朝の学び166 創世記25章

創世紀 25:19-27
これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。
イサクの祈りを聞き、リベカを妊娠させた神様
イサクが神様に祈ってリベカが妊娠するようになったのは、イサクに妊娠させる祝福権があってそうなったわけではないことを知らなければなりません。祈って妊娠させる祝福権を持つ人が数人いると考える場合がありますが、聖書で妊娠の祝福権を持つ預言者はただエリシャ一人だけでした。第二列王記4:16前半節に「エリシャは言った。『来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。』」とあり、17節に「この女はみごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころ、男の子を産んだ。」とそのまま実現したことが述べられています。それ以外の他の場合は、皆神様が直接、懐妊の祝福を与えてくださったのです。イサクの場合も彼に懐妊の祝福権があったのではなく、彼が信仰で神様に祈った時、摂理のなかで神様は彼の祈りに答えてくださったのです。
サムエルの母親ハンナは不妊の女でしたが、シロでの祈りを通して、神様から直接妊娠の祝福を受けた場合です。サムエル記第一1:5-6に「また、ハンナには、特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。」とある通り、ハンナを身ごもらせないようにした方が神様であることを言っています。胎の門を開き閉める権勢は、生死禍福を司る神様だけにあるからです。サムエル記第一1:19-20に「翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして『私がこの子を主に願ったから。』と言って、その名をサムエルと呼んだ。」とあります。
ある人はサムエル記第一1:17で、神様の前にシロでの請願の祈りをするハンナを見たエリ祭司長が「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」と言った言葉を持って、これがエリ祭司長の祝福でハンナが身ごもったのだと考えたりもします。しかし、この時、エリ祭司長は、ハンナにどんな問題があるのか分からないまま、一般的な意味で祝福を祈ってあげたのでした。これはハンナが子供を産んだ後、サムエル記第一1:27に「この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。」と告白したことからも分かります。ハンナが子供を得るために祈った時、神様が彼女の祈りを聞いてくださり、ハンナが妊娠して子供を産むようにされたのです。
その他にも、神様が使者を送って自ら胎の祝福を告げてくださり、生まれたサムソンやバプテスマのヨハネの場合があります。胎を主管して胎の祝福を与える能力はただ神様お一人にだけあることであり、胎の祝福権が人に与えられることが決して容易なことではないことが分かります。 エリシャの場合も、たった一度だけ聖書に記録されているだけです。それも真心を尽くして自分に仕えた女性だったので、その心に感動を受け神様が主管するなかで、胎の祝福を祈ってあげたのです。 ところが、本教会では身ごもりの驚くべきみわざが、数え切れないほど現れており、少しだけ信仰を示しても働かれるので、これがどれほど父なる神様の大きな恵みと祝福なのかを、心の中心で悟ることができなければならないでしょう。
イサクとリベカの双子の息子エサウとヤコブ
続く本文25:22-26節を見ると、イサクがリベカを通して産んだ双子の兄弟からヤコブが出てくることになります。これから展開される創世記の内容を暗示するかのように、エサウとヤコブはすでに胎の中から互いに戦い、序列争いをしていました。25:27に「この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。」とあるとおり、エサウは性格が荒くてせっかちな面がありました。だから結局は爆発して出てくるのが見られます。ヤコブはリベカの性格に似ていました。25:27に「穏やかな人」とある通り、彼は静かで落ち着いた性格でしたが、その中にずる賢く狡猾な心がありました。 このように性格から差があったエサウとヤコブは、胎の中から争いが起きましたが、リベカが御心を神様に尋ねると、25:23に「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」と仰せられました。
すでに胎の中にいる時、誰が神様の摂理の中から選ばれるかが決まっていたのです。だからといって神様がすべてを決めておいて導いていく方ではないですね。神様は予知する中で心の中心を見て選ばれ、選んだ通りに導くために訓練を許されます。この時、結局自らが訓練を通過して変化して出てくるので、神様が予知した中で選んだ通りに使われることになるのです。 エサウとヤコブの場合も、神様はすでに胎の中から彼らの心の中心をご覧になられたのであり、この時どの器が訓練を通して変化し、神様の前に使われるまっすぐで正しい心の中心を持っているのかをご覧になったのです。
神様は各人の土質と性格、その器などをよく見て、それに合う訓練を許して変化させます。もし神様がエサウを選ばれ、彼に将来ヤコブが受けなければならなかった二十年間の訓練を許されたとしたら、果たしてエサウがそれをうまく通過したでしょうか?彼の性格ではその歳月を耐え切れなかったはずです。反面、ヤコブはずる賢く狡猾な面はありましたが、二十年の訓練を通して結局は虫けらのようなヤコブとして出てくることがみられます。
結論
ヨハネ第一5:14によれば「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と言いました。この言葉のように、私たちが何でも神様のみこころ通りに求めれば、必ず聞いてくれます。ところが問題は神様のみこころがどこにあるかを正しく分別することにあります。今日のお言葉を通してアブラハムとイサクの信仰を比較して、どのようにすることが神様の御心にかない、正しく祈って求めることができるかを悟って下さい。
皆さんの信仰が幼い頃は、神様の御心をよく分別できないまま、自分の考えと意思の中で求めても、それが皆さんに害になるのでなければ、神様は聞いてくださいます。 しかし、信仰が成長しながらも、依然として子供の信仰のような姿で求めるなら、この時は神様が答えてくださることができません。皆さんは霊に全き霊にと慕って入ってくる方々として、祈りを一言捧げるにおいても、何が父なる神様のみこころなのかを正しく分別して祈ることができることを願います。 また、時と時限は父なる神様の側から見る時、最も適当な時点を定めて下さるのが私たちにも最も良いということに気づき、神様の側で決められた時まで忍耐しながら待つことができる成熟した信仰の姿も備えることを願います。それで、成し遂げようとおっしゃったとしても、答が与えられるその瞬間まではひたすら信仰で祈り、神様のみこころの中で美しく応答される皆様の人生になることを主のお名前で祈ります。



