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朝の学び179 創世記27章

10月4日
読了時間: 9分

更新日:10月6日

            

創世記27:24-32


「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」と尋ねた。すると答えた。「私です。」 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。 父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったので、 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。 国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くか行かないうちに、兄のエサウが猟から帰って来た。彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」 すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」


序論


人が信仰生活をしながら受ける訓練の中で、大きな部分を占めるものの一つが、まさに人との間から来る訓練でしょう。むしろ信仰生活を始める以前だったら、見たくもないし会いたくもない人には会わなければいいし、あるいは大声で言い合ってでも、お互いに積もった感情をほぐしたはずなのに、信仰の中で人との間に引っかかると、世の人たちのようにすることもできないので、意外にお互いに不便な関係が長く続き、これが原因で心の訓練を受けることが見られます。 しかし、主の中ではいつも恵みの機会があるので、神様が恵みを与える時に出会うと、その時になって自分が間違っていることに気づき、先に手を差し伸べて和解を求める場合があります。皆さんがこのように人との間に引っかかったことを悔い改めながら歌う賛美の中に、こんな内容の歌詞があります。

「私がまず 手をのべず、私が まず ゆるさずに 私が まず わらわずに ためらった ままでいる。あちらがまず 手をのべて  あちらがまず ゆるすよう あちらがまず わらってほしい わたしなんて ひとだろう。」


ところで、この賛美の背景となった恵みの話があるそうです。ある伝道師が牧会をしていたところ、執事の一人と引っかかることがありました。だから当然、心の中の聖霊様は嘆くしかなかったし、これによって伝道師はとても心が苦しく、一時の時間を過ごすようになったのです。そんなある日、執事の方が先に伝道師を訪ねて来たのです。そして、自分が悪かったと言って悔い改めをされたというのです。執事が亡くなった後、伝道師は痛恨の極みをするようになったそうです。自分が主のしもべでありながらも、先に平和を追うことができず、執事よりも足りなかった自分の過去の姿を悟りながら告白した内容が、まさにこの賛美の歌詞の中に含まれています。自分が先に手を出すことができず、先に仕えることができなかった過去の姿を悔い改める気持ちが、歌詞全体に切々と込められています。ここで重要なことは、悔いあらためる段階にとどまるのではなく、悔い改め、振り返って変化した姿で出なければならないという事です。

この賛美の最後の節の歌詞はこのように出てきます。

「わたしがまず  手をのべて わたしがまず  ゆるして まず わらうようになった 主のとうとい あいで。  わたしが まずつかえるよう わたしが わかってあげて たかめて あげるようされた 主のとうといあいで。 」


このような賛美の歌詞のとおり、皆さんがそのような行いをすれば、その方はすでに霊に入ってきた方々です。しかし、前半節にあるそのような気持ちだとすれば、彼らはまだ信仰の1段階や2段階に留まっている方々です。 それでは皆さんは果たしてどうでしょうか? (もう2004年も終わりに近づいています。) もし、いまだにお互いに引っかかって挨拶もうまくせず、会話もせず、心に不便さを持って接する人がいますか? 今日の御言葉を聞きながら、自分が御言葉で悟る方は、この時間がまさに神様が皆さんにくださる恵みの機会なので、今は私たちのために和解のいけにえとなってくださった神様の貴い愛をつかんで、先に手を差し出して、赦して、笑って、理解して高めてください。それで、マタイ5:9に「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」とおっしゃった通り、本当に幸いな人となられますよう、主の名前で祈ります。

自分の前に出てきた息子がエサウなのかを確認するイサク


ヤコブにもこのような和平の気持ちがあったなら、そして先に手を差し伸べ、先に相手に仕えて許すことができたなら、兄弟同士が仇になる状況までは行かなかったでしょう。 善を慕い求めていた時、神様も皆が祝福された道に導いてくださったでしょう。イサクも2人の息子の間の和平まで考慮する、もう少し広い心で2人の息子を抱いていったとすれば、エサウがヤコブを殺そうとする心まで持つようになる、悲劇的な状況を迎えることはなかったでしょう。 しかし、イサクはすでに自分の好きなように決めた心があり、その心の通り行おうとしたので、肉の目だけでなく、正確な分別ができる霊の目までも暗くなっていました。それで、リベカとヤコブの狡猾な策略にだまされるしかなかったので、結局、「エサウ」を装って彼の前に出てきたヤコブに、「エサウ」に祈ろうとした祝福を祈ります。

もし、イサクが善良な心で二人の息子を呼び、それぞれに長子の祝福と第二子の祝福を祈ろうとしたなら、このように騙されるはずもなかっただろうし、自分の心に望んでいた通りに長子の祝福を祈ることもできたでしょう。しかし、イサクは自分の考えと欲の中で祝福しようとしたので、むしろ自分がもっと愛していたエサウには祈る祝福さえも残らなくなりました。もちろん、ヤコブが長子の祝福を受けることは、神様の摂理の中で行われたことでしたが、イサクがもう少し善良な心を持っていたとすれば、神様も善良な方法の中で皆に最も良い道へと導いてくださったでしょう。しかし、イサクはそのような気持ちになれなかったので、自分が望んだこととは違って、ヤコブにすべての祝福が回ってしまいました。イサクは最後の瞬間まで、もう一度自分の前に出てきた息子が誰なのかを確認しようとしました。

26節に「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったが、イサクはこのようにして息子が近くに出てきた時、彼から香りを嗅いでみることで彼が誰なのかを確認しようとしたのです。イサクがこのように「私に口づけして」と言ったのにはもちろん、もう一度息子を確認しようとする意図もありましたが、同時に口づけには霊的な意味が含まれているためでした。また「私に口づけしてくれ。」と言ったのは「息子が長子の祝福を受ける」ことを公表する霊的な意味も含まれていました。


エサウに変装し、イサクから祝福の祈りを受けたヤコブ


このようなリベカとヤコブの狡猾な策略にだまされたイサクは、エサウを装って出てきたヤコブに祝福を祈ってあげます。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」と祈りました。ここで「主が祝福された野のかおり」というのは、今祈っている祝福が誰の名前で祈っているかを示しています。イサク個人の名前で祈るのではなく、まさに主なる神の名前で祈っていることを物語っています。 また、イサクはヤコブに霊的な祝福のほか、肉的な祝福まで祈ってあげています。「天の露と地の肥沃」ということは、肉的な祝福もやはり祝福の根源は神様だけであることを意味するもので、このように神様の名前で、豊かな穀物と新しいぶどう酒を下さるように祝福を祈っているのです。

しかし、何より重要な祝福は霊的な祝福です。以前、神様は創世記12:1-3で、アブラムを召し、「 その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」と言われましたが、今まさにその祝福がイサクを経て、長子の祝福を受けるヤコブにもそのまま伝わることが分かります。 これはヤコブ個人に対する言葉でもありますが、同時に将来彼を通して出てくる選民イスラエルに対する言葉でもあります。 神様が選民イスラエルをどのように祝福するかを宣べているのです。そのため、イスラエル民族は人間耕作の最後の瞬間までも神様の特別な憐れみを受けることができるのです。

ヤコブがイサクの祝福の祈りを受けて出た後、狩りから帰ってきたエサウ


イサクがヤコブに祝福を祈って後、ヤコブがイサクの元を出て行くやいなや、エサウが狩りをして帰ってきます。 タイミングまでもあまりにも正確ではないでしょうか。 もしヤコブが祈りを受ける前や祈りを受ける途中であったら、状況はどうなっていたでしょうか? しかし、神様が摂理して干渉することは、その時間までも正確なことを見ることができます。 主の中では「偶然」というものはありません。 すべてのことが公義の法則に従って、正確な神様の摂理の中で行われます。 したがって、箴言3:6に「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」という言葉どおり、すべての事に神様を認める人生を生きなければなりません。反対に神様が干渉してもそれを無視してそのまま通り過ぎるとか、神様の御心を知りながらも自分の思い通りにしていくことになれば、後には神様が干渉しても気づかずに徐々に神様とは関係のない道に陥ることになります。

私は今まですべての事に神様を認め、すべてを神様に任せてきた時、全面的に神様が責任を負い導いてくれることを、数えきれないほど体験してきました。個人的に財政を満たしてくださることもそうですし、あることを正確なタイミングに合わせて働いてくださるのもそうですし、今まで一度も困難や恥ずかしさに遭わないように、すべての事を働かせて善を成し遂げてくださいました。 皆さんも人生の中でまさにこのような神様、私たちのすべてを知って責任を負ってくださる良い愛の父神様に会って、体験できますように主の御名で祈ります。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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