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朝の学び174 創世記26章

9月13日
読了時間: 7分

創世記26:34-35


エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった。




異邦人を妻にして両親の心配の種になったエサウ

 

続く26章34-35節を見れば、なぜ神様がヤコブを選ぶしかなかったのか、その理由について分かる場面が出てきます。「エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった。彼女たちはイサクとリベカにとって悩みの種となった。」とあります。これは、エサウが長子の権利を軽んじたと言われたことが、単純に外的な状況だけを説明したのではなく、エサウの中心に関するものであることが分かります。 エサウがたとえ長子の権利を煮物一杯で売ったとしても、彼が長子の権利を軽はずみに思う人でなければ、彼は当然神を信じる民の中から妻を選ぶべきでした。自分を長子の権利を受け継ぐ人だと考えたなら、異邦の女性の中から妻を選ぶことはできないのです。

 

祖父のアブラハムが嫡流を継ぐために故郷の親戚の家にまで人を遣わして、イサクの妻を探してきたことをどうして分からないでしょうか? それなら、長子として自分がどのように行うべきかを知り、嫡流を受け継ごうとするのが当然です。それにもかかわらず、異邦の女性を妻に選び、このような姿は、当然イサクやリベカにとって大きな悩みの種になるしかありませんでした。イサクも以前に自分の腹違いの兄であるイシュマエルが異邦人を妻に娶り、どうなったのかをあまりにもよく知っているので、また、エサウの行動が長子としては、してはならない行動であり、神様の御心にも反するものであることを知っているので、エサウを見ながら心が悩むようになったのです。ところがエサウは後日、自分の行動がどれほど間違ったものだったのかを悟り、立ち返ろうとする行いを見せることになります。

 

創世記28:6によると、「エサウは、イサクがヤコブを祝福し、彼をパダン・アラムに送り出して、そこから妻をめとるように、彼を祝福して彼に命じ、カナンの娘たちから妻をめとってはならないと言ったこと、」さらに8節を見ると、「エサウはまた、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないのに気づいた。」とあります。その時になってようやく、自分が間違った選択をしたことに気づき、9節に「それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。」とあります。それで、せめてアブラハムの子であるイシュマエルを訪ね、彼の娘の中で妻を娶ったのです。しかし、もう手遅れです。最初に、エサウが異邦人の女性を妻にしようとした時、なぜイサクやリベガが止めなかったでしょうか?ヤコブに「あなたはカナン人の娘たちの中から妻を娶るな」と勧めたように、当然何が神様の御心なのかを伝えたでしょう。それでもエサウは、その瞬間、自分の見た目に良いものを選んだのであり、自分が家の長子としてどうすべきだという事さえ念頭に置かなかったのです。

 


心の中心と神様を愛する程度の違い

 

だからこのようなところから、ヤコブに長子の権利が移っていくのは当然のことでした。たとえヤコブが狡猾なはかりごとを使って兄から長子の権利を奪ったとしても、それでもヤコブは神を畏敬する人であり、神の意に従おうとする人でした。親の勧めにも従順でした。このように、エサウとヤコブの二人が同じ親を通して生まれ、同じ環境の中で育ったにもかかわらず、二人の姿が全く違うことを見ることができます。これと同じように、なぜ同じ牧者の下で教えを受け、同じ祭壇で信仰生活をしていくのに、ある人は神様から褒められるに値し、ある人はそうではないのでしょうか?これはまさに中心の違いのためであり、神を愛する程度の違いのためです。同じ時間を祈り、同じように働いても、どんな心で神様を愛するかによって、その実において大きな違いが出ます。

   

イエス様にもそばに置いて教えた十二人の弟子たちがいましたが、その中にはペテロのような弟子がいたかと思えば、イスカリオテ・ユダのような弟子もいたことが分かります。疑い深いトマスもいたことが分かります。これもやはり心の違いであり、どれだけ心から霊でイエス様を愛したのかの違いなのです。箴言8:17「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」ということばのように、神様は誰かをもっと愛し、誰かはあまり愛されない方ではなく、皆さんが神様を愛するほど愛してくださいます。神様は公平に全人類を、万民を愛しておられ、それで、独り子をくださったのです。神様は愛の神様なので、神様の子供なら誰をも愛し、公平に愛を与えることを望んでいますが、同時に公義の神様なので、愛も公義の法則にかなうように与えてくださるのです。

 

結局、自分がどうするかによって、神様の愛をもっと受けることもできるし、少し受けることもあるし、神様から中心を認められることもそうでないこともあるのです。だから、エサウの立場では「なぜ私に来るべき祝福が弟のヤコブに行くのだろうか?」と恨んで文句を言うのではなく、なぜヤコブがもっと愛されるしかない中心なのかを、先に考えてみなければならないのです。それで、その中心に似ていこうと努力しなければならなかったのです。しかしそうできなかったので、結局、エサウではなく、祝福が弟のヤコブに臨むできごとが発生することになります。この内容は次の時間に続けて見ていくことにしましょう。

  


結論

 

人の中心というのが本来生まれながらの面もありますが、成長しながら形成される面もあります。また、主の中では、生まれ育ち成長しながら、すでに固まってしまった中心までも変化させることができるので、どのような中心を持って生まれたのかだけで人を評価することは容易ではありません。以前、中心について説明をしながら中心とは「心が固まったこと」と言いました。人が毎瞬間、心をどのように使うかということが、一度、二度と積み重なって固まってしまうと、それが中心になってしまうのです。ところが、心を使うことは結局、行いを通して出てくるようになっています。「心はいいが肉体が弱い」と言い訳をする人もいますが、本当に心がよければ必ず行いとして出てくることになります。 少なくとも、行いで示そうとする努力や努力する姿が出てくるのです。そのため、人が心をどのように使うかということは、たとえ小さな行為一つにでも現れることがあります。心を込めた行い一つ一つを積み重ねていく時に、それが結局は中心にまで影響を与えることになるという事です。

   

祈りを一度する時にも、礼拝を一度する時にも、また奉仕をしてどんな神様の仕事をする時にも、どんな心を持ってそれを積み上げていくかによって、ついには中心も変化することができるということです。「私はもともと中心が良くないから」と生まれつきの中心のせいばかりするのではなく、今与えられた状況と環境の中で、心をどのように善で霊に積み上げていくかが、結局は自身の中心を作っていくことになります。ですから、大きいことから先に見ないで、皆さんに一番近くにある小さなこと一つ一つを先に点検してください。従うというのは、従えないことにも従うことだと言いました。従順することは当然のことです。そのためには、大きなことにも当然従わなければなりませんが、まずは小さなことから従順しなければなりません。

   

最初から完全に従うことができる中心なら良いのですが、小さなこと一つから完全に従順していく人は次第に大きなことにも従順でき、ついには従順できないことにも従順できるようになります。だから、いくら小さなことだとしても、毎回、選択の瞬間ごとに神様の言葉に従順していくことで、アブラハムのように完全な従順の人として出てくることを主のお名前で祈ります。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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