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朝の学び77 創世記9章

9月4日
読了時間: 7分

創世記9:1-3

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのもの-それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。




生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

これから創世記9章に入ります。9章では、まず、新たに人間の耕作を始めるノアと彼の家族、そして子孫たちにくださる父なる神様の契約の御言葉が出てきます。創世記9:1-2に、「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」

本格的な人間耕作の始まりとともに、もう一度人間に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という祝福の言葉を与えておられます。ところが、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という御言葉が、以前アダムがこの地で生活を始めたときに初めていただいた御言葉と非常に似ていますが、その内容を詳しく見てみるとまったく異なる次元の御言葉であることがわかります。 

創世記1:28を見ると、神は男と女、すなわちアダムとエバを創造し、彼らに祝福を与えながら、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命じられました。最初の人アダムには、地を従えよという言葉と共にすべての生き物を支配せよという言葉も与えられましたが、ノアには地を従えよという言葉もなく、「あなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」と言われただけです。それでは、神がアダムに与えられたみことばと、ノアに与えられたみことばはどのような違いがあるのでしょうか?

まず、最初の人アダムに与えられた言葉は、神に代わってすべての万物を治める主権者としての権限を与えられました。第一の天だけでなく、第二の天のエデンにあるすべてのものの中でも一番上に立てて征服して治めるようにしたのです。しかし、ノアにくださった言葉はそのような意味ではありません。今は、ただすべてのものの上に頭になった者として、序列上一位の位置に立てるという意味です。 

野の獣についても治める次元ではなく、獣が人を恐れて怖がるように秩序が立てられたに過ぎないのです。秩序上、すべての獣が人間の序列を越えることはできませんが、これ以上人がすべての獣の主権者ではなく、ただ序列上一番上に置かれただけです。例えを挙げれば,アダムとすべての野の獣との関係がまるで王と民の関係であったとすれば,ノア以後は民の中から選ばれ、最も頭として立てた臣下と民との関係と言えます。臣下の位置がいくら高いとしても王とはまったく次元が違うように、ノア以後は人々がもはや万物の主権者ではなく、万物の中で序列上一番上に立つようになったのです。簡単に言えば、人と万物の関係が垂直の関係から水平の関係に変わったのです。

次に、すべてが変わった肉の環境の中で、病原菌や病気が本格的に人に乗じてくるようになったという事です。もちろん、このようなものはアダムの罪によってこの土地が呪われた時、生じ始めましたが、ノアの洪水までは活動できない環境にありました。しかし、この土地が完全に肉の空間になると、多くの病気や病原菌が急速に現れ始めました。つまり、病原菌の発生や、すべての病気の最も根本的な原因が人々の罪のためであることがわかります。人々の罪により審判が臨み、初めの光が取り込められ、人々がより速く悪に染まることによって、本格的に病気がこの地に登場したのです。

このように光のあることと光のないこととはあまりにも大きな違いがあることを知る必要があります。ところが、神様はこのように光が取り込められた肉の空間に生きていくようになった人々を、そのままにしておいたのではありません。霊の空間と通じる人々を見つけて、彼らを士師として、または預言者、使徒として立てられ、彼らを通して父なる神様の御心を絶えず宣言し、導いてきました。もし父の側で、ただ何の干渉もなく置かれたら、人々は心に望む通りに行って、ますます濃い闇の中に陥って行ったでしょうが、父なる神様は一人子の息子まで渡してくださり、失った父との関係を回復できるように道を開いてくださったということです。


生きて動いているものはみな、あなたがたの食物になるので

創世記9:3を見ると、「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」と言われました。これもやはり、初めの人アダムがこの地に住み始めたとき、神様がくださった御言葉と対比されています。 

創世記1:29では、「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがた食物となる。」としてくださったのですが、ノアの洪水以降は動物までも食べられるように許されます。ここで「種を持つすべての草」とは、白菜や大根のような種類の野菜を言うのではなく、スイカやメロンのような果物を言うことであり、「種を持って実を結ぶすべての木」の果実とは、リンゴ、柿、桃、梨などの果物をいうのです。神様はアダムが犯罪する前には果物の種類だけを食べさせましたが、アダムが罪を犯して呪われてから野菜が付け加えられました。

ノアの洪水の前までは、いけにえとして捧げるためのもの以外に、任意の獣を殺すことは許されていませんでした。しかし、洪水後には殺生ということが現れ、獣の間にも弱肉強食という自然の法則が存在するようになります。人だけが獣を捕まえて殺して食物としたのではなく、獣の間でもお互いを殺して強者が弱者を捕まえて食べることになるのです。

これらの姿を父なる神様が見られる時は、あまりにも心が痛くて嘆くしかないのですが、肉に戻ってしまった空間の中では、徐々にこのような状況が激しくなっていきます。人にも、神が動物を食物として許されたとしても、そこには守らなければならない線があります。しかし、何度もこの線を越えて変質していくと、神が後には、呪われた獣とそうでない獣に分け、獣の中でも食べてよいものと、食べてはいけないものを分けるしかない状況に至ってしまいます。つまり、洪水後に神が食物として許された動物は、聖い動物に属する数少ない種類でしたが、人々に悪が加わりつつ定められた線を越えると、レビ記に出てくるように食べてはならない動物の範囲を確かに決めるしかなかったのです。

結論

皆さん、この土地が肉の空間になるにつれて、すべてが以前と同じではなくなりました。神様との交わりも容易ではなくなり、神様の御心を悟っていくことも容易ではなくなりました。それでも心が善い人々はこの肉の空間で悪に染まっていくのではなく、自分を守り、神様の御心を追って生きていくことになります。このように、以前にも善良な人々は必ず神を探し、神の声を聞いたことを見ることができます。まして、イエスを救い主として受け入れ、聖霊を賜物として受け取った神様の子どもたちが、聖霊の声を明らかに聞くこと、また父なる神様の声を明らかに聞くということは、とても正常なことです。ですから、父なる神様がこうして神様の声を聞き、神様の御心を求めて生きていく人を発見された時、どれほどその心が喜ばれるでしょうか。こういう人は、神様の方でも愛してくださり、思いっきり祝福してくださるしかないのです。それだけでなく、アダムの罪の後に失われた万物の主管者としての位置も取り戻せるようにしてくださいます。

万物の主管者として立てられた人間は、アダムの罪以後その資格を失うことになり、洪水後には万物との関係が、垂直の関係から水平の関係に転落してしまいました。しかしその心が肉に染まらず霊の空間に属する者になれば、再び失った万物の主管者としての権威を回復していくことができるという事です。神様が上からくださる霊の権威と力が従うようになり、万物を支配し、征服し、治めることができるのです。創世記講解を通して語られるみことばが、この祝福の場に出て行くことができる道を明らかにしています。神様がくださるすべての御言葉を、皆さんが完全に心の糧とされ、力となり、霊の空間に属する霊の人々として出てくるように、主の御名でお祈りします。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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