朝の学び90 創世記11章
創世記11:4-9
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
バベルの塔
続く4節では、バベルの塔の建築を計画する意図がよく表れています。「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」ところが、この言葉の中に込められているそれぞれの種族の隠れた真意は互いに違っていたという事です。これはどういう意味でしようか?前述のように、ハムの子孫は自分たちの優越性を表し、自分たちの正統性を主張しようとする意図で他の種族まで一箇所に集めてバベルの塔の建築を計画しました。「われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」という言葉の中には、このようなハムの子孫たちの意図が込められています。表向きは「われわれ」と言って、すべての種属を包括するかのように述べていますが、実際にはハムの子孫自身の名誉を高く表わそうとする気持ちが込められていたのです。しかし、バベルの塔の建築には、単にハムの子孫が自分たちの優越性を示し、正統性を主導していこうとする意図だけ込められていたのではありません。
彼らのより深い心の中には、まさに神に対抗しようとする心がありました。これまで呪われた種族として劣等感の中で生きなければならず、それによって神様からもますます遠ざかるようになったことに対する一種の反発心があったのです。しかし、このような心を直接表すことはできないので、ハムの子孫は、バベルの塔の建築の目的を表面的には「われわれが全地に散らされるといけないから。」と言います。まるで元々は皆がノアの子孫として一つの種族だった三つの種族がこれからは一つになって散らばらないようにするためにバベルの塔を建築するように言っています。
そして、セムとヤペテの子孫は、ハムの子孫の本音は知らないまま、彼らの提案に同意して、バベル塔の建築に参加することになります。したがって、セムとヤペテの子孫がバベルの塔の建築に参加するようになったのは、ハムの子孫が目的としたものとは違ったということです。セムとヤペテの子孫たちは、神様に対抗しようとする心は少しもなく、「全地に散らされるといけないから」としたことも、創世記9:1「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という神様の命令を破ろうとしたわけではありません。ただ、自分たちはみんなが一人の父から出てきた一つの民族であることを記念しようとする心で、それなりに象徴的な意味を込めて一つの建築物を建てようとしたのです。今はたとえ自分たちが散らばって暮らしていますが、私たちは皆一つから出てきたという事実を忘れてはいけないという意図で、バベルの塔の建築に参加したということです。
このように、バベルの塔の建築が結果的には神様に対峙する象徴物として建てられたが、実際にその事に参加した人々皆が神様に対抗しようとする意図があったわけではありません。ニムロデを中心とするハムの子孫だけが不純な意図を持っていたので、セムとヤペテの子孫はこのようなハムの子孫の本音を知らないまま純粋な意図で参加しようとしたが、ハムの子孫によって利用されてしまったのです。
では、当時彼らが計画していたバベルの塔の規模はどのくらいだったのでしょうか?これは深い祈りの中で幻想的に見せてくださった内容ですが、当時彼らが最初に計画していたバベルの塔の高さは、今日の建物の約15階ほどの高さでした。その形はピラミッドのような形をしており、レンガと瀝青で積み上げた建築物でした。15階建ての高さであれば、今日の建物の一階を約3.5メートルと捉えたとき、50メートル強の高さです。今見るとあまり高い高さではないかもしれませんが、当時としては決して低い建築物ではありませんでした。
創世記10:12に述べているように、すでに「レセン」という大きな城を建てていたハムの子孫は、これまで積み重ねた技術と知識と経験をもとに、バベルの塔の建築を主導し、これにはレンガと瀝青を使用する技術が用いられました。単に自然でとった石を削って積むレベルではなく、レンガを焼いて使う技術を持っていて、泥の代わりに瀝青を使う方法も知っていました。しかし、このように積み上げ始めたバベルの塔を、最初の目標とした高さほど積み上げたわけではありません。神様がこの地に降臨されて彼らの言語を混雑させるので、工事は中断されてしまいます。そして、このように工事が中断されるまで、その時間がとても長かったわけでもありません。1、2年という短い時間ではありませんでしたが、建築を始めて中断されるまでの時間が5年を超えたわけではないということです。バベルの塔の建築が中断される事件については、続く5節から次の時間に見てみます。
結論
今日はこの地に最初にあった言語がどんなもので、バベルの塔を建築することになった目的についてお話しました。しかし、今日の御言葉を通して霊的に大きく二つの面について悟らなければなりません。 一つ目は、「霊的にも統一された一つの言語の時だけが互いに通じることができる」ということです。肉的に見ても、人の間でお互いに意思疎通ができ、何か自分が持っていることを他の人に伝えるためには言葉が通じなければなりません。お互いに通用できる一つの言語が必要です。そうでなければ、お互いに通じ合うことはできません。これは霊的にも同じで、肉の言葉を話す人と霊の言葉を話す人とは通じ合わないという事です。
例えば、皆さんもこの真理を知る前には、口から様々な世の中的な言葉が出てきたはずです。ところで、もう、真理を知り、神様の御心に従って変化していくうちに、どうなりましたか? 皆さん自身も皆さんの唇の言葉が変わってきていることを感じると思います。また、このように唇が紳聖に変化していくと、いつのまにか以前に会っていた世界の人々とは、対話が出来ないということを感じるようになります。確かに同じ韓国語を話しているのに、肉的な言葉と霊的な言葉は通じあわないからです。代わりに、霊的な言葉を話す人とは、その会話がとても楽しくて幸せで、霊の会話を交わすことができる相手がいるという事に感謝します。
もう一つの例をあげると、もしある人が肉の言葉を話すとき、皆さんがそれを肉で受けずに、霊で受けることになれば、その対話はこれ以上行われないという事です。普通の人が集まって他人を判断し、罪を犯すのを見ると、それはお互いに言葉が通じるからです。肉の言葉は互いに通じるものです。しかし、もし皆さんがそのような場所にいるとしたら、たとえ誰かが他の人を判断して、罪を犯す言葉を言っても、皆さんがそれを受け入れてあげないと、その会話は自然に途切れてしまいます。また、皆さんが他人の過ちについて聞いたとしても、皆さんがこれ以上それを言葉で伝えなければ、他人の過ちが広がらないようになります。
霊的に見ても、言語が互いに通じてこそ判断し、罪を犯し、ひそひそ話すことが出来ますが、このように皆さんが肉の言語ではなく霊の言語だけを使えば、非真理が伝えられないのです。だからといって、肉の言葉を話す相手を恥ずかしくさせたり、刺す言葉で会話をやめろという意味ではありません。本当に皆さんの唇から良い言葉、美しい言葉のような甘いものを出すと、自然に苦い水を出す唇は閉じられます。そんなとき、出エジプト23:1に「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。」という言葉のように、肉の言葉は口にすることも、伝えることもなくなるのです。天国の民として、常に愛の言葉、真理の言葉、善良な言葉、聖なる言葉などの美しい霊の言葉だけを使用できることを願います。
今日の御言葉を通して悟らなければならない二つ目は、同じ罪でもどんな心で犯したかによって、罪の軽重が変わるということです。一緒にバベルの塔の建築に参加しましたが、神様がハムの子孫に問う罪の値と、セムやヤペテの子孫に問う罪の値は違うという事を知らなければなりません。ハムの子孫たちはすでに心に不純な意図を持って意図的に神様に対抗したのであり、セムとヤペテは神様の御心を気づいていないので、つい不義なことに参加することになったのです。したがって、その中心をご覧になる神様は、表に現れた同じ罪の行いに対しても、その中心を推し量って罪の軽重を問うという事です。
ルカ:12:47-48 前半を見れば,「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。」とあります。主人の意志を知っていながら、その通り行わなかったということは、故意に主人の意志を踏みにじったということで、知らずにしなかった人とは状況が違います。それだけ心に悪を持っているのであり、主人の命令に対する明白な反発です。ハムの子孫の状況がまさにこのようだったのです。
しかし、だからといって、セムやヤペテの子孫の罪は小さいという意味ではありません。ハムの子孫に比べて小さかったのですが、セムやヤペテの子孫も霊的に目覚めていれば、ハムの子孫のねじれた心の策略に陥らないことができました。言葉がいくらもっともらしく聞こえるとしても、霊的な分別力があったとすれば、神様の前にバベルの塔を積むことが神様の御心に合わないことに気づいたはずです。
太初に霊界でルシファーが反乱を起こすようになった原因が、まさに神様のようになろうとした高慢だったように、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」という言葉の中には、敢えて被造物として自ら高めて天にたどりつこうとする傲慢さが込められています。霊的に目覚めていたら、自分たちのこのような考え自体がすでに神の前に高慢だったという事に気づいたでしょうが、セムとヤペテの子孫たちはそうではありませんでした。
これは今日も同じです。敵である悪魔サタンが惑わそうとする時は、もっともらしい言葉で接近してきます。この時そのような言葉を真理でよく分別すれば、決してその偽りを見過ごすことはないでしょう。しかしまさに心に欲があるので、自分の利益に合う言葉には耳寄りになり、結局迷いこんでしまうのです。このような事実をよく肝に銘じ、皆さんは霊的にも常に目を覚ましていなければならないのです。そして敵である悪魔サタンに惑わされ、神の意思ではないと知りながら悪を行っていくことはあってはならないでしょう。ただ父なる神様の善を喜び、完全な御心が何なのか分別して、常に真理の道に導かれることを主の御名でお祈りします。



