朝の学び41 創世記4章
セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名 によって祈ることを始めた。 創世記 4:26
「主の御名によって祈ること」
本文[26 節]には「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、 人々は主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。ここで「そのとき、人々は主の御名によ って祈ることを始めた。」とは、どういう意味でしょうか?これを逆に考えてみれば、それまでは 人々が主の御名によって祈らなかったということです。 それでは「主の御名によって祈る」とは、具体的にどういう意味でしょうか?神である主の存在と その方の力を信じて、礼拝して祈ることです。
たとえば[創世記 26 章]で、イサクが主の御名によって祈る場面があります。[24-25 節]に「主 はその夜、彼に現われて仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはなら ない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わた しのしもべアブラハムのゆえに。』イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこ に天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。」とあります。
この時、イサクは、自分に現れた神の存在を信じました。また「わたしがあなたとともにいる。わたし はあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。」と言われたことも信じました。これに感謝して 祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。このように、神がおられることと神の力を信じて、神 に礼拝して祈ること、これがまさに「主の御名によって祈ること」です。
「主の御名を呼び求める者」
一方、[ヨエル 2:32 前半節]には「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」とあります。旧約の この聖句を引用した[ローマ 10:13]には「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」とあ るのです。
参考までに、ユダヤ人は神の御名である「ヤハウェ」をあえて口にすることができません。聖書に 「ヤハウェ」という単語が出てくれば、「主」を意味する「アドナイ」に代えて読みます。したがって、 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」というみことばは、単に口だけ「主よ、主よ」と 呼ぶからといって、救いが保障されるという意味ではないことがわかります。神がおられることと その方の力を信じて、神の御子イエス様が救い主であることを信じて、心から神を恐れて礼拝す る者がまさに救われる、という意味なのです。
それで、[第二テモテ 2:19 後半節]にも「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」とある のです。また、[マタイ 7:21]には「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国には いるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とあります。不 義から離れて、父なる神のみこころを行う者でこそ、まことに「主の御名を呼び求める者」であり、 こういう人が救われるのです。
[イザヤ 59:1-2]にも、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえな いのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの 罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。人々がいくら神に「助けてく ださい。助けてください」と切に呼び求めても、神が聞いてくださらない場合があります。神の耳が 遠くて聞こえないのではなく、人の罪によって神との間に仕切りができたからです。
もし皆さんが密閉された空間に閉じ込められたとすれば、その中でいくら助けてと叫んでも、その 声が外にまともに出ていかないのです。壁が厚くて固いほどさらにそうです。このように、罪を犯 せば神との間に仕切りとなり、いくら神を呼び求めて祈っても、その祈りが神に伝えられません。 ですから、答えられないのは当然です。
ですから、神との間に罪の壁がないなら、どれほど神と明らかに交わるでしょうか。[ゼカリヤ 13:9 後半節]に「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民。』と言 い、彼らは『主は私の神。』と言う。」とあります。このように、父なる神は人の子らと交わることを願 っておられます。私たちが父なる神の御名を呼び求めると、耳を傾けてお聞きになり、答えること を願っておられます。
「神様から遠ざかるアダムの子孫」
それで神は、アダムとエバをこの地上に送り出された後も、霊の通路を閉じられませんでした。ア ダムとエバはこのような神についてよく知っていたので、この地上で生んだ子孫に教えました。 「神様は創造主であり、全能なる方なので、心から仕えて礼拝しなければならない。」子どもたちが 神を見つけるように言い聞かせました。子孫が神の御名を呼び求めて祈り、神と交わることを願ったのです。
ところが、すぐ次の代であるカインでさえも、心から神を恐れたのではありません。ですから、自分 が正しいと思ったとおり、神にいけにえをささげる行為が出てきました。ましてアダムとエバのふと ころを離れて、遠くに住んでいた子どもたちはどうだったでしょうか。父のアダムから聞いた神、そ の存在に対する認識がすぐ薄れました。一世代、一世代と過ぎるほど、こういう現象はさらにひど くなりました。こうなったことには、空中の支配者である悪い霊どもの影響が大きいです。サタンは、 アダムの子孫が神に対する信仰が持てないように働きかけていきました。心に真理に逆らうもの を入力させていき、ますます悪に染まるように働いたのです。
アダムの子孫は、霊の世界であるエデンの園を言葉では聞いたが、直接体験しませんでした。同 じように、霊である神について聞いたが、神を見たり、その御声を聞いたことがなかったのです。 それで、心から信じて恐れなかったのです。考え方も肉の限界にとどまっていたので、目に見えて 手に触れるものは信じたが、目に見えないものは信じられませんでした。その結果、アダムが知っていて信じた神を、この地上の子孫はよく知らなかったのです。
「神とともに歩む「セツ」の系図」
もちろん、その中でも心が善なる子どもたちは、アダムから聞いて知るようになった神を信じて、 自分なりに「どんな方だろうか」と探り窮めました。まさにアベルがそうだったし、アベルの代わりに 神が下さったセツがそうでした。それで、アダムは、代を継ぐ息子をセツにするしかなかったのです。
実際、アダムの息子のうち、セツの系図以外には、神とかかわりのない肉の人に変わっていきまし た。そのうち結局、ノア時代になって、洪水のさばきを受けるしかないほど、この地上に人の悪が 増大しました。洪水のさばきは、この地上に人間耕作が始まってから約 1,600 年目に起きました。 聖書の年代を合算すれば、洪水まで正確に 1,656 年になります。神はこうなることをあらかじめ ご存じでした。それでも人間耕作は続くべきだったので、「その時代にあっても、全き人であったノ ア」という人物がその時に生まれるようにされたのです。このノアは、まさにセツの九代目です。ま た、セツの子孫の中には「エノク」という偉大な人物もいます。
「霊と肉の流れ(アダムの正統を継ぐセツの系図とカインの子孫レメクの系図)」
きょうは、カインの子孫であるレメクと、アダムの正統を継ぐセツについて調べました。カインの子 孫とアベルの代わりをしたセツの子孫は、相反する二つの流れに乗ったことがわかります。カイン がいけにえを思いのまま変えたように、彼の子孫であるレメクも、神のことばを勝手に変えてしま いました。これとは違って、セツと彼の子孫は心から神を恐れて仕えました。
この二つの系図の違いは、単に血筋の差でしょうか?そうではありません。神はこの上なく大きい 罪を犯したカインにも、限りない憐れみと慈しみを施されました。カインがこの神の恵みを忘れな かったなら、子孫が神を恐れるように教えて、よく言い聞かせたでしょう。神は公平に愛を施され ますが、それぞれの人がどんな心で神を捜すのかによって、結果が違ってくることがわかります。
終わりの時になるほど、霊と肉の流れははっきりと分けられるのが見られます。三位一体の神は、 すべての人が救われて、すばらしい天国に入ることを望んでおられます。それで、多くの恵みと愛 を施してくださっています。霊の流れに乗るか、肉の流れに乗るかは、各人が自由意志によって選 ぶことです。私たちは、心から神を愛するので霊の流れに喜んで乗り、皆が父なる神に喜ばれるま ことの子どもになりますように。



