朝の学び92 創世記11章
創世記11:5-9
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
三位一体の神様が自ら降臨される
続く7節を見ると、「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」と言いましたが、これはこの地に降りてくる主体が一人ではないことが分かります。父なる神様が一人でこのことを成し遂げたのではなく、三位一体の神様が一緒に成し遂げた事を物語っています。太初に天地を創造するためにこの地に降りてくる時も、3人が一緒にいたように、この時も3人が直接一緒に来て、すべてをご覧になり決定したのです。
このように、神様はあることを成し遂げるにあたって一人で決めて行なうのではなく、三人が一緒に話し合い、決定しています。三位一体の神様は、お互いがお互いを尊重され、別々ではなく、おひとりとして働かれます。もし三人がそれぞれの思い通りにされて違うならば、人間耕作の歴史は一貫性がなく進むこともできたでしょうが、いつも心を一つにして物事を成し遂げるためにすべてが一寸の誤差なく摂理され、計画されたとおりに成し遂げられるのです。
ここで私たちがただ通り過ぎてはならないことがありますが、まさに三位一体の神様が自らこの地に来られたという部分です。神様はこの地にあえて降りてこなくても、人々がなぜ町と塔を築いており、その心に何が含まれているのかまですべてを知っておられます。また、直接降りてこなくても、いくらでも人々の言語を混乱させることができます。それでも、三位一体の神様が自ら降りて来られたのは、すべてのことを直接もう一度確認し、正確な公義の中で事を成し遂げるためです。
神様はソドムとゴモラの地を審判される時も、すでに彼らの罪悪を知っていましたが、もう一度使者を送って確認させています。創世記18:20-21に「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』」この地の状況を直接調べるために、自ら二人の天使を連れて降りてこられた神様は、まずアブラハムに現れ、将来ソドムとゴモラにある審判について教えてくださいます。そして、二人の御使いを直接ソドムに送り、そこの状況を調べさせました。二人の御使いを通してソドムの罪悪がどれほど蔓延していたのかを直接確認した後、硫黄と火でそこを審判されたのです。
このようにバベルの塔の事件の時にも、三位一体の神様は、自らこの地に降りてきて、すべてのことを察して決定されたのです。これは、三位一体の神様が自ら見て決定するほど、バベルの塔の事件が人間耕作の歴史の中で重要な事件であることを教えていると同時に、神様がすべてのことを処理するにあたって、どれほど正確な公義の中で成し遂げられるかを示しています。詩篇96:10に、「国々の中で言え。『主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。』」とおっしゃったとおり、神様は少しの偏りもなく、ただ公議の中で公平に行なわれるという事です。
言語の混乱
では、神様は果たして人々の言語をどのように混乱させたのでしょうか。また、言語が混乱した人々の反応はどうだったのでしょうか?神様はあっという間に言語を混乱させました。これから時が来れば説明しますが、神様がこの肉の空間の中で霊の働きを行う時は、それぞれ時間を伸ばしたり、時間を減らしたり、時間を停めたりする中で一つの場合を通して繰り広げられます。ところで、言語を混乱させたのは、その中でまさに時間を停めて起こったことでした。これは簡単に言って、あまりにも早く瞬時に起こったと理解してください。それで人々は自分たちの言語が変わったという事実さえ感じられず、依然として以前に使っていた言語をそのまま使っていると思いました。
このような状況の中で、人々はお互いの言うことを理解できなくなると、「以前は私たちがお互いに会話するときに通じたが、今はなぜ会話が通じないのか?変だな」こう思いながら離れ去っていくしかありませんでした。そして自然にバベルの塔を積むことが中断され、人々は言語が通じる人同士が集まって、散らばっていくようになりました。8-9節に、「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」とある通りです。
また、神様は言語を混乱させ、部族や部落別に言語が分かれるようにしましたが、彼らは一つの集団を成して、それなりの正統性と特殊性を維持しながら、ますます大きな集団に成長することになります。そうしながら、一つの民族となり、一つの国を形成していきます。
神様が彼らを地の全面に散らされたという言葉のように、言語が混乱するこの事件を契機にして人類は初めて全地に広がり、多様な民族と国家を形成するようになったのです。ところが、人々がこのように散らばったことで、それぞれ定着する土地を探して移住することが、表向きには、自分たちの意志によって望む所に行くように見えました。しかし、その中には彼らの先祖を通して、それぞれの種族に与えられた祝福と呪いの言葉を叶えるための摂理が含まれていたという事です。つまり、セムとハムとヤペテに与えられた祝福と呪いの言葉に従って、彼らは自分たちが耕作される土質に合った場所に正確に移動したのです。
もちろん、種族と種族が混ざり合ったり、共存したり、また同じ種族から離れていった群れもいたはずです。しかし、それぞれの種族の主流は、セムとハムとヤベテに与えられた父ノアの言葉に従って、そのまま応じていったということです。そうしながら、強くて裕福な国と民族が出たり、相対的にそうでない国と民族が出たりして、今日のように人間耕作の歴史が続いてきたのです。10節からはノアの正統性を受け継いだセムの子孫たちの系図が出ていますが、次の時間には信仰の先祖アブラハムが出るまでの過程について見てみたいと思います。
結論
最初に先立って父なる神様はこの地に自ら降臨しながら、自らも公義の法則を破らないように霊の空間と肉の空間を結ぶ通路を通られたと話しました。万物の主菅者であり、主人であり全能者ですが、神様は持っていらっしゃる権勢を勝手に使う方ではなく、自らが定めた法則もまた正確に守られるという事です。私もこのような父なる神様の属性をよく知っているので、私自身も教会の法の枠を外れたこともなく、堂会長として私に与えられた権勢だとしても、それを任意に行使したことがありません。
しかし、世の中ではどうですか?権威や名誉が与えられると、それを利用して法の枠を超えることもあり、自分が定めた規範や約束さえも自分の利益に合わないとあまりにも簡単に変えてしまいます。しかし、主の中では権勢があり高い地位にあるほど、法と秩序をよく守り、他の人々の手本にならなければなりません。「私は例外だから」と思ってもならず、自分の利益を追って法と秩序を崩すこともあってはなりません。
また、父なる神様は霊の法則だけでなく、この地に立ててくださった肉の法則も尊重されるように、皆さんも霊的な面ではもちろん、肉的な面でもひっかかることがないように、霊肉間に秩序と法をよく守ってください。もちろん、霊的なことが常に優先されなければならないが、肉的にも欠けていないように、すべてをあまねく調べなければならないということです。
そして、みことばを通してもうひとつ悟らなければならないことは、父なる神様があることを決めるにあたり、公義の中で正確に判断されるように、皆さんも何事にもそうでなければならないということです。三位一体の神様は、バベルの塔を積むところに親しく降りてこなくてもよかったのですが、それにもかかわらず、自ら降臨されて、もう一度すべてを調べて決められました。
このように私たちもあることを決定するにあたって決して片方の言葉だけを聞いてはいけないのです。必要に応じてもう一度確認して確認しなければならない時もあるという事です。決定を下したほうで簡単に行うことができますが、ややもすると不公平な決定のために当事者が受けなければならない苦痛を考えるならば、レビ19:36に「正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。」とおっしゃった通り、すべてのことに公平でなければならないのです。
それでも、最後まで忍耐して我慢し、信仰で見てくださる神様の心のように、どうすれば「相手を生かせるか」という心で決定を下さなければならないのです。肉的なことだけを考えるなら、左右に偏らないように公平にすればいいのですが、霊的には公平でなく、ヨハネ6:63に「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」という御言葉通り、常に生かす「霊」を選ばなければならないという事です。
私も今まで教会を治めてきて、いつも公平に物事を処理してきましたが、それでも結局はいつも生かす側、何とかもう一度機会を与える側、このように霊の方法を選択してきました。このような私の姿を見ながら、時には周りの働き人が理解できない場合もあったでしょう。しかし、私がこのように、父なる神様の心でいつも霊の方法を選択してきたので、今の主のしもべと働き人が出てくることができたという事です。ですから、皆さんも愛と公義の調和の中で神様の働きを成し遂げますが、何が本当に神様の国のためのことか、何が本当に父なる神様の意志なのかをよく見て下さい。それでいつも父なる神様が望む道にだけ導かれていくことを主の御名でお祈りします。



