朝の学び45 創世記5章 4
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エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに 歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神ととも に歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。 創世記 5:21-24
「人類歴史の初期に人々はどのように生きていたのか」
人間の寿命が 900 歳以上の時代の人間の発達段階について説明しました。当時は人間発達の 各段階、すなわち、幼児期、児童期、少年期が今よりもう少し長かったです。特に青年期ははるか に長かったのです。それで子どもを生める期間も、今よりはるかに長かったのです。[創世記 5:32 節]を読むと、ノアは五百歳になったとき、息子たちを生んだことが書いてあります。したが って、当時は数百年にかけて多くの子どもを生んだことがわかります。これは、その当時の人々が 健康なからだで永い歳月を生きていたことを証明しています。言いかえれば、人が生まれれば、 健康に成長して成人になります。するとその時からとても長い間、その姿を維持しました。老化す る時点が非常に遅かったし、その速度も非常に遅かったのです。
人類歴史の初期の人々は、老化するとしても今日のようにはなりませんでした。もちろん、老年期 に入るある時点になれば、これ以上子どもを持つことはできなくなります。年をとって老人である ことはわかっていても、今日の病弱な老人のような姿にはならなかったのです。寿命が尽きて死 ぬ時も、からだが衰えて、やっと生きてから死んだのではありません。たいていは健康なからだで 老年を過ごし、寿命が尽きる頃には自然に息絶えて死にました。
大洪水のさばきの後も、信仰の人は平安に息を引き取ったことがわかります。たとえば、アブラハ ムは、[創世記 25:7-8]で「以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハム は平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。アブラ ハムの息子イサクも同じです。[創世記 35:28-29]に「イサクの一生は百八十年であった。イサ クは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤ コブが彼を葬った。」とあります。[申命記 34:7]には「モーセが死んだときは百二十歳であったが、 彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」とあります。
アブラハムは 175 歳、イサクは 180 歳まで生きました。大洪水の後なのに長生きしました。モーセ は 120 歳だったのに、目はかすまず、気力も衰えていなかったと書いてあります。神がモーセを召 されなかったなら、この地上でもっと長く生きられるほど、十分健康なからだだったのです。今日 も、心を御霊に属するものに耕すほど健康になります。[第三ヨハネ 2 節]のように、たましいに幸 いを得ているように健康であるのです。前に「いのちの種」の説教で説明したように、御霊の歩み に入るなら老化が止まり、全く聖なるものとされれば若返りします。身体のすべての機能が最上の 状態に回復するのです。
「神様が私たちに聖書を解き明かしてくださる理由」
平均寿命 900 歳以上だった時の時間の流れのスピード感と身体発達を分ける区間が、今日と違 うことを説明しました。漠然と「その時はほとんど 900 歳以上長く生きた」とだけ言うなら、聖書を 疑う人もいるかもしれません。ところが、きょうの内容を理解すれば、疑いの余地がなくなります。 聖書がまことの記録であることが完全に信じられるのです。このように、神が私たちに聖書を解き 明かしてくださる理由がまさにこれです。私たちが聖書が神のことばであることを信じて、すべて の記録が歴史的な事実であることを信じ、みことばどおり生きるようにするためです。
きょう伝えた創世記のみことばがまことであるように、大審判についての他のみことばもまことで す。私たちの主イエス様も、[マタイ 5:18]で「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせな い限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と言 われました。父なる神はみことばどおり成就して行い、さばきをなさいます。したがって、聖徒の皆 さんは父なる神のことばを「いのちの糧」としますように。毎日みことばを喜んで口ずさみ、また守 り行うようお願いします。それで、「みことば」すなわち「神」と一つになった幸いな人生を歩みます よう、主の御名によって祈ります。
「アダムの 7 代目エノク」
エノクについての聖書の記述は短いけれど、私たちに与える教訓は非常に大きいです。第一は、 エノクがこの地上でも神とともに歩む生き方をしたこと、第二は、死を見ることのないように天に 移されたということです。私たちはこの二つだけても、エノクが偉大な昔の信仰の人だったことが わかります。
[第二テモテ 3:16]にあるように「聖書はすべて、神の霊感によるもの」です。ところで、神が、記し た人たちにご自身の霊感を与えられたとき、昔の信仰の人ごとに強調する点が違いました。たとえ ば、アブラハムを通しては信仰について、モーセを通しては指導者として神に認められる生き方に ついて、ダニエルを通しては妥協しない信仰、ダビデを通しては、訓練を受けても神を愛するがゆ えに、見事に通り抜けて美しい器になったこと、またエリヤ、使徒パウロなど、それぞれ代表的な人 物を通して、彼らが神のお心をどのように理解して、どれほど愛したかを表してくださいました。そ れでは、神がエノクを通して、私たちに教えようと思われるみこころは何でしょうか? それは、神 は悪がなくて心の良い人をまことに愛して、みもとに置きたいと思われるということです。
本文を読むと「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ、エノクはメトシェラを生んで後、三 百年、神とともに歩んだ。」とあります。そして、三百六十五歳で「神が彼を取られたので、彼はい なくなった。」とあります。当時は平均寿命が 900 歳を超えていました。したがって、エノクは当時 の人々の 3 分の 1 程度だけこの地上で生きたのです。そして、死を見ることのないように天に移 されました。[ヘブル 11:5]にも「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。 神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされてい ました。」とあります。エノクはこのように、この地上で生きる間「神に喜ばれていること」があかしさ れていました。ですから、この地上でも神とともに歩むことができたのです。
「神がエノクとともに歩まれた」とは」
それでは、まず「神がともに歩まれる」ということが、どういう意味なのか調べましょう。神がエノク とともに歩まれたとは、はたしてどんな意味でしょうか?神ご自身がこの地上に降りてきて、エノク とともにいてくださったのでしょうか?エノクの手を握って歩いたり、直接話をしたりしながらです か?そうではありません。
神がエノクとともに歩まれたという意味は「神がエノクといつも交わって、エノクの人生をご自身 で導かれた」という意味です。その時、神はエノクに霊の知識をたくさん教えてくださいました。三 位一体の神について、人間耕作の摂理について、霊の世界の奥義と天国についても明らかに教 えてくださいました。やがて起ころうとしている事についても教えてくださったのです。たとえば、 [ユダ 14-15]に、エノクが人間耕作の終わりに起こることを預言した内容があります。「アダムか ら七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連 れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさ いと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定 めるためである。』」と記されています。エノクはその時すでに、主が世の終わりの日に、空中に降 りて来られることを知っていたのです。これらの事実は、神とともに歩む間、神と明らかに交わって いたので知ることができました。
「エノクが神の姿を拝したということ」
これとともに、エノクは時に応じて神の姿を拝することもできました。これにも二つの意味が込め られています。まずは、アダムがエデンの園で生きていた時のように、神が分かれた霊としてエノ クのところに来られた場合がありました。エノクの心に感動を与えて、神がともにおられるような感 じを与えられました。それとともに、他の誰にも知らせなかった父なる神の姿について、唯一エノク には教えてくださいました。エノクが父なる神を描こうとするなら、十分に描けるほど、神ご自身に ついてすべてを明らかにしてくださったのです。
エノクが神の姿を拝したということには、第二、モーセのように神の御姿のかたちを見たという意 味が含まれています。[出エジプト 33:18 節以下]に、神がモーセにご自身をどのように現すのか、 説明された内容があります。[18 節]で、モーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」 と言うと、神は[20-23 節]で「また仰せられた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人は わたしを見て、なお生きていることはできないからである。』また【主】は仰せられた。『見よ。わたし のかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わ たしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られな い。』」と答えてくださいます。
モーセも神と明らかに交わっていたが、神の御顔は直接拝することはできなくて、「うしろ」だけが 見られました。これはエジプトから出てきて満 2 年にならなかった時です。モーセが完全になる前 のことでした。モーセも荒野で 40 年を送りながら、さらに謙遜で忠実に仕える者になりました。数 百万人の民を導きながら、父なる神の心をもっと深く悟り、完全に似せられていきました。それで、 彼がすべての使命を全うして 120 歳で一生を終える時はどうなったでしょうか? モーセのよう な預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出さ れた。」 申命記 34:10
このようなモーセのように、エノクも神と顔と顔とを合わせることができました。もちろん、初めから 神の御顔を直接拝することができたのではありません。モーセに比べてはるかに長い歳月をこの 地上で神とともに歩む間、ますます父なる神と親密になりました。そうなった時に初めて神がエノ クに御顔を現してくださいました。ところが、エノクがそのように神を拝した時と、その後、死を見る ことのないように移されて、父のふところにいだかれた時とでは、その感動の差は比べられないほ ど大きいです。私たちも同じです。この地上で御霊に感じて父の愛をたっぷり感じることはできる けれど、将来、天国に入って父に直接拝する時は、その感動がどれほど大きいでしょうか。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることにな ります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、 私も完全に知ることになります。」 第一コリント 13:12
私たちが天国の三天層以上に入れば、父の御顔も主の御顔も、直接拝することができます。[黙 示録 21:3-4]にも、神が直接私たちとともにおられ、私たちの神になられ、私たちの目の涙をすっ かりぬぐい取ってくださるとあります。ただし心のきよい者、すなわち、聖められたまことの子ども になった時に、父なる神の御顔を拝することができるのです。また、すべての人と平和を追い求め た人が主を見ることができます。エノクはこれらの条件をあふれるまで備えました。それで、この 地上でも神とともに歩めて、時には神の姿を見ることができたのです。
