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朝の学び175 創世記27章

9月13日
読了時間: 9分

創世紀 27:1-4


イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ。」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます。」と答えた。イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」 




序論

愛する皆さん、生きている霊として造られた最初の人アダムには死というものがありませんでした。霊界の法則によれば「罪からくる報酬は死」ですが、エデンの園に住むアダムには罪がなかったために、死が彼を支配することができませんでした。ところが、アダムが神の言葉に不従順して善悪の木の実を食べることによって、エデンの園からこの地に追い出されてからは、状況が変わるようになりました。人類に罪が入り、その時から人は罪によって来る様々な呪いの下に置かれるようになりました。病気、災難、貧困などの呪いが訪れ、それによる苦痛と悲しみと絶望などを体験し、結局死に至ることになったのです。

このように、罪によって人にすべての病気や弱さ、また呪いが臨んだので、逆に罪から離れることになれば、自然に病気をはじめとするすべての呪いが去っていくことになります。もちろん、自分の罪ではなく、親や先祖の罪によって呪いが来る場合もありますが、たとえこのような場合だとしても、自分が罪から完全に離れて霊に入れば、どんな問題でも解決してもらうことができます。肉の法則に縛られておらず、霊の空間に入ってくるからです。信仰の父であるアブラハムは、罪から完全に離れた人だったので、肉の法則とは関係がありませんでした。 むしろ老年に若返りをしたことが見られ、死ぬ日までどんな病気や老衰によっても苦痛を受けなかったことが見られます。百七十五歳という神様が定めた生命の期限が満たされると、体から力が抜けて、まるで眠るように安らかに息を引き取ったのです。 ところが、今日の本文に出てくるイサクはそうではなかったことが分かります。    



年をとって目がかすんでよく見えなかったイサク

1節「イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、」と述べていますね。視力が衰えてよく見えなくなったということは、それだけ体が衰え、健康な体ではなかったことを物語っています。これがまさにアブラハムとイサクの信仰の違いから来る結果です。完全な信仰の所有者であり、悪はどんな悪でも捨てたアブラハムは、死を迎える日まで健康でしたが、まだ悪の形が残っており完全でないイサクは、肉の支配を受けるしかないのです。 ヨハネの手紙第三1:2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」という御言葉のように、肉を脱いで魂が幸いとなるほどに、凡ての事にも幸いとなって健康である祝福を受けることになります。逆に肉が残っている以上は、肉の支配を受けるので、肉の法則に従って様々な肉の現象を体験することになるのです。イサクのように年を取ると視力も弱り、体が衰えてあちこちが不自由になります。病気によって苦しむこともあります。     


師であるエリヤ預言者より「二倍の霊」を受けて、色々な驚くべき権能を行ったエリシャ預言者も、完全に肉を脱ぐことができない悪の形があったので、彼の死が平安ではなかったことを見ることができます。 列王記第二13:14「エリシャが死の病をわずらっていたときのことである」とあり、エリシャが病気になって死ぬことになったことを記しています。まさに自分をからかっていた子供たちを呪い、熊によって42人もの子供たちを無残に殺させた姿がエリシャにはあったのです。このような柔和でない姿があったため、エリシャはそのように驚くべき権能を行ったにもかかわらず、結局自分は病気になって死んだのです。     


だから自分にある病気がやってきたり、または健康でないことによって苦しんでいるなら、これを通して自分の姿を点検し、自分の中にある悪の形を発見する貴重な時間にしなければならないのです。イサクがなぜ老年にこのように体が衰えて、目まで弱くなるしかなかったのかは、過去のふるまいを通して推し測ることができます。エサウとヤコブを差別して愛する姿、神様の言葉を心に留められず、自分の見た目に良いように行おうとした姿、柔和に家族を抱くことができなかった姿、まさにこのような不足した姿があったため、イサクは彼の父親アブラハムのように、健康な老年を迎えることはできなかったということです。それなら、イサクがこの時にでも自分を振り返り、自分の足りないものを発見すればよかったのですが、イサクは最後まで自分が見て良いように行っていきます。体が衰えていつ死ぬか分からない状況で、イサクは長子エサウを呼んで彼にだけ祝福を祈ろうとしたのです。    



自分の体の衰えと死を感じたイサク

2-4節「イサクは言った。『見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。 そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。』」とあります。このように自分がいつ死ぬかわからないと告白したのは、自分の体の衰えを見ながら死が近いことを感じたのです。しかし、このように死が近いことを心に悟ることにおいても、彼の父親であるアブラハムと比較すると全く違う次元であるがわかります。 アブラハムは自分の死が近づいたことを悟り、あらかじめ周辺を整理しました。しかしこの時アブラハムがそうしたのは、体が衰えたり、体にある現象が現れたことを見て、自分の死が差し迫ったことを悟ったのではありません。彼は死ぬ瞬間までも健康だったので、アブラハムが自分の死を心に働きかけられたのは、あくまでも神様の導きでした。しかし、イサクはそうではありませんでした。自分の体に現れる肉的な現象を通して死が差し迫っていることを予感したのです。     


神様の人々は、ほとんど自分の死について、あらかじめ心に働きかけられるのが見られます。申命記31:2には、モーセが民に「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない。』と言われた。」とあります。彼は、自分の寿命がいつまでなのかを知っていました。それで、ヨシュアをあらかじめ後継者に立て、彼に頼みの言葉を残し、民のためにも祝福したことが分かります。エリヤ預言者も天に昇る前に、心に神様の導きを受けていたことが分かります。 これは、彼が天に昇る直前、エリシャに自分について来ないように説得しようとしたことからも明らかです。エリシャはあくまでついて行き、最終的には「二倍の霊」という祝福を受けましたが、エリヤ自身は、神が自分を生きたまま天に引き上げようとしておられることを認識していたのです。使徒パウロの場合も、自分がどんな死を迎えることになるかを心に導きを受けていました。 このように神様と明らかに交わる人は、自分の身に起こることについても、明らかに導きを受けていたことを見ることができます。しかし、イサクは神様が心に働きかけてくださる次元ではなく、肉的な状況と現実を通して察することができたのでした。

 


エサウだけ祝福しようとする偏った愛を持っていたイサク

イサクが自分の死を悟った後の行いも、父親であるアブラハムと全く違いました。アブラハムは、自分の生前に、後妻を通して産まれた子供たちのことまでも考えて、彼らに財産を与えて東方に送ったのです。すべての子供たちを偏りなく愛する心だったので、嫡流を継ぐのはイサクを通してでしたが、残りの子供達たちにもそれなりに生きていける道を開いてあげたのです。反面、イサクは自分の死を目の前にして、自分が愛していた者のことだけを考えました。それで、エサウに「私の好きなおいしい料理を作ってくれ」と言って、彼を心ゆくまで祝福しようとしました。もちろん、エサウが長男なので、彼により多くの祝福を祈ることは有り得ますが、イサクは、エサウとヤコブ二人に祝福を祈る気持ちではありませんでした。その気持ちが、まさに27:33以下でわかります。 次の時間に説明しますが、ヤコブが母親であるリベカの言葉通り、悪知恵を使ってエサウに代わってイサクから祝福の祈りを受けた後、エサウは遅ればせながら料理を準備し、イサクの前に出てきました。   


しかし、すでに自分が受ける祝福は、ヤコブに与えられた後でした。 このことを知った時、父のイサクに自分にも祝福を祈ってほしいと懇願します。しかし、すでにイサクはすべての祝福をヤコブに祈り与えたので、エサウのために祈る祝福が残っていませんでした。 それで、37節の後半節「それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」と残念がる場面が出てきます。これに対しては38節「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」と声を上げて泣きます。 結局、イサクがエサウのために祝福を祈りますが、その内容はヤコブのために祈ったことに比べれば、あまりにも一般的なものでした。 すでにヤコブのために祝福を祈ったので、たとえエサウのために同じ祝福を祈ったとしても、その祝福がエサウに行くわけではありません。イサクはこのような霊界の法則を知っていたので、その心では残念でも、エサウのためにヤコブと同じ祝福を祈ることはできなかったのです。    


だから、もしヤコブが悪知恵を働かせて、エサウに祈る祝福を横取りしなかったとすれば、結局、イサクはエサウにだけ心ゆくまで祝福してあげて、ヤコブにはそうではなかったのです。結果的には、ヤコブが祝福を受けましたが、イサクの心は、エサウとヤコブ双方に祝福を祈る心ではなく、エサウだけを思う存分祝福しようとする偏狭な心だったという事を知ることができます。 このように、イサクは最後まで自分の考えの中で、自分の見た目に良いように事を成し遂げようとしたのです。神様の意思を追って心に導きを受けて、エサウに祝福を祈ろうとしたのではありませんでした。このようなイサクの偏った愛の故に、家族の間でも敵味方に分かれるようになり、結局、兄弟であるエサウとヤコブは、敵同士のようになってしまいました。したがって、皆さんは、ピリピ2:14「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」という言葉どおり、すべての事に神様の導きを受けて従い、善を追って、誰も恨みや是々非々をすることがないようにして下さい。

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