朝の学び182 創世記27章

ヤコブへの復讐心に燃えるエサウ
創世記27:35-41
父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」
ヤコブの信仰と天国での彼の位置
それならヤコブはどうでしょうか?ヤコブはすでに胎内から神様が彼の中心を見て選んだ人です。その心に狡猾な属性がありましたが、神様は彼を訓練して砕かれ、結局はイスラエル民族の始祖になりました。しかし、このようなヤコブでさえ、完全ではありませんでした。父親のイサクの偏愛で自分が苦痛を受けたのに、ヤコブはヨセフに対する偏愛がありました。 創世記37:3に「イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。」とあります。ヤコブのこのような偏愛は、再び子供たちの間に悲劇をもたらします。続く4節に「彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。」とあります。そして、ついにヨセフが兄弟たちによって奴隷として売られてしまう状況にまで至ったのです。
ヤコブの完全ではない心は、自分が体験した苦痛を、最も愛する息子ヨセフを通して繰り返すことになったのです。ヤコブがたとえ長い訓練を通して、根本にあった狡猾な属性は脱いだとしても、このような姿が残っていたため、完全な聖潔を成し遂げたとは言えません。しかし、イサクと同じように神様の摂理の中で重要な使命を果たし、神様の御心に従おうとする心だったので、三天層には入ることができました。これを通して私たちは、新しいエルサレムに入ることが決して容易なことではないことを知らなければなりません。イサクやヤコブのように、聖書上に重要な役割を果たした人物でも入ることができなかったところが、まさに新しいエルサレムです。神様が公義の中で定めておいた基準に完全に至ってこそ入ることができます。「大体この程度なら入れるだろう」というのではなく、神様の御言葉に照らして正確な基準を通過しなければなりません。自分を振り返る時、八つの祝福の実と、聖霊の九つの実、愛の章の愛の実はどれほど結ばれているかを正確に分別してみなければなりません。
例えば、イサクと自分自身を比較してみる時、イサクのように他人のせいにしたり、より大きくて広い心で包容できない姿があれば、まだ霊の心とは距離があります。また、ヤコブのように狡猾な属性があるとか、彼の父親のように偏愛する心などが残っているなら、やはり霊の心とはまだ距離があります。さらに、エサウのような心が残っているなら、このような人は霊の心とはあまりにも距離が遠いのです。
エサウの信仰と天国での彼の位置
エサウは、自分が受けるはずの長子の祝福が、ヤコブに行ったという事実を知った時、彼を殺そうとする心にまでなりました。「敵までも愛すること」が神様の心に似た霊の心なのに、エサウは、憎しみと悔しさと寂しさなど悪の形が続々と明らかになり、それを行おうとする姿でした。このような心では救いさえ受けることができないということを知らなければなりません。こうした中でも、長い訓練の後にはヤコブを許す心にまで至りました。しかし、ヤコブを許したからといって、エサウが善の心だというわけではありません。ヤコブを許す前に、自分の足りなさに気づき認めて変化しなければならないのに、エサウはそれができていなかったのです。
エサウがヤコブを許したのも、自らの心ではなく、ヤコブの切実な祈りを聞いた神様の恵みの中で働かれたことでした。したがって、エサウの信仰を御言葉の基準に照らしてみると、パラダイスに至るしかないほどです。しかし、旧約時代の人として行いで罪を犯さず、ヤコブを許す気持ちだったので、一天層に入ることになります。パラダイスではなかったとしても、一天層もやはり肉のことを脱げなかった人たちが入る所なので、神様の子供と言うには恥ずかしいのです。
結論
神様は、真の子供を得るためにこの地に人間耕作を始めました。やっと、パラダイスや一天層、または二天層に入れる子供を得るために、人間耕作をされるわけではありません。だからといってパラダイスと一天層、二天層に入る魂は、神様の子供ではないという意味ではありません。愛と憐みの神様は、たとえからし種ほどの信仰でも、神様を愛するために進んできた人々には、救いの恩寵とともに、それぞれの人の行った通りに報いてくださいます。しかし、永遠の天国で神様と愛を分かち合い、子供になった権勢を思う存分享受して生きるためには、少なくとも三天層には入らなければならないのです。
皆さんが天国のテキストを読んでみると、三天層以上の天国とその下の段階の天国が、どれほど大きな差があるかを感じることができます。まさに父なる神様は、皆さんを真の子供たちが入ることができる三天層以上の天国に導くために、今まで万民を訓練しながら導いて来られました。神様はモーセひとりを、出エジプトしたイスラエルの民全体と比べるほど、霊の人、全き霊の人を大切にされます。そして、このように霊に入ってきた人には、霊肉の間に驚くべき祝福を与えてくださいます。このように霊に、全き霊に、入ってくる人が多ければ、神様がどれほど私と皆さんと本教会を喜ばれるでしょうか。 喜ばれるだけで終わるのではなく、それに対する代価として必ず祝福を与えてくださいます。このような事を本当に信じるなら、何とかして霊に、全き霊に入るために最善を尽くさなければならないでしょう。
イサクとヤコブの信仰に満足するのではなく、アブラハムの信仰を目標にして力強く走っていくことを願います。それで今年を終える瞬間には、本当に多くの方々が父なる神様の前に「父よ、ありがとうございます。 私をこのように霊に、全き霊に導いてくださって、あの美しい新しいエルサレムの栄光を眺めながら走らせてくださったことに感謝します。」と、涙で感謝の告白ができますように尊い主のお名前で祈ります。



