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朝の学び169 創世記25章

9月13日
読了時間: 10分

創世紀 25:29-25:34


さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。




序論

神様は各人の心の中心はもちろん、心の大きさと心を構成する根本的な土質、そして性格まですべてのことをご存じなので、どのようにその人を訓練するのが最も適切な方法なのかを知っておられます。例えば、心が真っ直ぐではなく正しくない人に、預言者ダニエルが受けた試練を与えれば、生命の脅威の前ではすぐに変改するので、最初からそのような試練を許すこともありません。心の大きさ、すなわち器の大きさが小さい人に、預言者モーセのような使命を与えるならば、その使命に耐えられないだけでなく、下手をすると小さな器が割れることもあります。性格がせっかちで不安定な人に、ヨセフが受けた訓練を下されば、途中で落胆してあきらめてしまうこともあります。また性格が火のような人は、訓練も火のように受ける場合がある反面、性格が静かで落ち着いた人は、見た目にはあまり大きな訓練がないように見えても、激しい心の訓練を受ける場合があります。

しかし、どんな心と性格を持っていても、訓練がなければ自分を発見して変化することはできません。神様が訓練を許される理由がまさにここにあります。神様は人間耕作を通して、真の子供を得ることを望んでおられるので、子供たちが訓練を通して自分自身を発見し、肉を脱いで霊に変化して出てくることを願います。ペテロの手紙第一1:7「信仰の試練は、火を通して精練されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」とありますが、ここでまさに信仰の試練というのが、信仰を通して受けることになる訓練を意味します。このような信仰の試練を通して、訓練をよく受け純金のように出てきた時に、称賛と光栄と栄誉が与えられるという事です。

 

ヤコブの場合もそうでした。 神様はヤコブの心を見て胎の中から選びましたが、彼は将来その名前をイスラエルと称され、彼によってイスラエル民族が立て上げられ、イスラエルの十二部族の始祖となります。 彼の名前を取ってイスラエル民族と呼ばれるようになり、彼から出た子供たちを通してイスラエルの十二部族が形成されるようになるということです。 それで、ヤコブに与えられた賞賛と光栄と栄誉がどれほど大きいでしょうか。ところが、訓練を通して変化する前のヤコブの姿は、そのような誉を受けるにふさわしいものではありませんでした。 彼の心の中心が真っ直ぐで正しいとはいえ、彼の生まれつきの気質には狡猾な面があり、自分の知恵と考えと方法を頼りにしようとする自分というものがありました。したがって、ヤコブを通して摂理された神様の御心がなされるためには、まずヤコブのこのような肉の姿が砕かれ、霊に変化しなければならなかったのです。それで、ヤコブに二十年間の訓練を許したのです。しかし、ヤコブがそのような訓練を受けなければならなかったのは、神様がそのようにされたという意味ではありません。ヤコブが訓練の道を自ら招いたことであり、神様は訓練の後に出てくるヤコブの姿を知っておられたので、そのような状況を許されたのです。


長子の権利を奪った後、二十年の訓練を与えられたヤコブ

それは、豆の煮物一杯と引き換えに、長子の権利を受け継ぐ事件ですが、ヤコブは兄の人柄をよく知っていました。それで、どうすれば、エサウの人柄を利用して、そこから長子の権利を譲り受けることができるのか、その道が見えてきたのです。自分の肉的な知恵を働かせて肉の方法を使ったのです。そして結局は、エサウから豆の煮物一杯で長子の権利を売るという誓いを取り付けます。しかし、このように肉的な知恵と方法を働かせて長子の権利を奪ったのが、実は訓練の始まりだったのです。ヤコブがもし善の方法に従って神様にすべてを任せたとすれば、このような悪い知恵を働かせなかったでしょう。ヤコブはすでに母親のリベカから、自分が胎の中にいた時、神様がくださった約束の言葉を聞いたはずです。本当にヤコブがその言葉を信じて頼ったとすれば、祈って神様の決めた時が来るのを待ったでしょう。

しかし、ヤコブはそうできなかったので、自分の欲を求めて人の知恵と方法を働かせてしまいました。ところが、このように神様の御心を成すにあたって、人の方法と考え、知恵を働かすことになれば、すぐには表面的にはうまくいくように見えても、そこには必ず訓練が伴うという事です。人の方で働かせた考えと方法と知恵がどれほど無駄なものであるかを悟らなければならないので、神様は訓練を許すしかないのです。ヤコブもやはり自分を頼っていたその姿が変化し、神様だけを頼る人として出てくるために、以後二十年間の訓練が必要だったのです。変化する以前の狡猾なヤコブの姿では、決して神様の前に用いられることができないので、徹底的に砕かれて変化する働きがなければなりませんでした。

ヤコブの狡猾な面は、すでに彼が生まれる時から気質の中に持っていた本性の中の悪だったので、それは簡単に発見され、抜き出せるものではありませんでした。だから二十年という長い歳月の訓練が必要だったので、ヤコブはついに訪れた進退両難の状況の中で徹底的に砕かれ、自ら低くなる変化を体験することになります。この内容は次に説明しますが、ヤコブは二十年の訓練の歳月を経て少しずつ変化し、低くなったりもしましたが、彼が徹底的に生まれ変わったきっかけは別にありました。叔父のラバンの家で過ごした二十年間の訓練としては、まだ彼が持っていた本性の中の非真理の根が完全に抜け出たわけではありませんでした。ラバンの家を離れて故郷に帰る途中、本当に自分の力と知恵と方法では到底解決できる道が見えない時に、ヤコブは初めて神様の前に虫けらのように低くなりました。

今日もこれと似たようなケースがあるのを目にします。長い歳月の間、訓練を経てもなかなか変化しなかった人が、ある瞬間、完全に変化する契機を迎えたりもします。だからこそ、私たちは誰も判断してはいけません。今はたとえ足りなくて変化が遅いように見えても、ある瞬間、徹底的に砕かれて変化することができるからです。しかし、このように瞬間に変化したように見える人も、実はその瞬間に変化したわけではありません。すでに多くの歳月の訓練を通して準備された時に、神様が決定的な契機を許してくださって、それを通して砕かれる働きが起きるようにしてくださいます。ですから、皆さんの中に変化が遅く、まだ足りないものがあったとしても、決して失望したり諦めてはいけません。神様は今も変化して出てくる皆さんの姿を信頼で眺めてくださっているという事です。

だからといって数年、または十年以上の信仰生活をしながらも依然として足踏みしていて、「私もいつかは変化するだろう」と自ら安気に考えていてはいけません。本教会では、自分を発見して変化できるように、魂と霊および関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す権威ある御言葉が引き続き語られています。宣布されています。ですから、このような言葉を通して自分を発見して変化しようと努力する方なら、当然変化しなければならず、また変化するしかありません。 それもヤコブのように二十年もかかったり、何年も、十数年もかかったりすることなく、短い時間でも完全に変化することができます。御言葉を聞いて、そのまま従順していけばということです。それでも数年、または十年が過ぎても、依然として霊的な発展なしに足踏みをしているならば、これは明らかに自身の信仰に問題があることを悟らなければなりません。

 

ただ、たまに見ると一生懸命自分を発見して変化しようとするのに、他の人より霊的な悟りが遅れたり、親や先祖の影響などで生まれつきの気質のため、より多くの努力が必要な人もいます。まさにこのような方々だとしてもあきらめずに努力していると、神様が恵みを与える契機があって瞬間にも変化することができるということです。結局は、自らがどれだけ努力して従うかによって、いくらでも完全に迅速に変化することができるのです。


「長子の権利を軽蔑した」エサウ

ヤコブが人の知恵と方法を働かせて、長子の権利を奪ったとはいえ、エサウは、やはりどれほどふさわしくない姿なのかを知る必要があります。34節「長子の権利を軽蔑した」とありましたが、これはつまり霊的なことに対する思いや大切に思う気持ちがなかったことを意味します。長子の権利とは、神様から祝福される約束のしるしのようなものです。 自分は口先だけで言ったと思っていたとしても、(25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。)このような長子の権利を煮物一杯で渡すほどなら、エサウが長子の権利に対する大切さはもちろん、神様からの祝福に対する思慕もそれだけなかったということを物語っています。

今日も神様を愛し、霊を慕っていると言いながらも、実際にはそうではない場合があります。例えば、神様を愛し、霊を慕う人なら、当然神様の言葉を愛し、慕うようになります。このような人なら、御言葉に接することを楽しんで、御言葉が語られる集いもまた慕い、証拠となる神様の言葉を一言も逃さないようにするでしょう。神様が施す奇跡も慕うだろうし、各種の権能の働きが現れるのを見る時、一緒に喜び感謝するでしょう。それだけでなく、神の聖殿を慕うだろうし、牧者を慕うのも当然のことです。また、何よりも善を慕い、悪はどんな悪でも捨て、霊に変化することを切に慕うでしょう。

皆さんはどうですか?「私は誰々のようではない」というのではなく、実際の自分の姿を振り返ってみてください。唇では神様を愛し、霊を慕うと言いながら、もしや行いは全くそれに及ばないのではないか、自ら調べなければならないでしょう。イサクの姿を通しても偏狭な愛を与えた結果が何であり、神の御心を肝に銘じられなかった結果が何なのかを悟らなければなりません。イサクがもう少し広い心を持って、エサウとヤコブを一緒に抱いて愛したとすれば、エサウとヤコブの間が互いに競争する関係ではなく、互いに助け合う関係になることができたはずです。

また、イサクが神様の言葉に込められた意味を悟って肝に銘じていたとすれば、ヤコブを通して神様の摂理がなされるよう、ヤコブに長子の権利を渡すことができる知恵を受けたでしょう。しかし、イサクは父親であるアブラハムのような広い心を持つことができず、これによって結局はイサク自身も心の苦痛を受けることになります。子供たちが互いに敵のようになってしまい、一人の息子は遠くに行かざるを得なくなったのですから、その心の苦痛がどれほど大きかったでしょうか。

イサクの妻のリベカもやはり同じでした。このように神様の御心を追い求めなかったので、多くの人々が苦しむ状況になってしまいました。皆さんはこの御言葉を通して、イサク、エサウ、ヤコブ、リベカという人物が置かれた状況で、果たしてどのようにすることが神の御心に従う真理の道なのかを悟ることができることを願います。神様の方法は常に善を追うことであり、平和の中で行われるという事です。また、焦って自分の考えと知恵の中で人の方法を使うのではなく、神様の決められた時を忍耐しながら待つことにあります。


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