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朝の学び183 創世記27章

2 日前
読了時間: 7分


創世記 27:38-41

エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」


序論


皆さん、人が悪を捨てて善を成した時にくる心の平安と喜びと幸福は、それを体験した人だけが知ることができます。いくら頭では善が良いということを知っても、いざ心に善を成すことができない状態では結局、悪が出てくるので苦痛と苦しみを受けることになります。例えば、真理である神様の言葉に照らしてみれば、善は相手がうまくいくのを見た時、一緒に喜んであげれるのです。心から湧き出る喜びです。自分がとても欲しいものを他の人が持った時、皆さんの気持ちはどうですか?「どうして?あの人は持っているのに、なぜ私は持っていないのだろう」とか、そんな気持ちは持っていませんか?または、同じような立場にいた人が自分より先を行く姿を見ると、訳もなく心が苦しく落胆していませんか?もし、このような心を持っているなら、その心が発動された時、どれほど辛くて苦しかったかを自分で一度考えてみてください。「私は辛かった。苦しかった。」と感じれば、自分の心がそれだけ悪だという証拠です。むしろそれが嬉しかった、幸せだったと覚えるなら、自分の心が善良だということを証明します。

この他にも他の人が褒められて認められる姿、愛される姿など、相手がうまくいく姿を見ながら、単純に羨む次元を越えて嫉妬や、やきもちをすれば、その心がまさに地獄のような感じになります。そうすると、ある人はご飯も食べられず、睡眠もまともに取れず、苦痛を受けて、後には病気にまでなる場合もあります。反面、心を真理に築き上げて相手がうまくいくことを一緒に喜び、自分のことのように幸せになれる善良な心なら、その心がまさに天国のような感じです。本文に出てくるエサウの場合は、その心が地獄のような感じでした。自分に当然与えられると思っていた長子の祝福を、弟のヤコブが受けたことを知って、あまりにも悔しくて我慢できず、さらに弟を殺そうとする心まで抱いたのです。善良な人なら、このような状況でもどうするのが善の方法なのかをまず考えたはずです。完全な善が臨んだ人なら、弟に長男の祝福が行くのを見ながらも、一緒に喜ぶことができたでしょうし、たとえ今はそうできないとしても、何とか善で考えていきます。


ヤコブに仕えるようになったエサウ


エサウが、もしこの時でも自分の過ちを悔い改めて、神の前にひざまずいたとすれば、そして静かに退こうとする心を持っていたら、神様は彼のへりくだった姿をご覧になって、どうして祝福してくださらないでしょうか? ところが、エサウの頭にはただ「長子の祝福は私が受けなければならない」という一つの考えだけでした。それで38節にイサクに「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」と声を上げて泣くのです。愛する息子のこのような姿を見て、父であるイサクの心がどれほど痛かったでしょうか?イサクは残念な気持ちでエサウのために祝福の祈りをしてあげますが、霊的な法則に詳しいイサクとしては、ヤコブと同じ祝福をエサウに祈ることはできませんでした。 むしろ、ヤコブが先でエサウが後だという二人の間の霊的な秩序をより明確に指摘する祈りをするしかありませんでした。

39-40節に「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」とあります。「おまえの住む所」とは、エサウの所属がどこにあるかを示しています。「私が今どこに住んでいて、どこに属しているのか」を表しています。彼に属するすべてのこと、つまり彼が食べたり飲んだりしながら生きていくことがどこから来るのかを物語っています。 それはどういう意味でしょうか?


創世記27:28では、イサクは、「神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。」と、ヤコブを祝福しました。この時「神がおまえに天の露と地の肥沃、」とは、豊かな収穫の泉となる天の露と地の肥沃が神様から来ることを言います。結局、すべての祝福もまた、祝福の根源である神様から起因するという意味です。神様の保証された祝福があることを祈ってあげたのです。

そして、イサクがエサウのために「おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。」と祈った言葉は、エサウがこれから受ける祝福が、今は長子の祝福を受けたヤコブに仕えることを示しています。天の露と地の肥沃の祝福が、長子の祝福を受けたヤコブに与えられたので、エサウは結局、ヤコブに仕えてヤコブが受ける祝福の一部を受けるということです。 また、イサクはエサウに「おまえはおのれの剣によって生き、」と言いました。 これは彼がこれからどんな人生を送ることになるかを物語っています。 「おのれの剣によって生き、」ということは、彼が誠実に行うだけ得るという意味であり、同時に神様から離れて変わってしまう時は、絶え間ない侵略と戦争の中で守られないことを意味します。そして、「おまえの弟に仕えることになる。」と言いましたが、これはヤコブとの上下関係を正確に示すものです。ヤコブが主権者として立ち、エサウは彼に属するということです。

次に、「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」とあります。エサウがヤコブに属して、秩序上、目下の人としてつけられることになったくびきは、彼がこの地の生を終える時になってこそ解き捨てられるという意味です。エサウは長男ですが、ヤコブに仕える者となり、秩序上、目下の者となったくびきを、彼がこの地の生を終える時になって初めて、首から振り払って自由になるという意味です。ところが、この地の生を終えると、たとえこの地で縛られたくびきは解けても、正確な霊的な秩序の中で生きていく来世が待っているという事を知らなければなりません。


将来、私たちが行くことになる天国では、この地でどれほど心を霊で築き、どのように行ったかによって正確な秩序関係が築かれます。「蒔いた通り、行った通りに返してくださる」という霊界の法則に従って、この地で霊として蒔かれた分、必ずその通りになります。そのため、この地でたとえAという人がBという人より秩序上もっと上にいたとしても、後に天国に行ってみれば、序列がいくらでも変わることがあります。この地での富と名誉と権勢と力などは、後に天国での序列を決めるのに何の影響も与えられないという事です。どれだけ信仰、希望、愛があり、心が聖潔であり、善で築いたのか、そして神の国のために忠誠したのか、まさにこのようなことを総合して将来天国の序列が決まります。

まだ霊の世界をよく知らない方は、天国にも序列があるということが理解できないかもしれません。天国には序列があるので、より幸せで美しく生きることができます。この地では、目上の人はもっと仕えられようとし、目下の人は心にもないのに、表面だけ仕えているふりをする姿も多いですが、天国の序列はそのような関係ではないのです。序列が高い人はむしろ下の人をもっと愛して仕えようとし、下の人もやはり上の人を心の中心から湧き出る愛と尊敬で仕えるところが天国です。このような序列は万軍の主、神様が決めてくださったものなので、絶対に変わることはありません。

では、天国ではお互いの序列をどうやって知ることができるのでしょうか?天国ではお互いが霊で通じるので霊で感じます。また、霊の体から出てくる光と着ている服、そして装飾品などが、霊的な序列と神様から愛される程度を教えてくださいます。だから、たとえこの地の生を終えて、ヤコブとの関係の中に縛られていたくびきを脱ぐとしても、ヤコブは、はるかに良い天国に行ったので、将来天国でも、エサウが再びヤコブに永遠に仕えながら生きることになります。

エサウがなぜヤコブに劣る天国に行くしかなかったのかは、続く41節で分かります。「エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」とあります。いくらヤコブが憎くてその感情を押しとどめることができなくても、どうやって実の弟を殺そうとする気持ちまで抱くことになったかを考えれば、彼の心の悪がどれほど深いかを知ることができます。

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