朝の学び52 創世記6章
さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも 美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、【主】は、『わたしの 霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢 は、百二十年にしよう』と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもがで きたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たち であった。 創世記 6:1-4
神はこの地上に悪が蔓延する状態をご覧になって、嘆いて憂えられました。そして、重大な決定を 下されました。その内容が次の本文[3 節]にあります。「そこで、【主】は、『わたしの霊は、永久に は人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年 にしよう』と仰せられた。」神は憐れみと慈しみが豊かなので、予告なしに直ちにさばかれず、一次 的に警告をしてくださいました。その内容は二つでした。
神の警告―わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。まず「わたしの霊は、永久に は人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」と仰せられました。ここで 「肉にすぎないからだ。」ということは「敵である悪魔・サタンが支配する闇、すなわち、罪と悪と不 法、不義の中で生きる人になった」という意味です。光と闇がともにあることができないように、神 は罪と悪の中で生きる人とともにおられることができません。「神の子ら」は本来、光の領域である エデンの園に住んでいた人でしたが、この地上に降りてきて、肉に染まって罪と悪を日常のように 行ったので、今は神とかかわりがなくなりました。
このみことばは当時、この地上に住んでいた人にも同じように適用されました。神は肉にすぎない 人に「永久には人のうちにとどまらないであろう。」と宣言されたのです。肉にすぎない人は神の子 どもではなく、敵である悪魔・サタンの奴隷であり、子どもです。その結末は死であり、地獄なので、 神が永久にはそのうちにとどまることができなくなります。このみことばは今日も同じように適用されます。
正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。 コリント人への手紙第二 6:14 後半節
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。 第一ヨハネの手紙 1:5
光の中を歩む時神がともにおられる。そして、私たちが光の中を歩んでいてこそ、互いに交わりを 保つと言いました。神がともにおられるなら祝福が臨むけれど、神がともにおられないなら、サタン の試みに陥ることがあります。神の霊がそのうちにとどまらない人は、敵である悪魔・サタンに属す るからです。敵である悪魔・サタンは人々が罪を犯すように操り、罪を犯せば患難にあわせます。 皆さんの中に、ひょっとしてでも「私は熱心に信仰生活しているようなのに、私は神様をちゃんと信 じているようなのに、神様がともにおられる証拠がなぜないのだろうか」「私はなぜ栄えないのか」 「私はなぜ祝福されていないのだろうか」こう思われる方がいるでしょうか? 今日のみことばから 答えを見つけますように。皆さんが光の中を歩むなら、神が必ず皆さんとともにおられます。
反対に、神を信じると言っても、相変わらず暗やみの中を歩んでいるなら、神の霊はその人のうち にとどまることはできません。したがって、皆さんに何か問題が起こったなら、まず自分を顧みます ように。「私はまだ肉にすぎないのではないのか」「私はやみの中を歩んでいるのではないのか」 真実に探らなければなりません。
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは 偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。 第一ヨハネの手紙 1:6
皆さんが光である神のみことばを守り行わないなら、いくら「私も神様を信じます」「私も信仰生活 を一生懸命にしています」と言っても、何の役にも立ちません。その告白は真実でないからです。 しかし、皆さんがまことに光の中を歩むなら、神は皆さんとともにおられ、必ず祝福を下さます。完全になるための訓練を受けていても、神がともにおられる証拠が伴います。
ヨセフがまさにそうでした。ヨセフはよその家で奴隷になっていた時も、濡れ衣を着せられて監獄 に入れられていた時も、神がともにおられました。神を信じない周りの人もはっきり感じられるよう に、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったのです。ところが、監獄に入れられたので もなく、奴隷として縛られている身でもないのに、何をしても成功することなく、いつも大変そうに 生きている方がいるでしょうか? それなら「私は御霊の人とはどれほどかけ離れた肉の人なのか」 を悟らなければなりません。神はすでに数千年前に「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまら ないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」と宣言しておかれたからです。
神の警告―「それで人の齢は、百二十年にしよう」
神は[3 節の後半節]にあるように、肉にすぎない人について「それで人の齢は、百二十年にしよう」 と仰せられました。このみことばを直訳すれば、「人は 120 年しか生きられない」ということです。 ここで「人」とは誰のことで、「120 年しか生きられない」というみことばはどういう意味でしょう か?これにはいくつかの意味が含まれています。その時、人の娘たちを見て、情欲に引かれて彼 女たちを妻とした「神の子ら」は、エデンの園とこの地上を行き来しました。ところが、神が「それで 人の齢は、百二十年にしよう。」と宣言されてからは、エデンの園に行くことができなくなりました。 神は彼らがこれ以上この地上と霊の世界の秩序を乱さないようにと、制裁を加えられたのです。
その結果、彼らは肉の人に転落しました。
エデンの園に住んでいたなら寿命が永遠だったはずなのに、肉の人になった後は限定されました。 このような寿命の変化は、もともとこの地上で生きていた肉の人にも起きました。900 歳以上の 寿命が一気に 120 歳になったのではありませんが、ノアの洪水以後、だんだん短くなりました。 [創世記 11:10-25]にあるノアの息子、セムの子孫の寿命がこれを証明しています。セムは 600 歳、その次のアルパクシャデは 438 歳、その次のシェラフは 433歳、その次のエベルは 464歳、 その次のペレグは 239 歳、その次のレウは 239 歳、その次のセルグは 230 歳、その次のナホル は 148 歳です。大洪水のさばきの前は、平均寿命が 900 歳を超えていましたが、その後は寿命 が短くなり続けました。
ところで「それで人の齢は、百二十年にしよう」というみことばには、「人の寿命が短くなった」とい う意味の他に、もう一つ重要な意味が含まれています。人の齢を 110 年にすることも、130 年に することもあるのに、神は 120 年にしようと仰せられました。このように、なぜあえて 120 年にしよ うと言われたのでしょうか?120 には「光の数」である 12 が入っています。したがって、神が人の 齢を 120 年に定められたことには、「光と闇を分けられる」という霊的な意味も含まれています。こ れは具体的に「闇に属する肉にすぎない人が光の領域に再び入れないように線を引く」という意 味です。まさに本文[2 節]の「神の子ら」は、その後はエデンの園へ帰ることができなくなったのです。
「120 年」さばきが臨むまでの猶予期間
これとともに、この地上に住んでいた人には、神が言われた「120 年」がさばきを受けるための猶 予期間を意味します。当時、この地上には人の罪と悪が満ちていました。エデンの園から降りてき て情欲を追い、無秩序に行った人々によって、この地上の人もさらに乱されてしまったと言いまし た。神はこの地上の人の悪がだんだん増し加えられることをご存じでした。そして、結局さばかれ るしかないところに至ることも知っておられました。このように、さばきが臨む時までの猶予期間を 「120 年」という年数で表現されたのです。
だからと言って、その時から正確に 120 年後にさばきが臨む、という意味ではありません。「120 年」は、さばきが臨むほど悪が満ちるまでの猶予期間、という象徴的な年数です。神がこのように 「猶予期間」を例示された他の例を、聖書で見つけることができます。まず[創世記 15:16]に、神 はアブラムに「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときま でに満ちることはないからである。」と仰せられました。今後アブラムの子孫であるイスラエル民族 がエジプトで暮らして、カナンの地へ帰ってくるだろうが、その時が四代目だという意味です。そ の理由は、当時カナンの地に住んでいたエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからだと言われました。
ところが、四代目になれば、彼らの罪と悪が滅びのさばきを受けるほど満ちるということです。神は このように、今後起こることを正確に知っておられるので、それに合わせて摂理を成し遂げられま す。さばきも祝福も、公義に従って成し遂げられます。本文に神が仰せられた「120 年」も、このよ うな場合です。将来、神のさばきが確かになされるが、そうなるまでには猶予期間がありました。 神は悪が満ちることを待っておられたのではありません。滅ぼすことを望まれる方ではないのです。 何としてでも罪と悪から立ち返って、救われることを望まれるので、あらかじめ知らせて機会を与 えてくださいます。しかし、当時の人々は神の第一次の警告を無視したまま、引続き罪と悪の中を 歩んでいきました。それで結局、洪水のさばきを迎えるようになったのです。
しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と 正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられる ことはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。── 神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。エゼキエル書 18:21-23
このみことばのように、当時の人々が神の警告を聞いて徹底的に悔い改めたなら、救いの機会を つかむこともあったでしょう。
「ニネべの人々の悔い改め」
[ヨナ書]にあるニネベの人々がその良い例です。彼らの立場では、ヨナは他国イスラエルの預言 者でした。それでもヨナが伝えたさばきの警告を決して無視しなかったのです。「もう四十日する と、ニネベは滅ぼされる」というヨナの叫びを聞いたとき、「そこで、ニネベの人々は神を信じ、」と あります。そして、直ちに悔い改めの姿勢を取ります。王と大臣たちとすべての人が断食するのは もちろんのこと、さらに家畜までも断食させました。ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返るようにしました。 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下 すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。 ヨナ書 3:10
このように、私たちの父なる神は人の子らを大切にして愛されるお方です。ところが、神が愛をも って機会を与えても、人が罪と悪を積み続けるなら、公義に従ってさばきが臨むしかありません。 それで結局、神もノア時代に洪水のさばきを決められたのです。



