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朝の学び173 創世記26章

9月13日
読了時間: 11分

創世紀 26:26-33


そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。




序論

愛する聖徒の皆さん、皆さんの人生の中で神様が共にするならば証拠が現れるようになります。神様は言葉だけで「私があなたと共にする」と言われるのではなく、現れる証拠を通して確証してくださるからです。それで、聖書上に出てくる神様の人々には、共にする証拠が必ず伴いました。したがって、このような証拠を通して神様が共にする人を見分けることができます。マタイ7:20「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」とあるように、実を見れば「彼が、神様が共にする人なのかどうか」を見分けることができるのです。しかし、実で見分けるということが、ややもすると人を外見で判断することになってはいけません。     


例えば、ダビデ王が息子アブシャロムの反逆を避け、彼に従う民と共に逃げなければならなかった時、このような状況を肉で見る人は、まるで神様がこれ以上ダビデ王と共にしないように判断したでしょう。しかし、ダビデがこのような状況に処されなければならなかったのは、彼が以前に行った罪に対する応報であり、その瞬間だけは神様も彼を訓練の中に置かれるように許すしかなかったのです。しかし、神様がダビデ王を捨てたのではなく、訓練を許したこともダビデをあまりにも愛していたためです。このような場合には、ただ外がわに見える現象だけをもって、それを実であるかのように判断してはならず、神様は人の心の中心を見るという事を知らなければなりません。     


それなら皆さんの中に、「ちょっと紛らわしい」と思う方がいらっしゃるかもしれません。「明らかに実で分別しなさいとおっしゃいましたが、ある人はすぐに見える実だけでは分別できない場合もあるので、このような場合にはどうすれば正確に分別できるのだろうか?」と考えます。ところが、これを区別する明確な基準があります。それは従順と悪がないということです。聖書によれば、神の人々はたとえ訓練の中にいても、彼らの心はどのようにしても神に従おうとするものであり、悪がなく、結局変化して出てくるのを見ることができます。すぐに現実的には神様から愛される証拠が現れるようには見えず、実が見えないようだとしても、神様の人々は従順で訓練をよく通過し、結局は美しい実として出てきたということです。   

 

アブラハムも訓練を受けたことがありましたが、そのすべての過程が、神の摂理の中でただ神の言葉に従って受けた訓練であったのを見ることができます。ところが、ある人たちは、神様の言葉に不従順によって訓練がもたらされたにもかかわらず、依然として従順に変化することもなく、結局は捨てられることになったことが見られます。したがって、皆さんが分別する時も、「たとえ彼が訓練の中にいたとしても、果たして神様の言葉に牧者の言葉に従おうとしているのか?」あるいは、「依然として不従順になっているのか?」これを見れば良いのです。しかし、このような言葉を申し上げるとして、皆さんに人々を見ながらいつも「こうか?」「ああかな?」と分別しろという意味では決してありません。ただ、皆さんが惑わされるようなことがあっても惑わされないように、このような言葉を申し上げることであり、皆さんは神様の言葉どおりに誰も判断したり推し量ったりしてはいけません。    


ヤコブ4:11「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」と述べています。自分が持っている律法の枠組みや自分の考えの中で人を判断することになれば、これはすなわち自ら裁判長になることであるのを知らなければなりません。すべての人を判断できる方は、ただ裁判長となる神様お一人だけだという事です。    



訓練を善で通過して祝福されたイサク

今日の本文に出てくるイサクの場合も、前回お話したように彼が井戸を掘るたびに争いが生じ、すぐにそこを離れて他の所に移住しなければならなかったのですが、イサクが神様から保証されていないからではありません。しかし、これを肉の人々が見る時は、「神様が共にする人がどうしてあんなに井戸一つを得ることができず、あちこちにさまよわなければならないのだろうか?」と肉の思いを巡らせるのです。しかし、霊の人々は同じ状況を見ても、自分の考えの中で判断するのではなく、何とか善で眺めようとします。イサクも自分に与えられた訓練を善でうまく通過したので、その結果は祝福だったことが分かります。イサクは自分に困難が来た時に「なぜ私には定着できる土地が一つもないのか?」「なぜ私が井戸を掘るたびにこのような紛争が生じて去らなければならないのか?」と、こんな考えをしたのではありません。訓練を許した神様の深い御心を悟ったため、創世紀26:22後半節「「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」」として感謝の告白をするのが見られます。     


だから、このようなイサクに神様がどのように祝福を与えてくださるでしょうか? 訓練を感謝の気持ちで受け取っただけでなく、神様の言葉通り善を追って従うイサクに、神様はより大きな祝福で返してくださいました。イサクが神様の保証の中でどれほど大きく祝福を受け、彼の権勢がどれ程大きかったのが分かるのが、まさに今日の本文のできごとです。以前は自分たちより強くなるイサクを見て、妬む心と一方では恐ろしい気持ちで、イサクに「自分たちから去ってくれ」と言ったペリシテの王アビメレクが、今になって直接イサクを訪ねてきて和平することを願うのです。


神様が共にする証拠があるイサクを訪ねてきたアビメレク

それならアビメレクがなぜこのような行動をしたのでしょうか?本文28節「「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。」と告白しているように、アビメレクは神様がイサクと共にする多くの証拠を見ながら恐ろしくなったのです。そうしながら、自分が以前にイサクに「われわれのところから出て行ってくれ」と言ったことが気にかかったのです。まるでイサクを自分たちの土地から追い出すように送り出したのが、自分たちに害となって返ってくるのではないかと心配になったのです。そのため、アビメレク王は友人や軍隊の長官まで連れて、イサクの前に直接出てきて、和平を要請するようになったのです。もし、イサクが平凡な一人の族長程度で富と権勢を持っていたのだとしたら、アビメレク王がこのように訪ねてくるはずがありません。したがって、アビメレク王がイサクを直接訪ねてきたということは、イサクの富と権勢が以前とは比較できないほど大きくなったということであり、何よりも全能の神様がイサクと共にするという事をアビメレクが認めたということです。以前、イサクの父親であるアブラハムがそうだったように、イサクもやはり神様が共にすることによって、このように尊い者として認められるようになったのです。     


ここで私たちが一つ見逃してはならないことがあります。アビメレクがこのようにイサクを見ながら、神様が彼と共にすることを認めたということは、アビメレクがたとえ異邦人であったとしても「【主】なる神様がおられ、その方は大いなる力を持っておられる方であり、その方がイサクと共にする」という事実を知って認めたという意味になります。これはすなわち、イサクが、自分が信じる神について大胆に伝え、知らせたことを物語っています。イサクはたとえ異邦人の間に住んでいても、彼らに自分が仕える神様が誰であり、どんな方かという事を、自信を持って話したのです。「私が異邦人の中に生きながら、彼らと異なる神に仕えるという事を彼らが知れば、私にどんな害が来るのだろうか」として隠そうとしたのではなく、神様を誇らしく伝え、神様の名前を高めたのです。     


今日はイサクのような状況ではないとしても、「私は神様を信じる人です」「私は教会に通っていて、イエス様を救い主と信じる神様の子供です」と大胆に言えない方々がいます。神様はイサクのように大胆に神様の子供であることを告白でき、神様の名前を高め、自慢できる子供を喜んでいるという事を悟ることができることを願います。迫害を受けて困難を経験するより、むしろそのまま黙っていた方が良いと考えることができます。しかし、マタイ5:11-12「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」とある通り、たとえ信仰によって迫害と困難が来たとしても、それを喜んで勝利する人には驚くべき祝福と賞が備えられています。     


もちろん賢くないのでわざと迫害を自ら招く必要はありませんが、ダニエル預言者や彼の三人の友人たちのように、妥協せずに信仰を示す時、神様はこの信仰を喜んでおられます。ある方々は「私もそうしているのに依然として迫害が退きません」このように話す方がいるかもしれません。そのような方はまず「私があまりにも賢くないので、このような迫害や困難を自ら招いているのではないか?」と自ら点検してみなければならないだろうし、また「私が唇では主を信じる人だ」としながらも、もしかしたら言葉と行動ではキリストの香りを発せずにいるのではないかと振り返ってみてください。     


皆さんが本当に世の中で光と塩の使命に耐え、キリスト教徒としての香りを放つことになれば、たとえすぐに迫害と困難が来るとしても、神様は必ず力を現わし善を成し遂げてくれます。神様が共にする証拠を示してくださることで、結局は周辺でも認められることになるのです。しかし、そうでなくてキリスト教徒としての香りがしない姿なら、このような人はいくら迫害と困難を受けても、それが主の御名のためのものとは言えないので、天の宝にもなりません。迫害と困難が退くわけでもなく、むしろ神様の栄光を隠すことになります。しかし、イサクは自分が神に仕える人であることを周辺の人々が分かるように伝えただけでなく、彼の人生にも神が共にする証拠が現れたので、王であっても彼を訪ねてきて和平を望むのを見ることができます。このようなアビメレクに対するイサクの姿は、より多くのことを悟らせてくださいます。    



アビメレクを優遇するイサク

 

イサクは、以前の行いによってアビメレクを責めたのではなく、むしろ彼らのために宴会を催し、平和の内に彼らを送り出しました。皆さんならこのような状況でどうしますか?ルカ6:35「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」とあります。ですから、たとえ私に害を与えて私を迫害し、困難にさせた人でも、当然、善の心を持って接しなければなりません。神様はこのように善を愛し、善を追う人と共にするという事です。愛する皆さん、前回に引き続き今日も、イサクが神様に祝福される過程を見てみました。イサクには彼の父親であるアブラハムと結んだ神様の契約の言葉がありました。しかし、このような約束の言葉があっただけではなく、イサク自らが祝福される器を準備したので、その約束の言葉が臨むことができたのです。善を追う心と、訓練の中にも神様だけを頼る従順の姿、また周辺から神様の人と認められる姿などがあったためです。

これは皆さんにも同様に当てはまることです。もちろん、皆さんが祝福を受け、繁栄を受けるためには、皆さんが神様の前にどんな姿なのかが非常に重要です。しかし、皆さんが万民の羊の群れであるため、どれほど多くの分野で守られ、時には皆さんの信仰の分量をはるかに超える繁栄を、受けているということを悟らなければなりません。アブラハムとイサクの間にある、肉の親子としてではなく、霊的な関係性を悟ることで、皆さんが万民の羊の群れとして受けている、霊肉間の祝福の秘訣を悟ることができることを願います。

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