朝の学び98 創世記12章
創世記12:8-20
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。。
妻を奪われる訓練を受ける前、アブラムの告白
神様があることをおっしゃる時、人の側で従順できなかったり、信仰にならない場合には、御言葉が成就するのが遅れることもあります。しかし、神様がおっしゃった御言葉は、創造の初めの声なので必ず成就されます。ただ、それがすぐに成就することばなのか、それとも時間が経ってから成就することばなのか、こういう違いはあります。
例えば、イエス様が病気を治す時も、常に初めの声を発せられましたが、ほとんどその場で直ちに癒され、神様に栄光を捧げましたが、ルカ17章に出てくる十人のらい病人の場合は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われた御言葉に従順して行った途中で綺麗に癒されました。このように、本文に神様がアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」とおっしゃった御言葉も、すぐに成し遂げられる言葉ではなく、400年余りが過ぎた遠い後日、モーセを通して出エジプトしたイスラエルの民がカナンの地を征服していくようになって、なされる御言葉だったのです。
私が初めの声を発する時もこんな感じです。すぐにその場で行われ、働かれることが多いですが、時には時間を置いて待たなければならない場合もあります。そして、この時御言葉を受ける働き人の方が、どれほど信仰を持って受けて自分のやるべきことを行っていくかによって、御言葉が成就する時間がさらに長くなることもあり、短縮されることもあります。この時も問題になるのがまさに自分の考えを働かせることです。だから、神はアブラムにこの考えを破る訓練をさせてくださいます。まさに妻のサライを奪われる訓練でした。この訓練を通して、アブラムは自分の考えを徹底的に壊すきっかけになりました。
神様のみことばに直ちに従順だったアブラムでしたが、実際に自分の命がかかった状況になると、神様だけを全面的に頼ることができず、つい自分の考えを働かせたのです。これは、アブラムが神様はどんな方なのか分からないからではありません。アブラムが妻を奪われる訓練を受ける前に、彼が神様の前に祭壇を築いて告白した内容を聞いてみると、アブラムが幼い頃から神様についてどれほどよく聞いて学んで知っていたかがよくわかります。神様が私に教えてくださったアブラムの告白を皆さんにお知らせします。
「すべてのことに信実で完全であり、すべてを導き、働かれる全能なる神様、すなわち私の先祖の神様なる方を、このように賛美致します。まことに、すべてのことを信実で完全に行なわれるその方の御名を賛美し、このようにすべてを指示し、すべてを導いてくださったその方の御名の前にひれ伏します。その方の御名は高く、広大であり、すべてを建てられ、私たちの先祖の主と神となられた、その方の御名を賛美致します。私はその方の御前にこのようにひれ伏し、その方の御名によって私はすべてを信じて従順します。その方の御名の前に、すべてが恐ろしく震え、すべてがその方の足の下にあるからです。その方の御名は広大であり、その方は完全であり、すべての道を指示して導かれます。その御言葉に従順し仕えることが当然であり、すべてがその方の御名の前にあるのです。」
このような告白を通して分かるように、アブラムは神様がどれほど絶対的な存在であり、広大で全能な方なのかを知りました。しかし、このように神について知り、その方の言葉に従ったからといって、彼が完全な者ではありませんでした。皆さんの中にも、おそらく神様がどんな方なのか分からない方はほとんどいないでしょう。しかし、このように知っている次元を越えて、本当に神様の能力を体験し、自分のすべてを見守りながら導いていく神様を体験した時、初めて神様に対する信頼が生まれるのであり、神様との信頼関係も完全になっていくことができるのです。
アブラムも知っていることを完全な信仰に変えていくために訓練が必要だったのです。そのためにはすぐに考えを破る作業が必要だったのです。それで神様はいくらでも先にアブラムに避ける道を与えることができましたが、彼が自分の考えを働かすように放っておいたのです。アブラムが考えを働かし始める過程はこうです。飢饉を避けてエジプトの地に降りて行ったアブラムは、自分の妻のサライのために自分の命が脅かされることもありうるという考えで、妻に「どうか、私の妹だと言ってくれ。」と言います。しかし、この言葉自体が間違っているわけではありませんでした。創世記20:12を見ると、アブラハムが妻のサラについて「また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」と言っています。実際にはサライがアブラムの妹であったことがわかります。腹違いの妹だったということです。
ところが問題はこの言葉が事実かどうかは別として、アブラムが妻を妹だと言わせた動機です。自分なりに知恵を働かせて危機を避けようと考えたのです。そして、果たしてアブラムが思ったように、アブラムは妻を妹と言って命は救うことができました。しかし、アブラムは次に何が起こるかまでは考えていませんでした。これがまさに一寸先も見通せないし、自分の能力で不可能なことの前ではどうしようもない人の限界です。神様はまさにアブラムにこのような事実を徹底的に悟り、以後はただ神様にだけに頼るようにするために、妻のサライを奪われる訓練を許されたのです。前述のアブラムの告白のように、全能で真実であり、すべてを導いていく神様について直接感じ、体験しながら悟らせてくださったのです。アブラムが妻のサライを奪われた訓練については、次の時間に続けてみましょう。
結論
皆さんがあることをするとき、「これが考えを働かせるのか」と、自らは気付かない場合が多いです。自分自身は「知恵がある」と言い、「こうすればうまくいくだろう」と思うのです。あまり原則通りにするのがややもすれば愚かに見えることもあり、「こうすればもっと簡単で早いのに…」 とそれなりに知恵と知識を働かせることもあります。
しかし、コリント第一3:18-20には、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』」と言いました。私たちが主の中では当然賢くなければならないが、世の中の知恵においてはむしろ愚かな者にならなければならないのです。世の知恵は結局肉の考えを働かせ、神様とは敵となる方向に導いていくからです。主の中の知恵は、ただ聖潔で善良なところから来るという事です。
また、箴言16:9に「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」という言葉のようにすべてを主管し、導かれる方はただ一人の神です。アブラムもこれを悟るために訓練が必要だったのです。皆さんもやはり訓練を通してこれを速やかに悟り、世から来る知恵を捨てて、主の中で賢い人にならなければならないのです。人の知恵がどれほど限られたのかを悟り、ただ知恵の根本であり、万物の主管者である神様だけに任せてより頼むことです。従って人の知恵と方法ではなく、神の知恵と方法でいつも凡てのことに通じるように導かれることを主の御名でお祈りします。



