朝の学び171 創世記26章

創 26:12-22
イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
百倍の祝福を受けたイサク
本文26章12-14節、前半節に「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。 彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになった」とあります。凶作を避けて移住してきたイサクでしたが、このようにすぐに巨大な富を持つ者に成長することが見られます。 ところが、イサクがこのように祝福を受けて巨大な富を得た理由について「主が彼を祝福してくださった」とあります。人がいくら知恵を使って人の方法で努力しても、結局は収めさせてくださる方は神様なので、神様の助けなしには本文にイサクのような祝福を受けることはできません。もちろん、蒔いた通りに刈り取るのが自然の法則なので、世の中の人も熱心に植えて育てれば、植えた分は刈り取ることができます。しかし、イサクが得たように百倍も収められるわけではないですね。 さらに、神様が守られなければ、思いもよらない自然の災いなどによって、それによって蒔いた通りも収穫できないことがよくおきることを見ます。したがって、イサクが百倍も得たということは、どれほど主なる神様の保護と守りを受けたのかを物語っています。
聖書を見ると、マタイ13:8に「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」とあり、最高に受ける祝福が百倍であることが分かります。ところが、イサクはこのような百倍の祝福を受けたという事です。では、イサクはどのようにしてこのような祝福を受けることができたのでしょうか? まず、神様がおっしゃった言葉を必ず守ったからです。神はアブラハムにすでに何度も約束の子孫であるイサクを祝福すると約束して、創世紀26:3-4では、イサクに住む土地を指示し、「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」と約束しました。神様はこの約束どおりに成し遂げられているのです。
イサクが百倍の祝福を受けることができたのには、もう一つ非常に重要な理由がありました。それは、イサク自身も神の祝福を受ける器の準備ができていたからです。申命記15:4-5に「そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行なわなければならない。」とおっしゃいました。この他にも聖書のあちこちに神様は「神様の戒めと命令を聞いて守って行う人に祝福を与える」と何度もおっしゃっているという事です。イサクはまさにこの言葉通りに行ったので、約束された祝福を受けることができたのです。
申命記7:12に「それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、」とおっしゃったように、神様はいくら先祖に約束されたとしても、その子孫が神様の命令を聞いて守って行う時になってこそ、約束したことを叶えてくださるという事です。イサクの父であるアブラハムがいくら神様から驚くべき祝福の約束を受けたとしても、もしイサクが神様の戒めと命令を守って行わなかったとすれば、約束された祝福が決して臨まないということです。イサク自身も神様の言葉に従い行ったので、祝福の約束を引き出すことができたのです。
立派な信仰の標柱である父、アブラハムを見て学び、従順したイサク
それならイサクはどうやって神の言葉に従い、その戒めと命令を守って行う人になれたのでしょうか?生来の心の地が良かったからでしょうか?もちろんアブラハムに似て生まれつきの心の地が良いこともあるでしょうが、イサクには誰とも比較できない立派な信仰の標柱がいたという事です。まさに父であるアブラハムです。信仰の父アブラハムがまさに父親だったので、イサクは幼い頃から父親を通して、信仰が何で、従順が何であり、どのように神の戒めと命令を守っていかなければならないのか、細かい分野までも見て学ぶことができました。そのため、イサクは成長しながら信仰の基礎を強固にすることができ、このような基盤の上で自らも熱心に努力し、神様の言葉に従順していったのです。
ですから、皆さんが信仰生活をするにあたって、誰を標柱として眺めながら走るのかということが非常に重要です。どんな組織でも頭になった人の信仰が重要です。家庭では父親と母親、区域では区域長、組では組長、地域では地域長、教区では教区長、このようにその組織の頭になった人が先に信仰の手本を見せなければならないのです。そんな時、それに属した魂が自然に模範として影響を受け、正しい信仰生活をしていくことができるのです。しかし、人を信仰の目標にしなさいというわけではありません。人の中で完全な人を探すのは至難の業です。人を見て信仰生活をすると、人との関係によって試練や迷いに陥ることがあるのです。したがって、先を行く人の姿を通して信仰の目標にすることも、必ず真理の中でだけが可能なのです。
結局、ヘブル12:2前半節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と言われた通り、信仰の完全な標柱は主です。しかし、アブラハムは信仰の父として、それだけその信仰が完全であり、神様も認めるに値するものだったので、このようなアブラハムの信仰を見て育ったイサクも迅速に信仰の基礎を固め、信仰の成長を成し遂げることができたということです。
自分を犠牲にしてでも平和を求めたイサク
14節-16節に「彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。そうしてアビメレクはイサクに言った。『あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。』」と言ったのです。ペリシテ人の側では、自分の属国でもない異邦人が自分たちの土地に入って暮らしながら、そのように驚くほど祝福を受けていくのを見ると、心に妬みが起きたのです。それで結局、イサクの父アブラハムの時代に、アブラハムのしもべが掘っておいたすべての井戸を塞ぎ、土で埋める行いとして出てきました。
もちろん、その土地がペリシテ人の土地とはいえ、確かに井戸はイサクの父であるアブラハムが掘ったものなので、厳密に言えばその井戸に対する権利がアブラハムの息子であるイサクにもあると言えるにもかかわらず、ペリシテ人は井戸を塞いで土で埋めるという、あまりにも無礼な行動をしたのです。さらに、以前はすべての民に命じて「この人やその妻を犯す者は殺す」とまで言ったアビメレク王もイサクに「われわれのところから出て行ってくれ。」と言います。その理由は、イサクが自分たちより強くなったからです。これを通して、私たちはイサクがどれほど驚くほどの祝福を受け、その富と権勢がどれほど素晴らしかったかを知ることができます。 イサクは父親であるアブラハムから受け継いだ富と名誉と権勢もありましたが、自分自身も神様から祝福を受けることで、異邦人の地に住みながらも繁栄していったのです。
イサクはこのように強大な力を持っていたにもかかわらず、ペリシテ人たちが井戸を塞いで土で埋めたことについて、全く問い詰めたり不平を言ったりもしませんでした。アビメレク王が恐れるほど強いイサクでしたが、イサクは自分に害を与えた人々に対して、自分の力で何とかしようとする気持ちが全くありませんでした。それで、イサクはアビメレク王の要請どおりに素直にそこを離れ、ゲラルの谷に行きます。そして、そこで彼の父アブラハムが掘った井戸を再び掘りました。ところが今回はまた、そこのゲラルの牧者たちがイサクの牧者たちと争って「この水は私たちのものだ」と主張するのです。その井戸はもともと、イサクの父であるアブラハムの時に掘ったもので、イサクがその井戸を再び掘るまでは、ペリシテの人々によって埋められたまま捨てられていました。つまり、イサクが再び掘るまではそこの牧者たちが使用できなかった井戸です。ところが、イサクがそのように捨てられた井戸を再び掘って使おうとすると、今になって自分たちのものだと主張するのです。このように井戸によって争いが起きると、イサクはその井戸をあきらめて、また別の井戸を掘りましたが、今回もやはり井戸によって争いが起こります。
皆さんならこの状況でどうしますか?イサクは当時、王さえも恐れるほどの絶大な権力と権威を持っていました。莫大な富を持つだけでなく、多くの召使いも抱えていました。ですから、掘った井戸を守るためだけに、その権力を使って敵を脅すこともできたはずです。しかし、イサクはそうしませんでした。彼はそこから移動し、別の井戸を掘りました。三度も譲歩したのです。これにより、私たちはイサクの信仰を知ることができます。これはすなわち「あなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったアブラハムの信仰を通して学んだことでした。 イサクは単に学び、知識で知ることで終わったのではなく、このように実際の生活の中で行っていたのです。 その心は譲歩しようとする心であり、自分を犠牲にしてでも和平しようとする心であり、またすべての人に仕えようとする心でした。
故郷の親戚の父親の家を離れなければならなかったアブラハムは、異邦人の土地に住みながら、常に周辺の人々とも良い関係の中で平和を維持していたことを見ることができます。自分の力が強いからといって、他人を無視して高くなろうとするのではなく、周りの人々に常に仕えようとする気持ちでした。まさにこのようなアブラハムの信仰を彼の息子イサクはそのまま見習って今行っているという事です。これがまさに善を追う道であり、神の人が選ぶ方法です。
聖徒の皆さん、世の中の人々はすぐ目の前の利益だけを考えるので、ある問題に自分の利益が塞がるようになれば、善を追うよりは何とか自分の利益を得ようとします。それで、様々な悪い方法が出てくるので、自分が持っている力と権勢を働かせます。しかし、神の御心はローマ12:21に「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」と言っています。また、ローマ12:18には、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」と言っています。イサクの行動が肉で見れば、退くようで避けているように見えても、それはイサクが彼らを恐れているからではなく、まさに神の御心を追うためのものでした。 相手が悪として出てくるからといって、一緒に悪として対抗するようになれば、そこには神様が働くことができません。結局、人の力でしなければならないのです。 しかし、善の方法を追う時には、神様が働いてくださってすばらしい勝利の結果をくださることになります。イサクがまさにそうでした。彼が最後まで善の方法に従った時、神様は彼に祝福で返してくださいます。



