朝の学び64 創世記7章

創世記7:11–12
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
神はさばきに備えて方舟を準備する時間を十分あたえられた。
本文[11節前半節]には「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、」とあります。聖書には、大洪水のさばきがいつ起こったのか、このように日まで正確に記されています。それでは、ノアはだいたいいつ頃、大洪水のさばきがあるのか知っていたでしょうか?
ノアは正確な日までではなくても、「いつ頃」くらいかは知っていました。また、自分の役割も知っていたのです。つまり、当時のすべての人類は大洪水で死ぬようになり、自分を通して人類がまたふえ広がるようになるということでした。
ノアはこのことを知る前まで、結婚しないでひとりで暮らしていました。罪がはびこっている世で、聖別された生き方をするためでした。しかし、神のご計画を悟るようになったあと、子孫を残すために妻をめとりました。それで、ノアは五百歳になってからやっと息子たちを生んだのです。
私たちはこのことから、ノアが大洪水のさばきがあるということをだいたいいつ頃知ったのか、推測できるでしょう。言いかえれば、神がノアに洪水のさばきに備えるように下さった時間が、わずか数十年ではなかったこともわかります。
神はさばきに備えて箱舟を準備する時間を十分与えられたということです。これはノアにだけ当たるのではなく、ノアが生きていた当時の人々も、救いの機会をつかめるように、同じように与えられた時間でした。
ノアはその長い時間を信仰によって忍耐しながら、神のおことばどおりに行いました。箱舟を造り、食料を用意しました。また、人々に大洪水のさばきがやって来ることを一生懸命に知らせました。しかし、大洪水のさばきから救われた人は、ただノアの八人家族だけでした。
「終わりの時」の摂理
この「終わりの時」の状況がノアの洪水の時ととても似ています。父なる神は、世界の始まる前から、あらかじめ「終わりの時」の摂理を定められました。そして備えられました。
ここでちょっと用語を整理してみましょう。「終わりの時」とは「主の再臨が近づいた時」を意味します。「終わりの日」とは「イエス様がお生まれになった時から再臨の時までの世」という意味です。世では「末世」とも言い、同じ意味で使われています。「世の終わり」とは、「主が再臨するその時点」と、もう少し広い意味で「その時点が含まれた世代」のことだと覚えておけばよいでしょう。
父なる神は、終わりの時に多くの魂を救うために、どんな教会と牧者が必要かをご存じなので、ずっと昔から備えてこられました。ノアにだいたいいつ頃大洪水のさばきがあるかを教えて、備えるようにされたのと同じです。終わりの時にも、主が再臨する時点がいつか、その日と時間までではなくても、だいたいいつ頃かは教えてくださいます。空中の婚宴にあずかるにふさわしいように、花嫁の備えをする時間を下さるのです。
神はノアに箱舟を造るようにされたように、終わりの時にも多くの魂を救う箱舟を備えるようにされました。まずは霊的な箱舟であるいのちのみことばを下さったし、次は大聖殿を建て上げるようにされたのです。霊的な花嫁の備えや大聖殿建築は短い期間でできるものではありません。
もし、皆さんが主の再臨の時を1年前に知ったら、たった1年で花嫁の備えが完全にできるでしょうか? その時までまめに花嫁の備えをしていた人なら、あと1年間で終えればよいでしょう。しかし、その時まで信仰生活を適当にしていた人や、まともに始めたばかりの人なら、1年という期間は十分ではありません。心はせいていても、完全に備えるにはどうしても時間が足りないということです。
大聖殿建築のための準備も同じです。実際に聖殿を建築する工事は主の再臨の時点に近いこともあります。しかし、このための事前作業はずっと前からしなければなりません。まず霊的な準備が必要です。
ノアがその時代にあって正しい人と認められるまで時間が必要だったように、皆さんも大聖殿を建て上げるにふさわしい資格を備える時間が必要なのです。父なる神は「大聖殿はきよい子どもたちを通して建て上げる」と開拓の時から言われました。このような霊的な条件が備えられるとき、神様も公義に従って大きい財政の祝福を与えることがおできになるからです。
ノアが父なる神のおことばを信じて、そのとおりに行ったように、皆さんもただ信仰で行軍しながら、みことばどおりに花嫁の備えをしてください。信仰は今すぐ目に見えないし、手に触れなくても、変わらずに望むことです。それが公義によってまことだと認められるとき、望んでいる事がらが保証されるのです。この霊的な原理を必ず覚えて、変わらない信仰をきよく守るすべての皆さんになりますように、主の御名によって祈ります。



