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朝の学び97 創世記12章

9月5日
読了時間: 7分

創世記12:4-7

アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。




信仰の訓練をよく通過するには


前の時間には、アブラムが神様の召命を受け、信仰の父として立てられるための本格的な訓練が始まる過程をお話しました。信仰の父とは、文字通りすべての信じる人々の父を意味します。もちろん、アブラハム以前にも神様を信じる多くの人々がいましたが、神様は初めてアブラハムの時に至って信仰という基準を提示してくださったのです。アブラハムの信仰はすべての人の信仰の基準です。比較の対象としてアブラハムの信仰と比較してみれば、自ら自分の信仰を点検することができるようになったのです。したがって、イエス様がこの地に来て、すべての人の救い主になってくださる前には、救われることが出来る信仰の基準もまさにアブラハムを通してでした。救い主として来られた主を信仰によって、義とされ、救いに至るまでは、アブラハムの信仰と従順と行いが基準となり、救いの線が決まったということです。このように重要な役割を果たさなければならないアブラハムの信仰はどれほど完全でなければならないでしょうか。

したがって、神様はアブラハムの信仰が、どんな傷もしみもない完全な分量に至らせるために、自ら訓練を始めていかれたのです。もちろん、アブラムは、以前からも神様を愛し、畏敬の念をもって仕える人でしたが、以前に聞いて知っていたことを、今は実戦して訓練を受けて行くことで、完全に力にすることができたのです。人がいくら良い環境で神様について聞いて学びながら育ったとしても、神様が望む完全な霊になるためには、とにかく気を通して先祖から伝えられた性格的なものや、本性の中に内在したもの、また肉の環境の中で育つ過程で自分も知らない間に入力された肉的なものを、すべて脱いで捨てなければならないので、訓練が必要にならざるを得ないという事です。このような訓練をよく通過するには、何よりも「自分」があってはなりません。自分が正しいと思って主張する自己的なものがない時こそ、神様のみことばに無条件に従うことで、自分の中にある肉的なものを迅速に取り出してしまうことができるからです。

ところが、私はまさに神様を迎える前に、すでに「自分」というものが徹底的に崩されていました。自分に何かができるという自信も、自分を主張しようとする義も、自分が正しいという知識や考えなど、自己のすべてが徹底的に破られ、なくなった状態で主を受け入れることになったのです。世の中に頼るところもなく、世の中では真の愛もないということを徹底的に悟った状態で主に会ったのです。ですから、主を受け入れて以来、私のすべての心と考えと力と真心も、持っているすべてが誰に向けられたでしょうか。ただ父なる神様だけに向かうようになりました。

これは聖書に出てくるマグダラのマリアも同様でした。前にマグダラのマリアについて説明したように、マグダラのマリアは誰一人頼るところがなく、心身の苦しみによって最も悲惨な状態で主に会うことになりました。家族からも徹底的に捨てられ、さらに七つの悪霊によって苦しんでいたのですから、その苦しみはどうだったでしょうか?このようなマグダラのマリアが主に出会い、すべての問題を解決され、新しい人生を始めることができたのです。だからマグダラのマリアは主に会って以来、自分のすべてをただ主のみのために献身することができたのです。

このように「自分」が徹底的に壊れた状態、心の中に世の中の何もない状態、心が貧しくて心が極めて低くなった状態で、まさにこのような状態になったために、主をまず第一に愛し、主の御言葉にただ従順だけが出てきたという事です。そして、このような心が最初だけそうだったのではなく、最後まで変わらなかったので、マグダラのマリアは神からそのように愛される女性になることができました。ですから皆さんも霊に、全き霊に迅速に入るためには、まず世で作ってきた「自分」というものを、徹底的に壊してしまわなければなりません。世の中のどんなものも愛したり頼ろうとしてはならず、ただ主だけが人生の全てであり、頼る対象にならなければならないのです。アブラムもまさにこのような姿になるために訓練を受け始めたのです。

神様と交わりを遂げ、ただちに従順したアブラム


神様はアブラムと交わるとき、自ら御声を通して働かれることが多かったのです。旧約時代には内には聖霊様がいらっしゃるのではないので、神様が自ら御声で交わりをされたり、外部から聖霊の感動を通して働かれました。そしてアブラムは神とこのように交わることについて、すでに先祖を通して聞いて知っていたので、神が彼に御声で働かれた時、その声を疑うとか躊躇したりしませんでした。聞いた瞬間、「これは神様の声だ」と分かりました。もちろん、神様に直接対面したこともあります。ソドムとゴモラを審判する前には、神様が直接アブラハムに会ってくださるのを見ることができます。

さらに、本文7節のように「そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」とあるように、神様がアブラムに現れておっしゃる場合は、神様の御声だけでなく、一緒におられるという兆しを感じることができます。もちろん、この時、神様がアブラムに現れておっしゃったからといって、神様の本体が直接来られたわけではありませんが、まさに神様の栄光の光の中の声音として働かれました。栄光の光は肉のことばで説明すると、まるで白い煙のようで、このような煙のようなものが垂れ下がった中から音声が聞こえてくるのです。このように、アブラムは神様との交りを通し、あるお言葉や指示を受けた時に直ちに従順が出たのを見ることができます。

しかし現実から見ると、ある言葉や指示を受けたときにすぐに従う場合は多くありません。自分の考えを働かせて、従うことができる限界内でのみ従順だったり、最初から考えに阻まれて従順になれない場合が多いです。肉の考えを働かすだけに、完全な従順から遠ざかるという事です。


しかし、アブラムは考えを働かせれば従順しにくい言葉であるにもかかわらず、本文4節「主がお告げになったとおりに出かけた。」と言われたとおり、すぐに従順したことがわかります。 彼の父テラが205歳を生き、アブラハムが175歳を生きたことを考えると、75歳は年齢が多い年ではありませんでしたが、カランに定住して経済的な基盤を固め、先祖代々生きてきて多くの親戚が共にする生活の基盤を一日で後にして去るということが肉の考えを働かせるならば決して容易なことではありません。しかし、アブラムはすぐに神様のみことばに従いました。この時、神様は再び現れて契約の言葉をくださいます。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と言ったのです。これはまさに父なる神様のはじめの声であり、この御言葉はそれから約400年余りが過ぎた後にそのまま成就されることがわかります。

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