朝の学び181

創世記27:31-45
父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」
序論
皆さん、人がまだ完全になる前まではミスというものがあり得ます。しかし「その人の性格がどうなのか」ということと「どれだけ心を尽くすのか」によっていくらでもミスをしないこともあります。気性が几帳面で落ち着いた人と、逆にそそっかしく、うわべだけの人とは同じことをするにあたっても、多くの差が出るのです。また、心を込めて仕事をする時とそうではなく、適当に仕事をする時とでも結果において多くの差があります。このように性格や心遣いによってミスが出ることもあり、そうでないこともありますが、ミスをよくする人たちを見ると、概して自分のミスを認めないという共通的な特徴があります。
あることに対して同じミスをした時、それを謙虚に認めて受け入れる人と、そうではなく認めようとしない人とは、変化の程度が全く違います。これは必ずしも間違いだけではありません。自分の足りない点やまだ捨てられない非真理の姿を発見した時、または誰かが指摘してくれた時、どれほど心の中心で認めて受け入れるかによって、真理に変化する速度が大きく変わります。もちろん、自分が足りなくて不完全な姿を認めて受け入れるということが、時には心が痛くて辛いことかもしれません。しかし、それも初心者やまだ信仰が弱い時の話です。本当に信仰があって、霊を慕って真理に変化するために努力する方々なら、誰かが自分の不足を指摘してくれたり、自らを発見するようになった時にはむしろ喜んで感謝します。
皆さんは自分を発見できず、依然として肉にとどまっていることと、たとえしばらくは心が痛くても、自分を発見し変化して霊に向かって走ることの、どちらを選びますか? 真に霊を慕う方なら当然後者を選ぶでしょう。訓練を受ける時も、それが祝福であることに気づき、喜びと感謝で通過しなければならない理由もまさにここにあります。人が訓練を受けるときには、それ自体が幸せな人はいないでしょう。訓練の中には心が痛くて涙も流さなければならず、時には心を引き裂く哀痛もあり得ます。それでも訓練を祝福とする理由は、訓練の後に来る変化のためです。
ヨブ23:10に「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」という言葉のように、鍛錬、すなわち訓練を通してのみ、この純金のように出てくることができるのです。ですから、すべてを信仰の目で見る人は、訓練の中でも喜び、感謝することができます。訓練を通して発見される自分の姿を謙虚に認め、受け入れる時、訓練もより迅速に終えることができます。反面、発見される自分の姿を認めようとしない人は、結局それを認め、変化するまで長い訓練の期間、進展なくとどまることになります。ですから、ミスであれ、または自分の未熟で足りない姿であれ、それを認めて受け入れて肝に銘じ、以後に変化していくということが非常に重要です。また、そのような人こそ霊に、全き霊に迅速に変化することができます。
自分の過ちをヤコブに責任転嫁するイサクとエサウ
本文に出てくるイサクとエサウは、自分の足りなさを認めようとはせず、むしろ他人のせいにする姿です。イサクは、自分が長子の祝福を祈った相手がエサウではなくヤコブだったことを知ると、エサウに「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」と言います。このような姿なので、イサクは依然として自分の足りない姿に自分で気づいていないのです。「なぜこのようなことが発生したのだろうか?」と先に自分を振り返る心だったとすれば、神様が自分を発見して悟ることができる恵みを与えたはずです。
エサウにおいても同様です。自分にこのようなことが起きたとすれば「なぜこのようなことが起きたのか」を先に振り返らなければならないのに、エサウもやはりヤコブのせいだと汲々としました。以前あったことまでも取り上げ、すべての責任がヤコブにあると言っています。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」自分がどれほど長子の権利を軽んじ、長子の祝福を受けるには、神様の前にどれほどふさわしくない姿なのかは考えませんでした。他人のせいにばかりする姿では、自分の足りない姿を見つけることができず、変化することもできません。エサウがもし自分の過ちを悔い改め、振り返りながら神様の前にひざまずいたとすれば、神様は彼の謙虚な姿を見て、さらに祝福される道を開いてくださったでしょう。しかし、自分の言葉がどれほど悪から出たのかさえ気づかないまま、祝福を祈ってほしいとだけ要請しています。
イサクの信仰と天国での彼の地位
もしイサクが、彼の父アブラハムのように広くて大きな心を持った人だったら、このような状況でどうしたでしょうか?ヨハネ6:63の前半節に「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」とおっしゃった通り、皆を生かす道を見つけたはずです。ヤコブも息子なので、むしろ今回のことでエサウとの仲がもっと悪くならないように気を遣います。ところが、イサクは霊の心で広く見ようとするよりは、すべてをヤコブの責任にすることだけに汲々としました。
アブラハムは、甥ロトが明らかに目に見える良い土地を先に選んでいく時も、心に何のわだかまりもありませんでした。また、良い土地を選んで行ったロトが、戦いで捕虜として連れて行かれたという知らせを聞いた時にも、アブラハムの心遣いがよく表れています。肉の人なら「ほら、先に良い土地を選んで行ったのに、結局そうなってしまった」と言って、すべての責任をロトに返したでしょう。しかし、アブラハムはこのような状況でも、ロトに対する心配が先立ちました。何としてもロトを取り戻そうという気持ちだけだったので、家で生まれたしもべ達を率いて駆けつけ、ロトを救い出します。これがまさに善で築かれた霊の心であり、父なる神様に似た心です。
ところが、イサクはアブラハムの心とは異なり、責任を避けることだけに汲々とした姿でした。彼は父親であるアブラハムに教えられたことを肝に銘じて行い、それなりには善良な心を成し遂げ、信仰を現わす人生を送りましたが、アブラハムと比較する時には多くの違いあります。イサクの完全ではない姿から、彼の信仰が完全な霊の段階には至っていないことが分かります。そのため、イスラエルの歴史に残る重要な使命を果たしたにもかかわらず、新しいエルサレムには至りませんでした。彼の信仰を真理に照らしてみると、霊の段階、すなわち悪は形でも捨てた聖潔の次元に入ってきたとは言えません。
しかし、行為的な旧約時代の信仰を、今日のような聖霊の時代の基準で評価してはいけません。イサクのような信仰で今日の聖霊時代を生きていけば、聖霊の助けの中で聖潔の次元に至ることができます。たとえ彼が新しいエルサレムに入る資格はないとしても、三天層には達することができるのです。さらに、イサクは神様の摂理の中で自分に与えられた使命を果たした人物であり、その心は何としても従おうとする心だったので、三天層に達することができました。



