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朝の学び167 創世記25章

9月13日
読了時間: 10分

創世記25:21-28


イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。




序論

愛する皆さん、子供を多く産んだ方々は特に感じると思いますが、同じ親から生まれた子供たちであっても、それぞれの性格に違いがあることが見られます。もちろん共通して親から受け継いだ性格もありますが、時には子供たちの間に全く違う面があることを発見することになります。また、子供の中である子供は父親の方によく似て、ある子供は母親の方によく似ている場合があります。それである子供を見ると、"お父さんにそっくりだ"と言ったり、ある子供に対しては、"お母さんにそっくりだ"と言ったりします。 このように子供を見ると親の人柄が見えたり、逆に親を見ると子供の人柄が見えたりするのです。     


本文に出てくる「エサウ」と「ヤコブ」もそれぞれ「エサウ」は父親の性格を、「ヤコブ」は母親の性格によりよく似ている場合です。そして、イサクとリベカはそれぞれ自分の性格により似た子供に、より多くの愛を与えるようになったのです。つまり、イサクはエサウを、リベカはヤコブをより愛したのです。結局、このような偏愛が、エサウとヤコブの関係を隔たせる大きな要因になったのです。イサクとリベカが本当に真理の中でヤコブを養育していたら、兄弟間で平和になれないこともなかっただろうし、敵味方に分かれることもなかったでしょう。    



偏狭な愛で神様の言葉を肝に銘じられなかったイサク  

 

このようなかたよった愛は、神様のみこころを正確に見分ける上でも大きな支障となります。実際、イサクは、エサウに対する偏愛のために、神様がリベカに与えた言葉に込められた意味を心に刻むことができませんでした。本文23節に「すると主は彼女に仰せられた。『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。』」とあるとおり、神のみこころは、すでにエサウとヤコブが生まれる前から決まっていました。「兄が弟に仕える。」ということは、たとえエサウが先に生まれて長男であったとしても、結局は弟のヤコブに仕えることになるという意味です。神様の摂理は、弟であるヤコブを通してなされることをおっしゃったのです。だから、イサクがこのような神様の言葉を肝に銘じていたとすれば、エサウが自分に似ていて長男だからといって、彼に長子の権利を与えようとするのではなく、ヤコブに長子の権利を与えたはずです。人の考えや慣習また枠に縛られるのではなく、何よりも神のみこころを最優先にして従うべきだったのです。

イサクの父であるアブラハムはまさにそうしました。アブラハムには、イサクを産む前にすでにイシュマエルという息子がいました。イシュマエルがたとえ正統の系図を通して産んだ約束の子孫でなくとも、長年にわたって跡継ぎがなかった状況で苦労して得た息子だったので、アブラハムがもし神様の言葉を最後まで信じて頼らなかったとすれば、人の考えの中でイシュマエルを跡継ぎにすることもできたでしょう。アブラハムは、イシュマエルの誕生の後、イサクを得るまでは十四年という歳月をさらに待たなければなりませんでした。肉の考えを働かせる人であったとすれば、十四年という歳月を待ちながら「このように待っても約束された子孫がないから、イシュマエルを後継ぎにしなければならないのではないか」という考えが出て来ることもあり得ます。 しかし、アブラハムは、信仰で最後まで神様の言葉に頼って約束の子孫を待ち、ついにはイサクを得ることになりました。

アブラハムとイサクの信仰の違いは、その後のアブラハムの姿を通してもはっきりと現れます。アブラハムは、イサクが神様の定められた約束の子孫であることを知ったので、神様のみこころどおりに従順しました。イサクとイシュマエルを少しの差別もせず、同じ子供として愛しましたが、神様のみこころが誰にあるかを明確に知っていたので、情に引かれたり、考えを働かせたりしませんでした。イシュマエルを家から追い出さなければならなかった時も、それが神様のみこころであることを知ると、直ちに従順だったことを見ます。 また、妻のサラの死後、後妻を通して得た六人の子供たちに対しても、アブラハムは肉的な情に導かれるよりは、神様のみこころと摂理を先に考えました。それで、イサクを除いた残りの子供たちを彼の生前に遠くへ行かせたのです。イサクを通して神様の摂理がなされることにおいて、少しの支障もないようにしようとする意図からだったのです。アブラハムに愛がなく、情がないからではなく、彼には人との間の肉的な関係や情よりも、神のみこころが最優先だったからです。

このようなアブラハムの姿とは違って、イサクはそうではなかったことを見ます。先に申し上げた通り、神様のみこころは兄のエサウが弟であるヤコブに仕えることで、神様はそれを言葉で明確に知らせてくださいました。イサクが肉的な情や人の考えに縛られ、エサウにかたよった愛を持たなかったら、神様の意思を正確に分別して、ヤコブがたとえ弟だとしても彼が跡継ぎとなるようにしたはずです。しかし、イサクはそうすることができず、リベカもやはり、善良な真理の方法で神のみこころを成し遂げようとしたのではなく、狡猾な方法で自分の欲を満たそうとしたので、結局エサウとヤコブは兄弟間で悲劇的な事件を迎えることになります。


ヤコブを予知し、予定された神様  

    

それなら、神様は事がこのようにならないように、「エサウ」を選んで用いていかれたらどうでしょう?どうせ、エサウが長子として生まれたのだから、エサウの中心を良くして、彼が道理の中で自然に長子の名分を受け継いで、神の摂理を成すようにすればよかったのではないでしょうか?もちろん神様はそうすることもできますが、もしそうされたなら公義にも合わなく独裁者になることです。前の時間に申し上げた通り、神様は任意に決めてなさる方ではなく、すべてを予知する中で予定する方だからです。     


ローマ書9:20-21によれば「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」という内容が出てきます。ここで陶器づくりの職人は神様を例えたものですが、この言葉を間違って理解すると、まるで「神様は勝手にある人は良い器に、ある人は悪い器に造る方だ」と誤解することがあります。しかし、神様はそのような方ではなく、徹底的に公義の法則に任せるので、どんなことも任意になさいません。     


もし神様が任意にされれば、この世に良い心や良い心の畑を持つ人々をできるだけ多く生まれるようにして、彼らを用いて使うことができるでしょう。エリヤ、アブラハム、モーセ、エノク、ペテロ、使徒パウロ、このような心を持つ人々をたくさん造られて、神の御心を成し神の国を拡張していけば、どれほど早く神の国を成し遂げることができますか?しかし、神様は自らも公義の法則に従うので、任意に良い器を思う存分造るのではありません。そのため、人間耕作のみわざを通して偉大な人物がたまに出てきたのです。ただ、神様はすべてを予知する方として、人間耕作の働きの中で、将来ある時になれば、ある人物がいなければならないことをあらかじめ知っています。ある時期になるとアブラハムのような人物が出てこなければならず、ある時期になるとモーセのような人物が出てこなければならず、ある時期になると使徒パウロのような人物が出てこなければならないことなどを皆ご存知でしょう。それで神様はその頃になればそのような人物が出てくるようにすべてのことを主管していくのです。例えば、どんな先祖とどんな親を通して、どんな環境で生まれるべきかなどをあらかじめ知って主管していくということですね。 これが予知予定なのです。     


無条件に神様が勝手に良い器をいつでも造られるのではなく、必要な時を知ってその時に合わせてそのような人物が出てくるように主管して、良い心だと定められた通りになされるのです。だから神様は、エサウとヤコブの中で誰がより良い心を持ち、誰を通して摂理を成し遂げなければならないかをすでに知って計画されました。エサウよりはヤコブの心がもっと良いことを知っていたので、たとえヤコブが弟であったとしても、神様は胎の中から彼を選んだのです。このように予知して予定されたからといって、それですべてが終わったわけではありません。ヤコブが神の摂理を成すことができる道具として出てくるために、以後必要な訓練を受けなければならなかったのです。 もちろん神様はヤコブが上手に訓練を通過して出てくることも知っていましたが、ヤコブの訓練は、敵である悪魔サタンも見守る中、正確に公義に合うよう、徹底的に自らが受けなければならなかったのでした。ヤコブが神の定められた人であるからといって、訓練を形式的に通過したり、少し足りなくても大目に見るのではなく、公義の中で正確に受けなければならなかったということです。 

聖書上で大きく用いられた人物たちも、やはり彼らの器が良くて中心が良かったとしても、彼らがもし訓練をうまく通過できなかったとすれば、そのように使われることはできなかったでしょう。器が良くて中心が良いだけに、神様はもっと大きく用いることを望むのであり、したがってそれにともなう訓練も他の人々よりはるかに強力に受けなければならないという事です。だから「私も器さえ良ければ、中心さえ良ければ、信仰の先進者たちのように大きく使われるはずだが」 このように考える方々がいらっしゃるなら、その前に「私にもしアブラハムのようなモーセのようなヤコブやヨセフのような訓練が来たら、私は果たしてうまく通過できるだろうか」これを先に考えてみてください。

人々が見る時、ある人は訓練を少なく受けて、または訓練を簡単に通過して霊に入って用いられるように見えるかもしれませんが、各人に与えられる訓練もやはり公義の中で正確に与えられるという事です。 訓練は敵である悪魔サタンもその訓練を見守る中で全く訴えの余地がないように公義に値しなければなりません。それ故、誰の助けでもなく、自分の信仰で通過しなければならないのです。もちろん神様も上から恵みと能力を与え、聖霊様も助けてくださいますが、これもやはり自分の信仰で引き出さなければならないのです。さらに、器の大きさによって、また器の材質によって神様が許す訓練が異なるため、ある人には簡単に見える訓練が他の人には難しいかもしれません。ある人は強く鍛えるかと思えば、ある人は弱く鍛えることもあります。ややもすると小さな器を無理に広げようとすると割れることもあるので、神様は各人に最も適した訓練を通して各人を変化させ、整えていくのです。

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