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朝の学び180 創世記27章

10月16日
読了時間: 9分

               

 創世記27:32-41


イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。 彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」


長子の祝福の祈りを受けるのに備えなしに出てきたエサウ


遅れておいしい料理を準備してきたエサウは、父親のイサクに「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」と言います。この話し方も、皆さんがよく考えなければなりません。「お父さんは起きて」は、父の自由意志でなければならないのに、命令口調になっています。目下の息子が父親に「起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。」また、このように父親の心に命じることではありません。「あなたご自身が私を祝福してくださるために。」と言いながら、自分に長子の祝福を祈ることをあまりにも当然のことと考え、堂々と要求しています。

ヤコブが祈りを受けるために準備したように、晴れ着を整えて着るとか、謙遜な態度で祝福を求めるのではなく、当然受けるものをもらいに来たというような態度です。まさにこのような姿を通しても、エサウの心がよく表れています。長子の祝福を受ける席に、あまりにも備えなしに出てくる姿を見る時、彼が長子に与えられる祝福の大切さを軽んじているということを、もう一度感じることができます。また、彼がどれほど善良な心とはかけ離れていて、自己中心的であるかを知ることができます。エサウが本当に善良な心を持っていたなら、最初に、父親のイサクが自分に祝福を祈る為に、狩りをしておいしい料理を作って持って来るように言った時、すぐに弟のヤコブのことを思ったはずです。父に「それではヤコブにはどうしますか? 」こうやって聞くこともできたでしょう。善良な心なら、自分だけ祝福を受けようとするのではなく、当然弟にも祝福が臨むように考えただろうということです。

ところが、エサウは父から「おいしい料理を作ってくれば、思う存分祝福しよう」と言われた時、弟のヤコブを念頭に置いたのではありません。何とか早く出かけて狩りをして、おいしい料理を作って持ってきて、自分に与えられる祝福を受けようという気持ちだけでした。だから実際に狩りをしておいしい料理を作って持ってきた時も、弟に対する言及は一言もなく、自分にだけ「思う存分祝福を祈ってほしい」と要請しています。エサウの心がどれほど自己中心的で、自分の利益だけを追い求めようとする心なのか、またどれほど相手を配慮できない狭い心を持った人なのかがよく現れています。


父親のイサクに祝福を祈ってほしいと懇願するエサウ


エサウは血を分けた兄弟でありながらも、ヤコブに対して配慮できない狭い心を持っていたため、自分が受ける祝福だけを求めていましたが、結果はむしろすべての祝福がヤコブに臨みました。エサウがイサクの前に出て「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」と言った時、イサクはあまりにも当惑せざるを得ませんでした。先ほど、ヤコブにすべての祝福を祈った後、再びエサウが現れて祝福を祈るように求められたイサクは、思いもよらない状況に当惑し、「おまえはだれだ。」と尋ねた時、「私はあなたの子、長男のエサウです。」という答えを聞くことになります。その時になってようやくイサクは状況が把握できました。しかし、すでに時は遅かったのです。

33節を見ると、この時「イサクは激しく身震いして」と言っています。これは、イサクがある戸惑いやヤコブに対する憤慨のために震えたものではありません。まさに神様の前でひどく震えたのです。では、イサクはなぜ神の前で震えたのでしょうか?それは、自分が神の意思に反して祝福を祈ったと思ったからです。イサクは、長子の祝福が当然、エサウに行くべきだと考えていました。これはイサク自身の考えの中で出たものでしたが、イサクの考えでは、エサウが一番年上の子だったので、当然、エサウに長子の祝福が行くことが神様の御心だと思いました。もちろん、神様は誰に長子の祝福が行くことが神様の御心なのかを、すでに胎の中にいる時から悟らせてくださったにもかかわらず、イサクはあまりにも自分の考えに固く捉えられていたので、依然として長子の祝福がエサウに行くことが、神様の御心だと考えたのです。だから今の状況でイサクは、自分が神様の御心に反して、とんでもない人に長子の祝福を祈ってしまったと思ったのです。したがって「この事態をどうすればいいのか」という気持ちで、イサクはひどく大きく震えるしかなかったのです。

さらにイサクは、一度主の御名で祝福を祈ったことを再び取り戻すことはできないという事を知っていました。それで「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」とあります。この言葉を聞いた時エサウは、大泣きして言います。34節に「私を、お父さん、私も祝福してください。」とあります。以前、自分が煮物一杯で長子の権利を売ったことを全く心にかけていませんでした。依然として長子の権利は自分にあると思っていました。そして今も彼の父イサクによって長子の祝福の祈りを受け、その祝福が自分に臨まなければならないと考えたのです。しかし、彼も父イサクの言葉を通して取り返しのつかない状況であることに気づき、このように大声で泣き叫んだのです。


イサクも状況を把握するようになると、すぐに責任を回避することが見られます。 35節に「父は言った。『おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。』」とあります。もちろん事実でしたが、イサクは自分の不覚や過ちは全く考えず、すべてを狡猾な知恵を用いて自分を欺いたヤコブに責任を嫁しています。しかし、このようにイサクが、自分は騙されてヤコブに祝福を祈ったと思っても、すでに一度祈った祝福は取り返しのつかないものです。神様の人を通して神様の名前で祈ったものなので、イサクが唇で出した言葉はそのまま叶います。それでも、エサウは最後まで自分の悔しさを訴え、イサクに自分にも祝福を祈ってほしいと懇願します。

36節に「エサウは言った。『彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。』また言った。『あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。』」とあります。しかし、イサクがエサウのためにできることは、嫡流への祝福ではなく、一般的な祝福を祈る次元でした。ヤコブにすでに祈った長子の祝福を、再びエサウに祈るからといって、祝福が臨むわけではないからです。このような状況で、エサウはついに、弟のヤコブを殺そうとする心まで気持ちまで抱くようになります。この時からヤコブには本格的な訓練が始まります。その内容は次の時間に続けて説明したいと思います。

結論


皆さん、イザヤ55:11に「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とあります。この言葉通り、神様の意思の中で宣言された言葉は必ず叶うことになります。本教会においては、神様がすでに開拓の時に「世界宣教を成す教会、大聖殿を成す教会」という驚くべき祝福の言葉をくださいました。そして22年が過ぎた今になって見ると、私たちは神様のお言葉がそのまま叶っていくのを見ています。すべてのことをご存知の神様は、誰を選んだ時に神様の意思が完全になされるかを知っています。それでヤコブを選んだのも、彼がまだ足りないですが、訓練の後に変化する姿を知っているので、彼を選んで長子の祝福を受けるように摂理していったのです。

本教会も開拓当時の姿を見て、そのように遠大な夢とビジョンが込められた祝福の言葉をくださったのではありませんでした。訓練を通して純金のように出てくる皆さんの姿をご存知だったので、祝福の言葉をいただき、今まで皆さんを美しく訓練してこられたのです。今年二番目の祈祷題目のタイトルのように、"霊の人"つまり"実"にしてこられたのです。ヤコブは、訓練の道が始まる時点で、神様がくださった約束の夢を見るようになった時、信仰で受けました。そのため彼は、神の摂理の中で訓練をよく受け、ついにはその名前をイスラエルと称されるようになり、イスラエル民族の始祖となります。そして、彼にくださった神様の約束が全て成就されたのです。


このように皆さんも本教会に下さった約束のお言葉、また万民の聖徒に下さった約束のお言葉を信仰で受けて、完全に成就する祝福された聖徒たちになりますように願います。それで神様の栄光と本教会の栄光が全地に広く現れるようになる2005年に、神様がかぶらせて下さる美しい冠が、皆様にも栄光の中に臨みますように主の名前で祈ります

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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