朝の学び70 創世記8章

[創世記8:6–14]
「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」
ノアが水は引いたかどうかを知るために鳥を放った
大洪水のさばきの時、全地を覆っていた水はますます減り続け、水位が下がりました。ノアが600歳になった年の10月1日には、山々の頂が見えるほどになりました。ノアはその日からまた四十日経った後、水が引いた程度を知るために鳥を箱舟の外に放ちました。初めは一羽の烏を放ちました。ところが、その烏は水が地からかわききるまで、あちこちを飛び回っていました。烏はノアにとって結果的に何の役にも立たなかったのです。
それで、ノアは今回一羽の鳩を放ちました。その鳩は足を休める場所が見あたらなくて、舟に帰ってきました。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の中に入れました。これでノアはまだ地の面から水が完全に引いていないことがわかりました。
それから七日後、ノアは再び鳩を放ちました。鳩はその日夕方になって帰って来ましたが、くちばしに「オリーブの若葉」をくわえていました。オリーブの木から若葉が出るぐらいなら、水がほとんど引いたという証拠です。ノアはそれからなお七日経つと鳩を放ちましたが、今度は鳩も戻って来ませんでした。
ノアは箱舟で新年を迎えました。601歳になった年の1月1日になって、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、地の面はかわいていました。それでも箱舟から出なかったのです。神が何も仰せられなかったからです。やがて2月27日になると、地がかわききって、神はノアに箱舟から出なさいと仰せられました。皆さん、ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を放ったということから、私たちはいくつかの教訓を得ることができます。
第一、信仰には行いが伴うということです。
神は水が引いた程度をすべて知っておられます。それなのに、神はノアにそのつど教えてくださったのではありませんでした。ノアが自分から進んで鳥を使って水が引ききったのかを確認するようにされました。神は全知全能のお方なので、神を信じる人は神と交わることですべてを知ることもできるし、どんなことでもできます。
ところが、全き信仰を持つ人は自分が神に助けていただくために何を行うべきかを心に働きかけられます。人のほうで行うべきことは全くしなかったり、当然踏み行うべきことはしないで、「信じます」とだけ言うのではありません。「全き信仰」は「真心」に変えられた人に上から与えられるからです。
「真心」は父なる神が望んでおられる善、愛、真理で満たされた心です。公義を犯しながら、むやみに自分の利益ばかり求めることはないのです。善の心、真心に変えられた人は、自分が一つを答えられるために、公義に合わせて満たすべきことが何か知っています。それで、それにふさわしく、なすべきことはして、蒔くべきものは蒔きます。
父なる神が人間を耕作される理由は、このように真心に変えられた子どもを得るためです。そして、このように真心を持つ子どもたちに、上から「全き信仰」を与えてくださって、その信仰によって神の栄光を現すように望んでおられます。
ところで、もし、聖徒が真心に変えられていないのに、「信じます」とだけ言うとすべてが答えられるなら、どうなるでしょうか? これは、まるで子どもが当然すべきことをしていないのに、親がすべてを聞いてあげるようなものです。
たとえば、子どもが学校から宿題を出されて帰ってきました。宿題したくない、遊びたいと言います。すると親が代わりに宿題をしてあげて、学校にも代わりに行ってあげるでしょうか? 子どもがいくらつらくても、このようなことを代わりにしてあげる親はいないでしょう。子どもは当然自分がすべきことを自分でしてこそ、知識も積まれるし、実力も伸びるのです。社会で立派に一人前の働きをする人に成長できるのです。
もちろん、その過程で親は子どもを助けてあげることはあります。宿題をするとき、手伝ってあげることもあるし、励ましてあげることもあるでしょう。このように、子どもが宿題をするとき手伝うことと、はじめから代わりにしてあげることは、確かに違います。同じように、父なる神も信仰の子どもたちが困難にあったり、試練にあう時に、求める者に力を施してくださるのです。しかし、まったく困難も、試練も、訓練もやって来ないように、全部さえぎられるのではありません。困難を乗り越える過程を通して神の愛も感じられるし、訓練を通して真心に変えられるからです。
新たな人間耕作の始まりーノアの信仰の行い
本文のみことばは大洪水のさばきが終わる状況を示しています。これから人間耕作が新たに始まります。神は、新たな人間耕作が始まるとき、ノアが自分から進んで「行い」を見せることができるように導いておられるのです。
もちろん、ノアは以前も神のことばに完全に聞き従って行う人でした。ただ洪水の前は、神が備えてくださった状況の中で、おことばにそのまま聞き従う次元でした。神は、箱舟を造ることも、どうすべきかいちいち教えてくださいました。このように全部教えながら導かれました。動物を箱舟に乗せることも、神ご自身が働いてくださいました。ところが、これからは、ノアがそれぞれの状況に合わせて、自分か行うべきことを心に働きかけられて行うことで、神のみこころを実現するように導かれるのです。
聖書に記された驚くべき信仰のみわざは、確かに神が成し遂げてくださったことです。ところが、詳しく調べてみると、そこに必ず昔の人々の信仰の行いがあったことがわかります。たとえば、エジプトから出て来たイスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、どうしたでしょうか? 神が氾濫するヨルダン川の流れが止まるように、先にしてくださったでしょうか? それで、イスラエルの民が川の底が現れたのを確認してから、足を踏み入れたでしょうか?
エジプトを出て最初の頃、葦の海を渡る時は、イスラエルの民があまりにも信仰が弱かったので、海を分けた後に入るようにしてくださいました。しかし、四十年間、荒野で訓練を受けた出エジプト第二世代は違います。それだけ信仰が成長したのです。それで、氾濫するヨルダン川に契約の箱をかついだ祭司たちがまず足を踏み出すようにされました。
カナンの地の最初の関門であるエリコを征服する時も、神は全部してくださったのではなく、イスラエルの民がすべきことを指示されました。神の力ではいくらでも一度でエリコの城壁を崩せますが、信仰の行いを見せるようにされたのです。つまり、町の周囲を六日間一度ずつ回り、七日目には七度回った後、ときの声をあげなさいと仰せられたのです。
イスラエルの民はおことばどおりに行って、エリコの城壁は神の力で崩れ落ちました。これを通して、イスラエルの民の心に神への信頼がどれほど加わったでしょうか。この後入って行くカナンの地も、自分たちはおことばどおりにだけ行えばよいという強い信仰が生まれたでしょう。



