朝の学び46 創世記5章 5
「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神ととも に歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とと もに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」 創世記 5:21-24
「聖霊時代には、神が私たちとどのようにともに歩んでくださるのでしょうか?」
新約時代、すなわち、聖霊時代には、神が私たちとどのようにともに歩んでくださるのでしょうか? 三位一体の神のうち、聖霊と主が分かれた霊としてともに歩んでくださることができます。
[ヨハネ 14:17 後半節]に「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからで す。」とあります。聖霊は私たちとともに住み、また私たちのうちにもおられます。[マルコ 16:20]に は「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴 うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。主の復活、昇天後、弟子たちが福 音を伝える時に、主が霊でともにおられたということです。すると、みことばがまことであることを 確かにするしるしが現れました。このように主がともにおられるなら、その証拠が確かに現れるのです。
「主がともにおられる人生」
ところで「主がともに歩んでくださる」時と、主がともにおられる時とでは、また違う次元のみわざ が現れます。私たちの主は、主の御名を信じて、御霊によって新しく生まれた神の子どもとともに おられます。心にまだ真理に逆らうものがあっても、何としてでもみことばを守り行おうとする聖徒 とは、ともにいてくださいます。また、恵みと愛を与えてくださるのです。ただし、神のみこころを知 っていながら、努力しないでみこころに任意に逆らって罪を犯す時は、ともにいてくださることがで きません。それは闇に属することだからです。神は光であり、主も光であるので、闇と光とは共存 できないからです。闇のわざを打ち捨てて、悔い改めて光へと出てきてこそ、光である神と「ともに」 いることができます。
「主がともに歩まれる人生」
罪を完全に捨てて聖められるなら、この時からは主とともに歩むようになります。御霊の歩みに深 く入ってきた程度によって差はありますが、聖霊の声を聞いて働きかけられて、いつも聖霊に導かれて生きられるのです。ですから、すべてのことに栄える祝福をいただけるのです。悪い者は触れることもできないだけでなく、何かの病気、病原菌も入ることができません。ひょっとして入ってき ても、耐えられず離れてしまいます。罪を犯さないから、敵である悪魔・サタンは試練や患難をもたらすことができないのです。もし何かの試練がやって来ても、信仰をもって打ち勝つので、かえ って神に栄光を帰すようになります。
御霊の歩みに深く入ってくるほど、祝福や栄える程度は変わってきます。全く聖なるものとされれ ば、また違う次元の祝福をいただき、神の大いなる栄光を現すことができます。 エノクも初めから神とともに歩める資格を持っていたのではありません。彼も他の人と同じように 耕作の過程を経ました。本性にある罪の性質まで引き抜く訓練を受けたことを知らなければなり ません。今からはエノクがどのように御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされたのか、大 きく二つ説明します。
「第一、エノクは善を積むことを楽しみました。」
エノクには多くの兄弟がいました。本文[19 節]に「エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、 娘たちを生んだ。」とあります。その間エレデはエノクの他にも、息子と娘たちをたくさん生みまし た。エノクは多くの兄弟の中で成長しましたが、その誰とも引っかかることがありませんでした。兄 弟にいつも譲ったからです。他の兄弟よりもっと持とうとしなかったのです。他の人より認められ よう、もっと愛されようとしませんでした。ただ自分のすることに最善を尽くしただけです。親にもっ と愛されようとする心がないので、他の兄弟が愛されるのを見ても、おもしろくないと思わなかっ たのです。むしろ喜びました。
また、自分がもっと認められるために、他の兄弟を牽制することもなかったのです。欲や私的な感 情もなかったので、すべての人との平和を追い求めていたのです。それで、主なる神を拝する資 格を備えたのです。
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも 主を見ることができません。 ヘブル 12:14
エノクは神のことばはもちろん、両親にも、真理にあっていつも聞き従いました。親が何か言うと、 逆らう心自体がなかったのです。それで、自分の意見を振りかざしたり、主張したりしませんでし た。親に言われたとおりに従いました。エノクはこのように善を追い求めて行い、善を積むことを 楽しみしました。その結果、65 歳から神とともに歩めるようになりました。
聖徒の皆さん、エノクが他の人より良い心を持って生まれたのは事実です。だからといって、エノ クが善を積み続けなかったなら、神とともに歩む資格を得ることができなかったでしょう。ところが、 エノクは他の誰よりも熱心に善を追い求めました。人はそれぞれ生まれた時から心に持っている 善の量が違います。また、それぞれの環境も、善の影響を受けやすい場合があるかと思えば、悪 の影響を受けやすい場合もあります。それでも人には自由意志があります。善と悪をわきまえら れる基本的な認知能力も持っています。
したがって、善を追い求めるのか、悪を追い求めるのかは、自分の意志にかかっているのです。比 較的良い心が少なく生まれたとしても、善を追い求めて生きるなら、心に善が積まれるのです。反 対に、もっと良い心を持って生まれたとしても、悪を追い求めて生きるなら、悪が心に積まれるの です。[マタイ 12:35]に「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物 を取り出すものです。」とあるとおりです。「善」と「悪」は物質ではないけれど、積めば確かに積ま れるのです。霊の世界での計算はとても正確です。各人が積んだだけ積まれます。エノクが65歳 から神とともに歩めるようになったのは、エノクが積んだ「全き善」の量が、その時ちょうど満たされ たからです。
「ヨセフが積んだ善」
ヨセフが 30 歳でエジプトの統治者になったのも同じです。その前に奴隷として、また囚人として 13 年生きる間、着実に善を積んだ結果です。ヨセフはその時、善よりは悪を行いやすい環境に置 かれていました。自分を奴隷に売ってしまった兄たちを恨んで、自分の身の上を嘆くこともできま した。濡れ衣を着せられて監獄に入れられた時も、捨て鉢になる状況でした。どうしても囚人は、 一般の人よりは対するのが難しいです。死にもの狂いになった人、恨みが骨にしみている人、 荒々しい性質のとおり言葉を吐き出して、ズケズケと行動する人が多いです。ヨセフはこのような 劣悪な環境でも、神を信じたので善を積んだのです。
すると[創世記 39:21]に「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心 にかなうようにされた。」とあります。その結果、監獄の長はヨセフに監獄にいるすべて囚人をゆだ ねました。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになったのです。監獄の長は、ヨセ フの手に任せたことについては何も干渉しませんでした。それは【主】がヨセフとともにおられるこ とを、彼も感じたからです。【主】はヨセフが何をしても、それを成功させてくださいました。ヨセフ が置かれた環境は監獄であり、相手にする人は囚人でしたが、誠実に善を積み続けました。つい にヨセフの善が公義の基準を満たすと、神はエジプトのパロに夢で働かれました。その結果、ヨセ フはエジプトの統治者になり、王の次になる権力を得ました。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。 ガラテヤ書 6:9
したがって、どんな状況でも悪に負けず、善をもって打ち勝ちますように。「良い倉から良い物を取 り出し」とあります。一度善をもって悪に打ち勝つと、それだけ善が積まれて、善が積まれただけ霊 的な力が強くなります。次には、悪に打ち勝ちやすくなるのです。それで結局、神が認められる善、 さらに全き善を実践できる皆さんになりますように。 エノクが御霊の歩みに入って、さらに全く聖なるものとされた理由は、善を積むことを楽しんだと いうことでした。神がエノクを用いて、私たちに与えられる教訓は「悪がなくて心の良い人を、神は まことに愛して、みもとに置きたいと思われる。」ということでした。
エノクについてのメッセージを聞いて、私達がさらに善なる美しい心を持ちますように。



