朝の学び86 創世記9章
創世記9:24-29
ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。
序論
皆さん、酒から覚めたノアは、息子のハムが自分にしたことを知り、それによって息子ハムに対して呪いをかけることになります。本文に見ると呪いの対象がカナンになっていますが、これはハムと彼の子孫の両方に該当するのです。
セムとハムとヤベテの祝福と呪い
創世記9:18にハムをカナンの父と記録しているように、ハムには多くの息子がいたにもかかわらず、彼を特別にカナンの父と記録したことは、ハムの種族の正統性を将来、息子カナンが引き継ぐことになるという事を物語っています。まるで複数の子どもを持つ父親がいると言う時、人々はたいてい長男の名前を挙げて「○○の父親」と呼びますが、それよりは必ずしも長男でなくても、子供たちの中で非常に優れているか、出世して家門を代表して引き継ぐほどの子供がいる時は、むしろその子供の名前を挙げて「誰々の父親」と呼ぶようなものです。ハムの種族も息子の中でカナンが系図の正統性を続け継いでいく息子だったので、結局このようにハムの正統性を受け継いだ息子であるカナンに対する呪いは、 すなわちハムの種族全体に対する呪いのようなものです。
そして、この呪いによってハムの種族は霊的にはもちろん、肉の秩序上においても兄弟の中で最も低い位置に置かれています。「兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」と言ったので,ハムの種族は将来人類の歴史において他の兄弟の種族と比較すると、しもべのような位置にしか立たなくなります。人類の歴史を導いていく上で、主役の位置に立つことができないまま、ただ周辺人物としてしか役割を果たせない立場になったのです。
一方、息子セムとヤベテには祝福の言葉が宣言されます。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」と言いました。この御言葉の中には、将来ノアの三人の息子たちを通して広がっていく子孫たちが、果たしてお互いにどのような秩序関係を持つようになるのかが込められています。セムに対しては、「ほめたたえよ。セムの神、主を。」という保証と祝福が与えられており、これを通してノアの正統性を息子セムが受け継ぐことになるという事実もまたわかります。次に、ヤペテについては、「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」とおっしゃったとおり、ヤペテも多くの繁栄と祝福があることがわかります。
しかし、セムのように正統性を受け継いだ一つの主体として祝福を受けるのではなく、その祝福がただセムの幕屋に一緒に居ながら与えられることになるという事です。したがって、ヤベテが祝福と繁栄の約束を受けて壮大に伸びていくことはできますが、結局ヤベテも神様の側から見る時は、人類の歴史の中心にいることはできないのです。それはまるでロトが大きく祝福を受けることができたのが叔父であるアブラハムの中に居たためだという事と同じ理屈だと言えます。
一方、カナンはこのようなセムとヤベテのしもべになると言っていましたが、これは実際に後日セムの子孫であるイスラエル民族によってカナンの地が征服されてから行われます。当時、カナンの地に住んでいたカナンの子孫たちが、次々にイスラエル民族によって征服され,彼らのしもべになってしまったのです。また、ハムの子孫である今日のアフリカの様々な種族も、過去の歴史の中で、ヤペテの子孫であるヨーロッパの種族によって奴隷として多くの受難に遭わなければなりませんでした。しかし、カナンがセムやヤペテのしもべになるということには,このように直接的に僕になるという意味とともに、彼の子孫が将来、不毛と苦痛と迫害の中で生きていくという意味が込められているという事です。
そして実際、今のアフリカの種族の多くは、飢餓と苦しみと迫害の中に生きており、かつてカナンの地を征服して生きたハムの子孫も、イスラエル民族によって追い出されるようになってからは、イスラエルによって主導される歴史の流れの中で、苦痛と迫害を 受けながら生きていくようになります。もちろん、神様が赦されるときには、彼らによってむしろイスラエルが苦痛を受ける時もありましたが、結局神様が導いていかれる人間耕作の歴史において、ハムの子孫は決して主体になることができず、付随的な役割しかやり遂げられないのです。僕 奴隷 とは支配されるという意味であり、自分のものはなく、すべてを放棄して渡すしかない立場なので、ハムの子孫は歴史の流れの中でそのような立場に置かれるようになったのです。
たとえ霊的な権威の中ではなくても、当時の肉的な秩序の中で、神様から保障される権威を持っていたノアの一言が、このように後日、人類の歴史の流れを決定づける契機となったのです。私たちはノアの場合を通して、権勢というものがそれを所有するよりも、使用することがはるかに重要であることを知らなければなりません。権勢とは、それを持つ人によってどのように使うかによって、いくらでも善の道具になることもあり、逆に人を苦しめる道具になることもあります。権勢が真理の中で美しく使われるならば、それは多くの人を生かして喜ばせるが、非真理として誤って使われると多くの人を苦しめ、苦痛の中に陥れるかもしれません。
箴言29:2には「正しい人がふえると、民は喜び、悪者が治めると、民は嘆く。」と言いましたが、皆さん自身は自分を考えるとき、皆さんが権勢を握れば民が喜ぶでしょうか? それとも、民が嘆くのでしょうか?権勢とは、握って振り回す時ではなく、むしろ仕えの道具として使われるときに、本当にその価値が美しく輝くという事実です。ですから、神様の息子になった権勢を持っておられながらも、ただ仕えの模範を見せられたイエス様のように、皆さんもやはり自分に与えられる小さな権勢でも、仕えるための美しい道具としてご使用いただきますよう、主の御名でお願いいたします。
非真理の道に陥るハムの子孫
ノアから呪いを受けたハムは、以後ますます心が神から遠ざかっていきます。根本に内在する肉の属性が出てくるからでもありますが、呪いが宣布されてからは、彼の考えがますます父から受けた教えとは遠ざかっていったのです。これは、まるである子どもが大きな過ちによって、「自分はもう父親から捨てられ、自分の将来もやはり見こみがない」と考えるときに、むしろますます両親の言うことも聞かなくなり、非真理の道に陥っていくようなものです。
サウル王の場合を見ても、彼は自分の過ちによって神様が自分を捨てたという事実を知ったときに、徹底的に悔い改め振り返ろうとするよりは、弁解することに汲々とし、その後はむしろさらに悪しく、神様の御心に対抗していったことが分かります。むしろ彼を王として油を注いだサムエル預言者まで、サウルを恐れて避けたのを見ることができます。ハムの父であるノアから呪いの言葉が届くと、何とか父の心を変えようとしたのではなく、むしろ父の意志に敵対する方にだけいってしまったのです。
このような姿は今日でも見られます。例えば、ある人が神の御前に大きな罪を犯したときに、神様が誰かの唇を通して、そのような罪の結果がどのようなものかを悟らせてくれる時があります。その言葉を聞いて悔い改め、立ち返ることを望んでいるのです。それなら、この時、そのことばが自分に当てはまると思う人は、当然その場で悔い改め振り返って、神様の御心通りに行っていかなければなりません。ところが、このような場合、ある人は自分の考えの中で「私はもう赦されないようだ」「私には呪いが臨む」というように断定してしまいます。そうしながら悔い改めるよりは、自暴自棄になって、ますます深い罪の中に落ちていきます。
これはまさに神様の愛を知らないからです。私たちの罪を赦してくださるために、一人子の息子までも与えてくださった神様の愛、七度を七十倍するまで(マタイ18:22)赦して、いたんだ葦を折らず、くすぶる灯心を消すこともない(マタイ12:20)主の愛を心から感じることができないからです。本当にこのような主の愛を感じる人なら、主が罪を指摘し悟らせてくれた時に、たとえ今の自分の姿によって主の前にあまりにも恥ずかしくても、再び主の前に進み許しを求めるでしょう。しかし、このような愛の心を感じられないときは、主の前に再び進む力さえ得られないまま、自らに対してあきらめてしまうのです。
ハムの場合も同様です。もちろん、ハムに下された呪いは人間耕作の摂理の中で起きた事件でしたが、ハムがもう少し神様の愛を感じる人だったら、なんとか神様の前にへりくだって、自分に下された呪いを収めようとしたでしょう。また、父ノアの心を解きほぐすために以前よりもずっと努力したはずで、そうしてどうしても自分に下された父ノアの呪いを、引き抜こうとしたでしょう。しかし、ハムはそうすることはできませんでした。むしろ、ますます父ノアの教えから遠ざかっていったし、これは結局、神様からも遠ざかる結果を生みました。ハムが本当に兼ね備えた心で、神様と父ノアの前に進んで悔い改めたら、他の結果が出ることもできたはずでしょう。このように、同じ状況でどんな心を持つのかがとても重要だという事です。
イエス様が教えてくださった主の祈祷文を見ると、マタイ6:12に「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」という内容が出ています。人が主を受け入れて以来、二度と罪を犯さなければいいのですが、ほとんどがそうすることはできません。そのため、罪を犯した後は、神様の前に悔い改めることになります。「私がこのような罪を犯したのですが、父なる神様、赦してください」と言います。ところが、この時、このような祈りを捧げるためには、主の祈祷文の内容のように、私が先に私に罪を犯した人に対しても赦さなければならないという事です。私に罪を犯した人、私がひどく嫌いな人や憎い人がいるなら、そして彼を赦さずに「神様、私の罪を赦してください」と言ったら、神様が赦さないということです。自分自身に罪を犯した人を赦さずに、私の罪を神の前に赦されたいのなら、神様はこのような人に何と言われますか。心に少しでも善良な良心があれば、私に罪を犯した人を赦さずに、私は神様の前に私の罪を赦してくれとどうしても祈ることはできません。
しかし、私に罪を犯した人を赦す人は、たとえ神様の前に罪を犯した時も赦しを求めることができる大胆さが与えられます。ここで、大胆さとは、罪を犯しても堂々とできるという意味ではなく、神様は私が中心から悔い改め、たちかえったときに、必ず私の罪を赦してくださる愛の神様であることを、心から明確に信じるために来る大胆さです。しかし、他の人が私に犯した罪を赦さない心を持った人は、私の罪を赦してくださる神様の愛についても心に確信が持てません。自分の心にそのような愛が臨んでいないため、罪を赦される神様の愛の心も、やはり自分の心に届かないのです。反面、私の心に他人の罪を赦すことができる少しの愛と赦しの心でも持った人は、神様の愛もやはり心に響くので、たとえ罪に対しては恥ずかしくて申し訳ありませんが、それでも神様の前に出て赦しを祈ることができるということです。
一例を挙げてみましょう。ある家庭で親の愛を全く感じない子どもがいるというときに、このような子どもは、親の前にある大きな過ちを犯した場合、ほとんど親に打ち明けながら赦しを得ることが出来ません。これは、両親が自分の過ちを赦してくれるという確信がないからであり、それはまさに自分の心の中にも、誰かが自分にそのような過ちを犯した時に彼を赦してあげる愛の心が臨んでいないからです。しかし、親の愛を濃く感じる子供がいれば、彼はたとえどんな過ちをしたとしても、親に打ち明けて赦しを請うことができます。自分が悪いことをしたのは申し訳ありませんが、自分の両親は自分の過ちを赦してくれるだろうし、これからもっとうまく出来るように導いてくれることに対する確信があるからです。そして、このような心を持った子供なら、彼は他の人が自分に同じ過ちをしても寛容に赦す心になれます。このように、私の心に赦しの心があり、私の心に愛の心がある人であってこそ、神様のその大きな愛と赦しの心に対しても、本当に心から感じることができるという事です。



