朝の学び82 創世記9章

創世記9:8-17
神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
序論
皆さん、民数記23:19に、「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」と記録されたとおり、神様は、おっしゃったことを必ず成し遂げ、約束されたことを徹底的に守られる方です。人の方が信仰で受け取れなかったり、変わる場合でなければ、そのまま行われることがわかります。
神は創世記17:4で「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。」と言われましたが、結局アブラハムは信仰の先祖、父になりました。また、創世記17:8には、神がアブラハムに「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」と言われました。それでアブラハムとイサクとヤコブの子孫であるイスラエル民族は、これまでも約束の言葉に従って神様の摂理の中に導かれています。
レビ記26:42-44に、「わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。」とおっしゃったとおりに成し遂げられるのです。
この言葉は、これまでイスラエルの歴史を通して何度も繰り返された歴史的な出来事に対する予言として、イスラエルが神のおきてといましめを離れて神の前で罪を犯したときは、周辺の異邦の国によって侵略され、結局、国が消えるような状況になりました。そのような中でも、神はイスラエルの先祖たちと交わした契約を覚えられ、彼らを嫌って捨てることも憎むこともなく、まったく滅ぼしてしまうこともありませんでした。国が滅び、民が捕虜になったとしても、悔い改めれば、再び本土に戻って国を再建したりしましたが、その理由がまさに神様が彼らの先祖であるアブラハムとイサクとヤコブと立てた契約のためだということです。
今すぐは国を失って、約束が成されないようでも、神様は「カナンの地を永遠にその子孫に与えてくださる」と契約されたとおり、常にその地を回復させてくださったという事です。1948年にはイスラエルという国が消えてから、1900年余り後に再び国を建て独立することで、神様がその地をイスラエル民族に与えられたという神様の契約を再び確証されました。人の考えでは到底不可能なことでしたが、神様は一度された約束をこのように決して変えることなく守られたのです。
ところが、神様が契約の御言葉をくださるには、大きく二つの場合があります。ある人には「あなたがこうすれば祝福をくださる」と但し書きをつける場合があり、ある人にはただ「祝福を与える」と言われる場合があります。神様のほうで手がかりをつけてくださった場合なら、聖書に記録されている通り、人のほうでその手がかりの条件を満たすときに、誰もが差別なく必ず契約の御言葉通りにかなえてくださいます。一方、何の条件もなく約束の言葉をくださった場合は、すぐに叶うと思うかもしれませんが、実は何の条件もないのではなく、その時から祝福を受ける器を備えるために本格的に練られていく過程が始まるのです。
エゼキエル36:36後半-37節前半に「主であるわたしがこれを語り、これを行なう。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。」とおっしゃるとおり、神様は予知予定の中で約束の言葉をくださいましたが人の方でも変わらぬ信仰の行いと願い(渇望)がなければならないという事です。ですから、いくら途方もない祝福の言葉を受けても、もし信仰で受けられなかったり、自分がしなければならない努力をしなければ成し遂げられないのです。
ただ、父なる神様が予知予定されている中で、あらかじめ祝福の御言葉をくださって導いていく場合は、条件をつけて祝福の御言葉をくださる場合とは異なり、強権的な摂理の中で導かれていくので、結局は必ず約束の御言葉に応じて祝福の道を進むことになります。ヨセフの場合も、神様は夢を通して約束をくださったのですが、自らヨセフの道を導いていくことで、ついには夢の約束が成就されるようにしました。
このような言葉をよく分別してこそ、神様のみことばに対する誤解はありません。そうでなければ、「私は祝福を与えてくださると約束されたのに、なぜまだ祝福がないのですか? 」と考えるかもしれないし、あるいは「祝福をくださると言ったから、その時まで何とか耐えてみよう」と思うかもしれません。本当に神様の言葉に従って祝福を受ける器なら、約束の言葉を最後まで変わらず信じ、また祝福が来る瞬間まで何の努力もなく待つのではなく、自分の方でも祝福を受けるための信仰の行いを続けていくことになるという事です。神様のみことばに応えて祝福を受ける器なら、契約の御言葉を最後まで変わらず信じるでしょう。
虹と霊の空間の事
本文は、神が洪水の後にこの地に生きていく人々と地に存在するすべての生き物との間に立てた永遠の契約と、その契約の証拠としてくださった虹に関する内容です。ノアの洪水という人間耕作の歴史において大きな出来事を引き起こす事件以後、神様は肉と霊に分かれた空間の間に明確な境界を立て、人々も肉と霊の空間の違いについて分かるようにします。洪水の前までは、神様が囲んでくださった光によって、この地もすべてが霊の空間のように運行されていましたが、洪水の後に光が取り込められてからは、この地が完全に肉の空間になり、すべてが肉の属性通りに戻りました。
そしてこの時から空中の権勢を握っていた悪の霊たちの活動も本格的に始まります。もちろんアダムが罪を犯してこの地に追い出された後、悪の霊たちと彼の使いたちは絶えずこの地の人々を惑わせて神から遠ざけ、ついには洪水の審判という結果を受けるまで人々を悪に導いていきました。しかし、完全に肉の空間になってしまったこの世界は、今やますます敵である悪魔サタンが活動するのに良い環境になってしまったのです。このように洪水以前と洪水の後、この土地はまったく異なる空間になってしまい、このような変化によって第二の天、つまりエデンの園に住む人々が第一の天に降りてくることも容易ではなくなりました。
前に創世記の講解を通して説明したように、アダムが罪を犯してこの地に追い出されると、この時からエデンの園とこの地の間の往来が制限され始めました。しかし、完全に制限されたのではなく、エデンの園の人々がこの地に降りて定着して暮らすほど、それまでは比較的行き来することが自由でしたが、洪水の審判以後はエデンの園とこの地の間の行き来が厳しく制限されました。エデンの園を管轄しているグループの許可なしには、エデンの園の人々が自由にこの地に降りることができなくなったのです。このようにそうするしかなかったのは、もはやエデンの園の人々がこの肉の世界に降りて堕落するのを防ぐための理由もありますが、根本的な理由は、まさにこの世界が完全に肉の空間になってしまったからです。肉と霊の線が完全に引かれた状況で、霊の空間に属するエデンの園の人々が肉の空間に任意に出てくることがこれ以上ふさわしくなくなったということです。
肉の世界と霊の世界には厳然たる区分があり、その境界を行き来することが思い通りになるわけではありません。それで、エデンの園に住む人々だけでなく、第三の天にある霊の存在も、肉の世界に降りてくるときは、厳格な秩序と法則に合わせなければならないのです。いつでもどこでも預言者たちがこの地に降りてくることができるのではなく、天使長や天使たちも降りてくることができるわけではありません。肉の法則で、すべてが制限された肉の空間の中では、神の公義の法則に合ってこそ、この霊的なことが起こることができるという事です。
神様自らも肉の空間の法則を無視したまま霊の法則通りに働かれるのではありません。だからといって、肉の空間になってしまったこの世の中が、これ以上神様の干渉なしに肉の法則によってのみ運行されるという意味ではありません。光が存在している時のように、神様がすべてを干渉していくわけではありませんが、肉の根本的な属性に戻った空間の中でも、依然として神様は愛と公義に合わせて働いていかれます。
それで11節に「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」とおっしゃったのですが、この言葉の意味は文字的には単純には「水の審判が二度とないだろう」という意味ですが、霊的には「肉の空間になってしまったこの世であっても、父なる神様は依然として公義と愛の中ですべてを運行していく」という意味です。
13節には、「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」と言われました。これは単に「再び水で審判しない」という意味で雲の中に虹を置いたのではなく、「たとえ肉の空間の中でも、神様の公義と愛が成立すれば、霊の事が起こりうる」という意味で契約の虹を置いたという事です。ここで「雲」は単にこの地の雲のことではなく、第二の天という霊の空間を取り決めているのです。したがって、霊の空間を意味する雲の中に、まさに契約の証拠である虹を置かれたということは、たとえ肉の空間になってしまったこの世だとしても、神様はこの肉の空間の中でも霊の空間の事として働いていくという意味になります。
簡単に言えば、「もうこの地が肉の空間になったので、霊の空間におられた神様とは全く関係なくなったのではなく、神様は依然として干渉され、公義と愛に合わせて肉の空間の中でも霊の空間のことを表わす。」ということです。もし神様が公義と愛に合わせてずっと肉の空間の中で働かなければ、この世界は完全に敵である悪魔サタンに捕らえられた闇の空間になってしまったでしょう。しかし、神様は、光が取り込められた後も、引き続き肉の空間の中に霊の空間の事柄を広げることで、神様の国が拡張されていけるようにしました。
ところが、肉の空間の中で霊の空間のことを表すためには、信仰と従順と愛で、肉の限界を越えて神の道具として使われる人々が必要であるという事です。まさに神様がおられる霊の空間を肉の空間の中に広げることができる道具が必要です。このような道具になれる人は、心を霊に耕し、心として霊である神様と通じる人です。神様と霊によって心が通じる時、神様に属した霊の空間をこの地に広げる権勢と力が与えられるからです。今週、霊と空間と心について説明しましたが、まさに皆さんを通しても、これらの働きが現れるようにするためでした。そのことばをよく糧としてみなさんのものにするならば、皆さんを通しても霊の空間の出来ごとが肉の空間の中で繰り広げられることができます。その代表的な例がまさに本教会と全国および全世界の支教会の上空に現れる円形の虹と様々な珍しい虹です。



