朝の学び80 創世記9章
創世記9:3-7
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である
3節に「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」と述べています。ノアの洪水の後に神様が人に動物までも食べられるように許される場面です。ところがこのように動物を食べるように許されたのが実は祝福ではなく、むしろ呪いだと言いました。最初の人アダムには果物だけが許され、罪を犯した後呪われてこの地に追いだされ、野菜類のような植物が許され、ついに動物まで食べることが許されましたが、これは結局、人がそれほど悪くなったからです。人が肉に変質していくほど、人は体を維持するためにそれほど多くの肉のものを摂っていかなければならないので、ますます強い肉の食べ物が必要になったのです。
このように動物を食べることを許されたことを呪いというには、より深い霊的な意味があります。それはまさにこの時から殺生(せっしょう)が始まったということです。洪水の前までは、全焼のいけにえのためのもの以外は任意に動物を殺すことは許されていませんが、この時からは人が食べるために動物を殺すだけでなく、動物の間でも弱肉強食の法則に従って互いに殺しあうことが発生するようになります。
さらに、歳月が経つにつれて人々がさらに悪くなると、糧のためだけでなく、自分の悪の中で動物を殺すことまで起こります。それで人々が面白さや娯楽として動物を狩って殺すのも、結局は人々の心がどれほど悪くなったかを示す証拠です。ところが、人々が次第に悪くなって生まれたもう一つの現象は、人々が最初許されたきよい動物以外にも、自分の見た目に良い動物を取って食べることになったということです。そうしながら次第に神様が禁じられた、けがれた動物まで食べることになり、神様を離れた異邦人の間では、このような現象がさらにひどくなっていきました。しかも動物を血のあるままで食べてはいけないという命令も時間が経つにつれて次第に守られなくなりました。
肉を血のあるままで食べてはならない
4節には「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」と言われましたが、ここには霊的な意味があります。レビ17:14に「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』とおっしゃるとおり、血はいのちと一体だからです。
神様が初めのアダムを土で造り、その鼻にいのちの息を吹き込む時も、体に血が回り循環し始め、人は初めて生きている霊となりました。動物もやはり血は命であり、血があるので命が維持されますが、神様もやむを得ず人間に肉を食べるように許されはしましたが、それがいのちをとる権勢まで人間に許されたわけではありませんでした。したがって、神様は人々に肉は食べるものの、血がついたままでは食べられないようにすることで、血すなわちいのちを主管する権勢はただ神様だけにあるという事実を明確にしてくださったのです。このような神様の命令を守るとき、それがすなわち、いのちを主管される神様の権勢と創造主としての権威を認めることです。
結局「どんな肉の血も食べてはならない」という神様のみことばは、人の生命を司る神様の権威と威厳を侵してはならないという境界線のような意味を持っています。誰が万物の創造主であり、このように恵みを施す人が誰なのかを、人に明確に記憶させたのです。ノアの洪水の後には、父なる神が光で囲まれ、親しく干渉された時とは全く違う状況になってしまったので、このように越えてはならない線を引いてくださることで、人々がこれを意識しながら同時に神の存在を意識して、生きていけるようになったということです。
たとえこの地のすべてが今は肉の法則の中で、根本の肉の属性によって回るしかない状況になりましたが、すべての根本は父なる神様によるものであり、すべての主菅者は神おひとりであることを、明らかに教えてくださる方法になったのです。そして、このように決めてくださった線を人々が破る時には、それがすなわち神様の主権に対する挑戦となるので、そこには必ず応報が従い、神様とは関係のない者になってしまいました。結局、肉の空間と霊の空間が徹底的に分かれるようになった状況で、神様のみことばに従う者は、肉の空間にあっても神様と関係があると認められますが、従わない者は神と関係がなくなったのです。これは今日でも同じように適応されます。
ヨハネ15:7に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とありますが、これがまさに霊の空間に父なる神様と共にとどまる人に与えた祝福の言葉です。たとえ体はこの肉の空間にあっても、皆さんが主の中に、主の言葉の中にあるとすれば、これが主と共に霊の空間に留まる道になります。そして、この時は主と皆さんが霊の空間の中で一つに通じているので、何でも心に抱くことさえすぐに主に伝わります。主の応答もすぐに来ることができます。
一方、皆さんが信じると言いながらも、主の中に居らず、主の言葉が皆さんの中にとどまっていなければ、主と皆さんは全く別の空間に居ます。主は霊の空間におられますが、皆さんは依然として肉の空間にいます。そして霊の空間と肉の空間は互いに通じることができないので、結局主と皆さんが交わることができず、皆さんの心の願いに主が答えてくださることもできないのです。まさにノアの洪水以後からは完全に肉の空間になってしまったこの世の中で、ただ神様のみことばに従う人だけが神様に属する人になることができるのです。肉の人とは、神様が共にしたくても共にすることができないという事です。まるで水と油が混ざらないように、肉の空間にいる人と霊の空間におられる神様とは通じることができないからです。



