朝の学び81 創世記9章

創世記9:3-7
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」
わたしはあなたがたのいのちのためには、必ずいのちの血の値を要求する
ノアの洪水の後、神様が生きた動物を食物として許してくださった時、善良な心を持った人は、その良心からどんな肉も食べることが受け入れられませんでした。ローマ2:14-15に、「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・」とおっしゃったとおり、律法のない異邦人が本質的に律法の行いをする時、この人は律法がなくても自分が自分自身に律法になるのです。言い換えれば、良心が善い人は、神様の律法がなくても、彼の良心が自ら律法の行為を示すことができる基準になるからです。
しかし、人々の心がますます悪くなるので、神様が「どんな肉の血も食べてはならない」と命じられたにもかかわらず、徐々に時間が経つにつれて破ることになり、初め決めてくださったきよい動物の範囲を超えるようになると、神様はイスラエルという一国の基礎を用意しながら、具体的な律法の枠組みを制定してくださいました。このような枠組みを外れたときには必ず応報を受けるように律法を定められたので、5-6節に「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とおっしゃっています。ここで血を流すという御言葉は、命の主菅者である神様が定められた一定の線を越えるという意味です。簡単に言えば神様のみことばに背くのです。
4節に「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」とあるように、血がついたまま肉を食べてはいけませんでしたが、血がついたままを食べたり、糧食のためではない目的で殺生することも、また人と人の間で互いに傷つけたり殺すことなど、すべてのことが神様が定められた線を越えて神様のみことばに背く行動です。このように神様のみことばを破った時は、それに対する応報が従うことになりますが、動物に行ったのは動物に、人に行ったことは人として応報を受けるようにしました。
ここには、つまり行ったとおりに返してくださる(蒔いた通りに刈り取る)という神様の公義が込められています。しかし、行ったように返してくださる(蒔いた通りに刈り取る)という公義の法則に対するより細かく具体的な規定が、まさに出エジプト記に記録された事例を通して宣言されます。律法は十戒の具体的な適用規則として与えられました。出エジプト記 21:12‐14には「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」と言われました。
神様の形の通りに創造された人を殺すことは、神様の主権の下にある生命を任意に奪う罪なので、その結果は必ず死で返さなければなりませんでした。ただし、ミスによる殺人に対しては、神様の憐れみの中で自分の命を保存できるように例外的な規定を許していただきました。すなわちイスラエルの町の中で特別に逃避のための町を別々に区分して、誤って殺人したことが認められる人は、逃避の町の中に住むことで命を維持することができたのです。これを通して、私たちは神様が殺人に対しては、神様の形に造られた人を殺すという、神様の主権に挑戦する行為を防ぐため、死刑という厳しい代価を払わされると同時に、殺人の行為だけを見るのではなく、殺人者の心をより重要に見ておられるという事がわかります。
これは今日も同じです。人が完全になるまではいつも間違いを犯すことがあるので、神様は同じ非真理の姿の中でも、各人の心を察してくださいます。これが本当に悪い心から出てきたのか、単に真理を知らずに誤ってそうしたのか、真理の通りに行おうとしましたが、心に意図したものとは違って出てきたのかなどをご覧になられます。それで、同じ非真理の姿についてでも、神様が許される応報は異なることがあるのです。律法を与えられた目的自体が人を苦しめて罰するためのものではありません。真理の中に住まわせるためなので、神様の公義は各人のおかれた状況と心の中までも探って正確に適用されます。
目には目、歯には歯
旧約時代の律法を見ると、愛の神様とはすこし似合わないような内容が出てきます。例えば、出エジプト記 21:23-25 によると、「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」ということです。これを「同害報復法」ともいいますが、簡単に説明すれば、人がある害を受けることになったとき、それに対する同じ害として相手に返すという意味です。これは、人が悪を行うと、報いを受けなければならないという公義の法則でもあります。しかし、この法に込められたより深い神様の心はまさに愛であることを知らなければなりません。
「目には目」という内容だけを見ると、まるで悪を悪で返すようですが、実際に皆さんが世の中の人々を一度見てください。他人が私に害を一つ与えたら、それを二つ、三つ、それ以上に返そうとし、悪に突き進んでいるのが現実です。目に受けた害を目だけに返すのではなく、より大きなもので報復しようとする心でしょう。ですから、このような悪の世代の中で、目には目で返すという言葉は、むしろ受けた害以上に報復することを禁止するという意味が込められているという事です。報復を最大限抑え、複数の乱用を防ぐ効果があるのです。さらに、聖霊時代ではなく旧約時代には自分の心を治めることができないので、ややもすると報復の悪循環に突き進むことがありますが、同害報復法という律法の枠組みの中に縛っていただくことで、それ以上の悪を防ぐことができたのです。「愛の神様がなぜこのような恐ろしい法を人々に与えられたのか」を考える前に、「なぜ神様がこのような法律まで定めてくださるしかなかったのでしょうか?」を考えてみれば、悪が蔓延した世の中でも、なんとか魂を保護し守ろうとする父なる神様の愛を感じることができます。
このような愛を感じるなら、決して神様のみことばを軽く考えたり、通り過ごしてしまうことはできません。小さなこと一つを軽く考えると、後には大きな罪を犯しても悟ることができないからです。それで、へブル12:5に「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。』と勧めるのです。
地に群がり、地にふえよ
7節に「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」と言います。父なる神様がこの地に人間を耕作される目的は真の子どもを得るためのものですが、人間耕作を始めて以来、人間の悪によって心を痛め、地上に人を造ったことを悔やまられたほどでしたが、洪水以後に新しく始まった人間耕作を見ながら、もう一度真の子どもを得るための期待と希望を持つようになります。再び人間がこの地に生育し、繁栄していくと、人間が結局悪に突き進むことになり、そうすればまた心を痛めることを知りながらも、その中から出てくる真の子どもを期待されるので、もう一度人間に「地に群がり、地にふえよ。」と言われて、祝福を与えておられます。
農夫が一年の収穫が不振だからといって、翌年に農作業をあきらめるのではなく、また希望と抱負を持って農作業をするように、父なる神様も新しい人間耕作を通して喜びと栄光になることを願う心で、人間たちに祝福の言葉を与えているのです。そして人々はこの言葉に従い、早いスピードで世界中に広がっていきます。人と獣がどのようにして世界中に広がることができたかについては、すでに前の時間に詳しく説明しました。次の時間には、神様が虹を置いて、これを通して人間と結ばれた契約の意味について見てみましょう。
結論
皆さん、血は命であるだけでなく、血の中にはそれぞれの性質と属性までも含まれています。それで人の血が異なり、動物の血が異なり、どんな血を持っているのかによってそれぞれの属性と性質が変わるのです。このように血は各人の性質や属性までも決定する非常に重要な要素ですが、世の中の理論がすべて正しいわけではなく、合っているとしてもあくまでも肉の法則に該当します。もし親がせっかちで血気が多い場合、子どももせっかちで血気が多い確率が非常に高いのは事実です。しかし、このような子供でも、彼が真理の中に入って神様の能力を力にすれば、肉の法則とは関係ありません。「私は親からこういう気を受けて生まれたから仕方がない」「私はもともと性質や属性がこうなの」と言いながら自ら断定してしまう人は、自分を依然として肉の空間の中に縛っておく人です。肉の空間の中に自分を縛っておくと肉の法則から抜け出すことができません。
しかし、肉の空間から抜け出して霊の空間に入ると、肉の法則とは関係ありません。だからといって、「私はもはや肉の空間ではなく、霊の空間に属している人である」と言葉で告白して出来るのではありません。肉の空間を離れて霊の空間に属するためには、以前に肉の空間で持っていた肉に属していたすべてのものを脱ぎ棄てなければなりません。このような過程には罪を血を流すまで戦って、捨ててしまわなければならない痛みもあり、自分を徹底的に否認していく忍耐の歳月もありますが、すべての過程を通過すれば、血の中に込められた性質と属性までも超越する霊の次元に入ることができます。へブル 12:4「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」
こういう人は親からどんな気を受け継いだのか、血の中にどんな性質と属性が含まれているか、これらは関係ありません。コリント第二5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とおっしゃったとおり、これ以上肉の空間や法則に縛られているのではなく、新しい被造物になって神の形を完全に回復した真の子供たちとして出てくることを主の御名で祝福してお祈りいたします。



