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朝の学び168 創世記25章

9月13日
読了時間: 9分

創世記25:21-34


イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。



弟ヤコブを選んで、訓練した神様  

    

ヤコブの場合は、その心の中心が真っ直ぐで良いのですが、26節「そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。」とあります。このようにヤコブがエサウのかかとをつかんだということは、彼が欲を先んじようとする心をすでに持って生まれており、それによって今後エサウとの間にどんなことが発生するかを暗示するものです。そして、彼は生まれつきずる賢く狡猾な気質を持っていたので、神様は二十年という長い訓練の歳月を許すことで、彼が徹底的に砕かれて低くなるように働かれました。

世の人々の考えでは、まるで自分たちの力で子供を産み、自らの人生を生きているように思われますが、しかし、すべては神様の計画と摂理の中にあります。時と時限と人の心の中心、そしてすべての環境と条件をご存知の神様は、強制的に任意にされるわけではなく、公義に反しない中で正確に行われていきます。そして、人間耕作を最初から計画された通り、今まで一寸の誤差もなくすべてのことを成し遂げていらっしゃるのです。これは本教会を見てもよく分かります。本教会のすべてのことも人の力と計画の中で行われるものではなく、父なる神のお言葉通りに正確に導かれて行っています。胎の中からヤコブを選ぶように、本教会もすでにかなり前に神の選びを受け、ヤコブを訓練して変化させて用いられたように、過去22年間を訓練して導いて下さいました。 

さらに神様は各人を訓練して用いるようになさいますが、イザヤ48:10「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」という御言葉のように、苦難のなかで忍耐しながら訓練を受け、純金のように出てきた人を、より大きく尊い働きに用いていかれるという事です。したがって、皆さんはローマ5:3-4「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」とあるように、どんな訓練の中にあっても、それによって失望して落胆するのではなく、むしろより一層希望の中でとどまることができますように、主の御名でお祈りします。   



偏愛の中で長子の権利を狙うようになったヤコブ  

    

双子に生まれたエサウとヤコブは成長し、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいました。イサクは長子であり自分に似ていたエサウのほうを愛し、それに猟の獲物を好んでいたから、もっと愛を与えました。一方、リベカはヤコブを愛していました。 

ところが、このようにイサクのエサウに対する偏愛が続くと、ヤコブの心には不満が生まれるようになりました。ヤコブとしても、なぜ父親であるイサクの愛をもっと受けたいという気持ちがなかったでしょうか?まだ真理に変化したわけではないので、自分より兄であるエサウが父親のイサクからさらに多くの愛を受けることが気に入らなかったのです。「私はなぜ兄のように父の愛を受けることができないのだろうか?」「私に何が足りないから愛されることができないのだろうか?」兄が狩りをしてきて、それで父を喜ばせるのを見ると「私も兄より足りないことがないのに、それにもかかわらずなぜ兄ほど愛されていないのか」と心に不満が募っていったのです。これが結局は長子の権利を狙う状況にまで発展することになってしまいます。

「自分も同じ母親から同じ時に生まれたのに、なぜ誰かは長男で、誰かは次男でなければならないのか」という不満から、ヤコブの心には、兄が持っている長子の権利を何とか自分が持とうとする欲と野心が芽生えるようになったのです。 ついにヤコブは狡猾な性格の中で、「どうすれば長子の権利を自分のものにすることができるのか」と、知恵を働かせるようになります。ところが、それが善の知恵ではなく、世の知恵であり肉の知恵でした。普段、兄の性格をよく知っているヤコブは、エサウのせっかちで軽率な性格を利用して、自分の目的を果たそうとしたのです。 野原から戻ってきてひどく疲れて飢えているエサウに、ヤコブは自分が作った赤いレンズ豆の煮物を与えながら、代わりに長子の権利を要求したのです。    



軽率に長子の権利を売ってしまったエサウ

エサウは、ひもじくてせっかちな気持ちでヤコブが要求する通りに長子の権利をヤコブに売ると誓いました。自分の行動が、将来どのような結果をもたらすかを少しでも深く考えてみたなら、そんな軽率な行動をしなかったはずですが、エサウはそのような考えさえできないまま、当面の空腹に勝てず、長子の権利を売ってしまいました。 32節「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と唇で誓い、長子の権利を売ったのです。エサウは、自分がこのように口だけで長子の権利を売ると言ったからといって、それで本当に長子の権利がヤコブに渡るとは思わなかったでしょう。しかし、ヤコブは霊的な法則をよく知っていました。聖書は、唇で認めることがいかに重要かを語っています。


結論

愛する皆さん、エサウの人柄 性格 性分 を利用して、狡猾な方法で長子の権利を奪ったヤコブの姿は、決してふさわしいものではありません。しかし、豆の煮物一杯で簡単に長子の権利を売ると、唇で告白したエサウもやはりふさわしくないのは同じです。それで34節には「ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」とあります。  ヘブル12:16には彼のことを「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」とまで言います。霊的な無知と共に、俗悪な者という性格からでてきた結果です。     


それでは皆さんはどうですか?簡単な唇の一言でも、それによって皆さんには霊的に大きなマイナスになり、自分も知らないうちに神様との間に大きな隔ての壁が生じることもあります。また、サタンのわなになる可能性があります。そのため、霊的な法則をよく知らなければならないのであり、一言でも軽率に言ってはいけません。 ヤコブ3:2「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と言われるほど言葉はとても重要です。また、霊的な祝福を決して軽はずみに思ってはいけません。旧約時代に長子の権利というのは、すべての祝福の保証と同じです。親の財産を受け継ぐことができる肉的な祝福はもちろん、先祖から伝わる正統の系図を受け継ぐことになる霊的な祝福まで保証されたのです。このような長子の権利を軽んずるということは、すなわち神様のお言葉に対しても、それだけ心の中心に肝に銘じることができないということです。ある人は神様から「私があなたにこのような祝福を与える」という話を聞いた時、それを完全に信じて叶うまで変わらない姿で祈る人がいるかと思えば、ある人は少し歳月が経っても叶わないと心からさえも忘れてしまう人がいます。     


結局、同じ祝福の言葉を受けても、どんな心と信仰で受けるかによって結果は全く変わるという事です。そして自分自身の不足によって祝福を受けられなかった人は、むしろ「神様が私にこのような祝福の言葉をくださったのに、そうされなかった。」と不平を言います。しかし、皆さんはそうした時、そのような状況の中でも「私はどんな姿なのか?」自分の姿を点検できる人になってください。また、今日の言葉を通して、どんなことでも善の知恵、つまり天から来る知恵を受けなければならないということを悟ってください。 ヤコブは長子の権利に対して欲があり野望がありました。今日これを霊的に見る時、皆さんが霊を慕うことは、必要で良い心です。しかし、霊的なことに対する慕う心が行き過ぎて、それがややもすれば欲になってしまうと、これはむしろ悪い結果をもたらすことがあります。     


霊的なことに対する目標を持って慕って走る時は、神様が導かれる方法に従って、善良な方法の中で一段階一段階進まなければならないのに、ある人は目標だけに執着するあまり、周辺を振り返ることもできず、善良な方法ではない方法で、目標を追求しようとする場合があります。 ヤコブがまさにそうでした。もちろん、ヤコブを選んだ神様の摂理の中で、これも神様が許された過程でしたが、ヤコブはまさにこのような姿を打ちこわして変化するために、長い訓練の歳月を経なければならなかったのです。     


結局、皆さんが霊に入り、また神様の善良な道具として用いられるためには、どうしても訓練の過程が必要なのですが、皆さんがどれほど善の中で天から知恵を受けていくかによって、同じ訓練を受けても、ある人は短く終わらせるかと思えば、ある人は長い歳月訓練を受ける場合があります。人の考えと欲によってそれだけ訓練が伴うので、受けなくてもいい訓練まで受けてゆっくり進むようになります。 このような事によく気づき、皆さんは常に神様の善良な御心の中で導かれていくことを願います。それで、すべての事にキリストの善良な香りを放つ神様の貴重な道具として用いられるようになりますよう、主の御名で祈ります。

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