれたのです。
ですから、創世記20章の事件が起きた時は、アブラハムは今日の本文のように慌てたり苦しんだりしませんでした。すでにすべてが神様の摂理の中で、神様が主管していらっしゃるという事をアブラハムも感じていたので、すべてを神様に任せたまま、神様の導かれるとおり従ってゆきました。そして時がたつと、アブラハムは神様の導きに従順し、問題を解く決定的な役割を果たすようになります。
まさに創世記20:17-18に示すように、「そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。」アブラハムは神に祈りました。 そうです。この言葉を通してわかるように、神様はアビメレクがアブラハムの妻サラを取ろうとしたことで、その家のすべての胎を閉じました。そして、このようなアビメレクにアブラハムを送り、彼らのために祈るようにすることで、再びその家の胎を開いてくださいました。
これはまさに、アブラハムにとってアビメレクの家の問題を解決してあげる解決者のような役割を果たすことで、彼らにアブラハムがどんな人なのかを分かるようにするための、神様の計画された摂理だったことを知らせてくれます。家のすべての胎が閉じられて苦しんでいたアビメレクに、アブラハムが行って祈ったとき、胎が開く癒しのみわざが現れたので、これを見たアビメレクとその周辺の人々にアブラハムがどんな人に見えたのでしょうか。
さらにアビメレクの夢にまで、神が自ら現れて、アブラハムが預言者であることをおっしゃって、アブラハムの祈りに直ちに答えてくださったので、彼らは、アブラハムは神様の保証を受ける人で、敢えて自分たちが手をつけられないすごい人だという事が、彼らの心に深く植え付けられるようになったのです。また、このようなアブラハムと共におられる神様に対しても、彼らは恐ろしくて震えるしかなくなり、神様の力の前に栄光を捧げざるを得ませんでした。
このように、一見すると同じ事件のように見える二つの事件が、霊的には非常に大きな違いを持っているという事です。霊的な分別力なしに見れば、同じミスを犯したように見える二つの事件ですが、一つ一つの過程と結末を調べれば、今日の本文の事件と創世記20章の事件は、アブラハムに対する神様の保証と愛が全く異なる次元で起こった事件であることがわかります。このような事をよく知って、たとえ表向きには、同じ訓練のように見えても、その訓練を許される神様の摂理と計画は全く異なることがあることを知らなければなりません。
例えば、同じ試練が二人に来たとしても、ある場合は罪を犯して、神様との行き詰った壁のために守られなかった場合があるかと思えば、ある場合は十分に守ってくださるにもかかわらず、より大きな信仰と成熟した信仰に成長させようとして、守ってくださらない場合があります。その事情は神様だけがご存じです。したがって、人の側で何かを持って自分の任意に判断したり、罪に定めることが、神様の前にどれだけ大きな罪であるかを知らなければなりません。妻のサラを奪われる大きな訓練を、神様の繊細な愛と導きの中で通過してきたアブラムは、以前とは違う、より成熟した信仰の段階に入ることになります。次回は、続けて13章から見てみましょう。
結論
アブラムはこの訓練を通してこれまで聞いて学んで知っていた父なる神様という方の繊細で優しい干渉を身近に感じるようになります。神様はアブラムが考えを働かせたからといって叱責して、叱ったのではなく、アブラムが神様に対して感じて悟ることができるように、彼の道を一つ一つ繊細に導かれました。皆さんもこのような神様に会って体験してください。神様はあまりにも愛が多く、優しくて、繊細に私たちを導いていかれる、私と皆さんの父であるという事です。もちろん、お父さんであるので、皆さんが肉の考えを働かせて、父なる神様の御心と反対に行っていくときには、それによって神様が叱責したり叱ったりする時があります。 ただ、アブラムの場合は考えを働かせて悪を行ったり、神様のみことばに従順しないことはなかったので、神様があえて叱責する必要はありませんでした。アブラム自身が気づくように導いていったのです。
しかし、肉の考えを働かせて神様の御心に不従順になったり、悪が発動すれば、これによって神様の責めや叱責を聞いたとき、むしろ喜んで感謝しなければならないでしょう。へブル人への手紙12:7-8に、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とおっしゃるとおり、時には懲らしめられるのが神様の愛であるからです。ですから、本当に父を愛する子供なら、自分が間違って懲戒を受けたときに、それによって寂しがったり落胆するのではなく、その中に込められた父の愛を感じなければなりません。
子供がある過ちをしたときに、それを見てもそのままにしておく親がいるならば、子供の立場でそれがしばらくの間は楽に感じられるかもしれませんが、時間が経つと自分に無関心な親に対して「親は私を愛していないようだ、私がこんなに悪い道に行くのにそのままにしておくのだ」と言って親の愛からさらに遠ざかることになります。すぐには責められて懲戒されることが心に辛く感じられるかもしれませんが、それが愛であることを知らなければなりません。ですから、皆さんも、すべてのことにおいて皆さんを干渉しながら、導いていく父なる神様の愛を感じることで、常に父なる神様の恵みの中に住むことを主の御名でお祈りします。



