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朝の学び91 創世記11章

9月5日
読了時間: 11分

創世記11:5-9

そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。




はじめに


父なる神様は、初めに天地を創造するために、自らこの地に降りて来られました。霊の空間におられる神様が肉の空間であるこの地に降りて来られたのです。創世記1:2後半に、「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と言われた言葉は、その時の状況を示しています。そしてその後も人間耕作の歴史上の働きの中で神様が自らこの地に降臨された場面が聖書には何度も記録されています。

例えば,出エジプト記19:18「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」とあります。民数記 11:25には、「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。」創世記17:22には、「神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。」とあり、神様がアブラハムと対話するために自らこの地に降りてこられたという事を話しています。本文5節以下にも、神様が自らこの地に降臨された事件が記録されていますが、果たしてどのようにしてこの地に降りて来られたのでしょうか。

神の降臨事件


以前に霊の空間と肉の空間の間を行き来するためには、通路のような場所を通過しなければならないと言いましたが、父なる神様もこの通路を通って降りてきました。もちろん、神様はあえてこの通路を通る必要もなく、いくらでもこの地に降りてくることができます。神様は時間の流れの変化にいかなる拘泥(他に選びようもあるのに、一つのことにこだわること)も受けられないだけでなく、いずれにしても肉と霊のすべての空間は神様に属している空間だからです。それでも、神様がこのように霊の空間と肉の空間を結ぶ通路を通ってこの地に降臨された理由は、まさに自らも公義の法則を破らないようにしたのです。

このように神様が自らこの地に降臨された時、当時の肉の人々は神様にお会いすることも、神様の降臨を感じることもできなかったという事です。神様は肉の目でお会いできる方ではないからです。しかし、霊の目が開かれて神様と交わる人々は、霊に入った深さによって違いはありますが、神様にお会いすることができます。もちろん、親しく対面して神様の形状を見ることができるのではなくても、神様が許される範囲内で神様にお会いして感じることができるのです。

例えば、モーセ預言者の場合を見れば、出エジプト記33:20-23に、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

神様と明らかに交わっていたモーセ預言者でしたが、父なる神様の本体が降臨された時は、その形状を正面から直接お会いできたのではなく、後ろ姿だけ見ることができたという事です。ところが、民数記12:8の前半には、「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。」とおっしゃったので「神と対面する」という言葉の意味をよく分別しなければなりません。出エジプト記33:11にも「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。」とありますが、実際に神様の本体が降臨された時はモーセが直接神様と対面できなかったことを知らなければなりません。

なぜでしょうか? 

これは神様がエデンの園のアダムと同行してくださる時や、エノク預言者と同行してくださる時を考えてみてください。以前に創世記の講解で説明したように、神様はエデンの園のアダムと同行してくださいましたが、だからといって神様の本体が直接エデンの園に降りて来て一緒にしたわけではないと話しました。第二の天と第三の天を結ぶ通路を通して、まるで顔と顔を会わせながら一緒にいるように明るく交わることができましたが、これを指して同行してくださったのだと話しました。

エノク預言者の場合も同様です。神様はエノク預言者と300年間同行してくださいましたが、この時もいちいち毎回この地に降りて来てエノク預言者と同行してくださったわけではありません。霊である父なる神様は、霊を分離することができるので、ほとんどの場合、本体が直接動くのではなく、分離された霊の分体が働かれるのです。したがって聖書に同行してくださるということは、直接神様の本体が降りてくるのではなく、分離された神様の霊が常に共にしながら交わってくださることを意味するのです。

預言者モーセもこのような場合です。神様がモーセと対面して明確におっしゃるからといって、いつも本体が直接降りてきて対話したのではなく、霊に交わってくださるのです。しかし、被造物として父なる神様と霊で交わることは、簡単な霊の次元でできるわけではありません。まさにモーセ預言者のような方であったので、神様と霊でまるで対面するように明らかに交わることができたという事です。しかし、このようなモーセ預言者でも、父なる神様の本体がいらっしゃった時は状況が変わったのです。いくら穏やかさが地のすべての人よりも優れて全家に忠実だったモーセでしたが、復活体の体を着ているのではない限りは、肉の体を着ているという肉の限界によって、父なる神様の本体に親しく会うことは出来ませんでした。

これは預言者エリヤを見てもわかります。天国では序列が高い預言者エリヤでしたが、父なる神様に直接お会いすることはできませんでした。列王記第一19:11-13「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。『エリヤよ。ここで何をしているのか。』」

父なる神様は預言者エリヤの前を通り過ぎましたが、預言者エリヤもやはり神様に親しくお会いしたのではなく、ただ父なる神様の臨在を感じることができ、声だけを聞くことができたのです。しかし、預言者エリヤや預言者モーセのように聖潔にされ、神様に似た人々であったので、神様は後ろ姿を見せてくださるか、臨在していることを感じられるように兆し(しるし)として示したのです。しかし、肉の人々は肉の目で神様にお会いすることもできないだけでなく、見せてくださるとしても、それに耐えられません。

また、神様が降臨される時、肉の目で見られる証拠を一緒に示してくださらなければ、肉の人々は神様が降臨されたという事実さえも感じることができません。それで、神様はシナイ山に降臨される時は、火と煙と山の振動で働かれ、民たちに神様の降臨を間接的にでも分かるようにしてくださったのです。しかし、霊の人であれば、たとえ神様が降臨される時に、どんな目に見える証を示さなくても、霊的な気配オーラ(オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギー を意味する。転じて、ある人物や物体が発する独得な、または霊的な雰囲気や、なんとなく感じる力、威圧 .)を通して感じることができます。

さらに、聖霊の時代なら、当然内住される聖霊様が神様の降臨を聖霊の感動の中で感じられるように働いてくださいます。ところが、本文の背景になる当時は、神様が降臨しても、その場面を見られる人がいなかったし、感じられる人さえいなかったという事です。神様の方でも彼らに目に見える兆しとして働いてくれませんでした。


神様が自ら降臨して言語を混乱させた理由


続く6節では、神様が自らこの地に降臨して、言語を混乱させた理由が出ています。「「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」と話しています。父なる神様は初めて人間耕作を始め、すでに最後の時まですべてを摂理しておきました。だからといって、あらかじめ予定しておいたという意味ではなく、ただ神様はすべてを知っているので正確な時点に合わせて必要な状況と条件が成されるようにされるのです。

例えば、神様は、人類の救いのために救い主となるイエス様がいつ生まれるべきかを既にご存知なので、イエス様が生まれるべき正確な時点に合わせて、周辺の状況と条件を作っていきました。イエス様がどこで生まれるべきか、誰がイエス様の誕生を予備するようにすべきか、どんな親の下で生まれるようにすべきかなどを一つ一つ予備されたのです。バベルの塔の事件をきっかけに言語を混乱させたのもこれと同じです。

神様は人々がバベルの塔を建てることを全く知らずにいましたが、その時になって、突然人々がバベルの塔を建てるのを防ぐために言語を混乱させたのではありません。すでにすべてを知っていて、その時に合わせて言語が混乱するように働かれたのです。父なる神様の計画の中で人間耕作のためには人類が一つの言語、一つの民族になってはならなかったので、神様は人間たちが自らの傲慢さの中でいつ頃バベルの塔の事件を起こすことになるかをあらかじめご存知で、その時に合わせて人類の言語と民族が分かれるように働かれたということです。

したがって、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。という言葉が文字的に見ると、人々が一つの民であり、一つのことばであるため、バベルの塔の建築も計画できたので、これ以上バベルの塔を建てることができないようにするために言語を混乱させるという意味に見えます。 


しかし、実際にはすべての将来のことを知っている神様が、時を正確に合わせて言語と民族を分けることで、今後進行される人間耕作のための環境を、完全に整える契機にしたという事です。また、全世界に多様な民族と言語を持った人々を通して人間耕作を成し遂げようとする父なる神様の摂理された御心が、バベルの塔の事件を契機になされるようになったということです。

もう少し具体的に説明すると、父なる神様は太初に人間耕作を始めてから、すでに人類の歴史の最後まですべてを知って計画し摂理されました。例えば、人間耕作のモデルとなる選民イスラエル民族が必要であることも、そのイスラエル民族を通して救い主が生まれ、救い主を通して福音が全世界の民族と国々に伝えられなければならないことも、すでにご存知で摂理しておいたのです。また、将来、人類の歴史の中で数多くの国と民族が出てきて、彼らがお互いにどんな関係の中で最後まで至るようになるかも摂理しておきました。

これを何かにつけて誤解すれば、まるで神様の側で一方的にすべてを決めておいて成し遂げられると考えられるが、これはあくまで予定ではなく予知予定だという事を知らなければなりません。人類がどうなるかを既に知っている中で、それに合わせて摂理しておいたということです。このような神様の摂理を成し遂げるためには、全人類が一つの民族として一つの言語を使う状態ではありませんでした。ですから、すべてを予知される神様は、バベルの塔の事件があることと、それがいつに起こるのかを既にご存知であり、その時に合わせて言語と民族が分かれるように予知予定の中で働かれたのです。

これは、皆さんが予定と予知予定の間の明確な違いに気づいたときにのみ理解できる内容ですが、簡単に例を挙げて説明します。もし神様がある学生に「今回の試験で一位になるだろう」とおっしゃったとしたら、これが予定でしょうか。そうではありません。予定なら全く勉強をしなくても当然1位にならなければならないでしょう。しかし、この学生が勉強をしなければ、公義によって決して試験で1位になることはできません。しかし、神様がこの学生に1位になるとおっしゃったなら、それは彼がこれからどれほど熱心に勉強することまであらかじめ知っておられておっしゃった御言葉なので、この学生は結局一生懸命勉強して1位になることになります。

そのため、予知予定には自由意志が入るという事です。予定なら既に決まったことなので、自由意志の中で従順しなくても行われますが、予知予定は従順になることまでご存知で決めたことなので、必ず自由意志の中で従順の行いを見せるときに行われることになるのです。したがって、神様がある御言葉を下さった時、自由意志の中で自ら従順でなければ、御言葉通りに成し遂げられないことであり、これは神様のみことばが間違っているわけではないという事を知らなければなりません。

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