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朝の学び85 創世記9章

9月4日
読了時間: 10分

創世記9:18-29

箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。



 

保証されたノアの祝福と呪い

 ここで重要なことは、ノアがたとえ自制できない中で出した言葉だとしても、彼の言葉が絶対的に保証されたという事です。そしてノアの言葉がこのように保証された理由は、彼に与えられた権威によるものです。ノアは洪水以来、自然にすべての人々の上に秩序上の一番の頭として立てられるようになり、彼には自然に頭になった権威が与えられるようになります。洪水の後にこの地の秩序を維持し、神様の意思に従って人類が繁栄していくためには、肉的にも秩序が立てられなければならず、その秩序に従って権威が従わなければならなかったのです。肉の空間になってしまったこの世界を維持するには、肉的な秩序と権威もなければならなかったのです。

一つの家庭を例にあげると、親と子供の間にも肉的な秩序と権威が維持されていない場合、その家庭は正しく維持することができないように、すべての組織や集団でも同じです。もちろん、主の中では霊的な秩序がより重要ですが、だからといって肉的な秩序が無視されてはいけません。それで、ローマ13:1-2では、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」と言っています。

ノアにもまさに肉的な秩序に従って神様は権勢を与えてこれを保証してくださったのであり、結局ノアの言葉にも保証が伴ったのです。しかし、いくらノアの言葉を保証してくださっても、その言葉がまったくふさわしくないときは、公義の法則に従ってその言葉が保証されることはありません。ノアがたとえ完全でない姿の中で息子ハムを呪ったとはいえ、このようなノアの呪いがそのまま臨むことができたのは、その言葉が保証される環境と条件になったからです。まさにハムにもそれだけの過ちがあったからこそ呪いが臨むことになったということです。もしハムに何の過ちもなかったなら、公義の法則上、ノアがどんな呪いをしたとしても、それが臨むことはできません。

 

箴言26:2「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」と言われたように、公義に照らしてみるとハムにも父親の過ちを表わして伝えた大きな過ちがあったからこそ、ノアの呪いが彼に臨むことができたのです。愛する聖徒の皆さん,ノアは肉的な秩序上で与えられた権勢を持っているだけにもかかわらず、彼の一言は公義の法則に従って正確に臨んだことが分かります。まして、霊的な権勢を持った人の言葉は言うまでもありません。それも神様から完全に保証される次元に入った人の言葉は決して一言も地に落ちません。

これはエリシャ預言者の場合を見てもわかります。列王記第二2:24に見ると,「彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。」とあります。エリシャ預言者が自分をからかっていやがらせをする子供たちを呪うと、その呪いがそのまま臨んでしまったのです。ある意味でひどいと思うほど恐ろしい呪いがかかってしまったのですが、その呪いが臨むことができたのは、子どもたちの側にも明らかな過ちがあったからです。すでに子供の行動とはいえないほど、線を越える悪い行動だったので、エリシャ預言者の呪いが臨む環境と条件が形成されました。

もちろん、エリシャがもっと完全であったとすれば、このような厳しい呪いの言葉は出てこなかったでしょうが、権能で保証された預言者の口から一旦出てきた言葉であり、それが公義の法則にも合致したため、このように保証されて出てきたという事です。このように申し上げると、もしかすると「神の人々の口から出た言葉も公義の法則に反して成就しないこともありうる」と考えてはいけません。もちろん、公義の法則に合わなければ、神の人の言葉でも成就しませんが、本当に神の人なら公義の法則にふさわしくない言葉は決してしないという事です。

ですから、神様が権能を誰にでも与えられるのではありません。権能を受けるにふさわしい霊の次元に入ってこそ初めて権能が与えられるという事です。このように完全な霊の次元に入ってきた人は、決して私利私欲に帰する唇の言葉を出したり、公義に反する言葉を出さないでしょう。もし神様がまだ完全でない人に権能を与えられるならば、その人は時に私利私欲にかられる言葉を出すこともできるし、または公義に適さない言葉も出すことができるでしょう。では、このような場合、神様はどうしますか。公義の神様は彼の言葉を保証することができません。神様が権能を与えて、彼を保証してくださる理由は、これを通して人々に神様を信じさせるようにしようとすることですが、このように権能を受けた人が保証されないことが生じれば、これはむしろ人々に神様を信じられないようにさせることもあるためです。

それゆえ神様は権能を受けた人は決して公義の法則から外れるはずがないので、100%保証して下さるということです。ですから、権能を行う人がいるなら、彼はすでに神様が公義の中で保証してくださったことなので、彼の言葉はどんな場合にも保証されるという事実を知らなければなりません。そして、これと共に皆さんが知っておくべきことは、意味もなく言った一言でも、それが敵である悪魔サタンの罠になりうるという事です。世の中にも言葉が種になるという言葉がありますが、主の中でやはり皆さんがどんな言葉を出すかによって全く違う結果が出ることがありますよね。私たち万民の聖徒なら、世の中でよく使われる、大変だな 、疲れた、死にそう、このような表現は使わないと理解しています。それで世の中では簡単に出している一言ですが、主の中では、このような否定的な表現によって敵である悪魔サタンに訴える種を与えるのです。唇の告白のように心から認めるようになり、それは敵である悪魔サタンに試練の種をもたらす原因になります。

例えば、子どもが言うことをきかないといって、「お前はなぜそんなに言うことをきかないの?どうしてそんなに親を悩ませるの?大きくなったら何になろうとするの?」このような言葉だけをよく聞かされる子供たちは、「私が大きくなったら何になれるだろうか?」と考えるようになり、それが子供の心にも植えつけられるだけでなく、言葉が罠になってそのまま実現されることを知らなければなりません。 

ヨブ記を見ると、ヨブも神を恐れて悪から離れた者でしたが、その心にいつも子供たちに対して否定的で恐ろしい心を持っていたので、結局はその恐れが現実に臨むようになったようにです。したがって、皆さんは、無益な一言でも、それに対して最後の審判の日には必ず神様が尋ねるという事と、皆さんが思わず言った言葉でも後で実になって帰ってくることがあるという事を肝に銘じて、一言一言にもっと慎重を期してください。ノアがまさに霊に目覚めていて、このような事実を肝に銘じていたなら、決して子供にそのように悪い呪いの言葉を言わなかったでしょうが、すでに彼が一度出した言葉には、彼に与えられた権勢に対する保証によって、後日そのまま成就してしまったという事です。

セムとヤぺテに与えられた祝福

ところが、父の過ちを伝えたハムに呪いの言葉が宣言されたのとは逆に、ハムの言葉を聞いても、父の過ちを見ず、むしろ裸を覆い隠したセムとヤぺテには祝福の言葉が宣言されます。創世記9:26-27に、「また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」と言っています。この言葉は、洪水以後、獣の間でも弱肉強食の法則によって序列が決まるように、人間関係の中でも序列が決まる契機となります。将来、ノアの三人の息子から生まれた種族の間に、どんな肉の秩序関係が成立するのかを知ることができる言葉です。どんな先祖から出た種族が栄えて支配層となり、どんな先祖から出た種族が被支配層になるのかが本文に出ているのです。

創世記10章に記されているノアの3人の息子たちの系図を基に、学者たちは今日、全世界に広がっている人類がノアの3人の息子たちの中でそれぞれ誰から始まったのかを次のように説明しています。まず、ヤペテは今日のヨーロッパ民族の先祖になったそうです。次にハムは中東諸国とアフリカ民族の先祖になったと言います。そしてセムはノアの後を継いだ正統の系図)としてアジア各地に広がったそうです。それで宗教がほとんどアジアから出てくるのを見ます。それでは、果たしてノアの三人の息子たちの間にどんな秩序関係が築かれたのかについては、次の時間に続いて説明するようにします。

結論

ある方々は肉的な困難の中にいるとき、切実に神様を探してすがって祝福を受けるのですが、肉的な困難を免れて平安を味わうことができるようになれば、ややもすると前に熱かった信仰が冷める場合を見ることがあります。そうなると、少しの間、訪れてきた肉的な安らぎは再び水の泡のように消えてしまいます。ですから、私たちが追及しなければならない平安はまさに霊的な平安です。霊的な平安なしに来る肉的な平安は、いつ消えるか分からない霧のようなもので、霊的な平安がなければ、真の肉的な平安にも至ることができません。 

では、霊的な平安はどうやって来るのでしょうか。まさに自分の魂が幸いになるほど与えられます。そして、このように霊的な平安が与えられる時に、肉的な平安もしたがって臨むことになります。ところが、ノアは肉的な平安に酔い、本当に追求すべき霊的な平安を成し遂げることができませんでした。なぜですか?洪水の前とは異なり、洪水の後、ノアは当時の人々の間で最も頭として高い立場に立つようになりました。そして自分が望むものを取っていく権威もありました。これにより、ノアは自分の姿を自ら発見できなかったのです。

これは今日も同じです。仕える立場にいるときは、熱心に他の人に仕え、忠誠を尽くした人が仕えられる立場に立つと、いつの間にか仕えられたいとする姿が出てくるのを見ます。指摘を受けたいと兼ね備えた心から、今は他人を指摘して教えようとする心になります。これは決してなかった姿が出たものではありません。心に潜在していた姿が環境と条件になって出てきたのです。そのため、以前は人々と平和でしたが、むしろ平和が破れて、あれこれ音がするようになります。そうしながら心の訓練も受けることになります。

この時、霊で目を覚まして祈る人は、しばらくこのような姿が出てきたとしても、聖霊の働きの中に自らの姿を発見し、すぐに変化するために努力します。こういう人にとっては、この時間が自分自身を発見し、より霊に変化する貴重な訓練の時間になるのです。しかし、ある人々は長年にわたって自分の姿を発見できないまま訓練の中で苦しんでいる場合もあります。皆さんはどんな姿になりますか?皆さんは、神様が時々許されている訓練の中で、捨てなければならない悪の姿を発見して捨て、迅速に霊に変化されることを願います。このような方には、ふいごが金をより貴くするように、訓練もまた皆さんをさらに輝いた宝石にしてくれるでしょう。このように貴重な訓練を通して、根本に内在した悪の形までも迅速に発見して捨て、まさに金のように出て、新しいエルサレムの輝かしい栄光を味わうことができますように主の御名でお祈りします。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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