top of page

朝の学び165 創世記25章

9月13日
読了時間: 10分

創世紀 25:12- 21


これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。すなわちイシュマエルの子の名は、その生まれた順の名によれば、イシュマエルの長子ネバヨテ、ケダル、アデベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダデ、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。これらがイシュマエルの子孫で、それらは彼らの村落と宿営につけられた名であって、十二人の、それぞれの氏族の長である。以上はイシュマエルの生涯で、百三十七年であった。彼は息絶えて死に、その民に加えられた。イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。




序論

人がいくら富と名誉と権勢があるとしても、人の力と能力では解けない問題があることを見ます。さらに人生の途上で、全く予想できなかった突発事態のような状況に遭遇したりもします。これは一国の王や権勢のある人、または高貴な地位にある人でも例外ではありません。このような状況で人々は、全能者を探しその力を求めます。聖書には、自分の能力や力でどうすることもできない状況で、神様の人を通して問題を解決され、答を受ける場面があちこちにあります。

家の中のすべての胎が閉じていたゲラルの王アビメレクは、アブラハムの祈りを通して胎が開く答を受けました。アラムの王の軍隊の長官ナアマンは、神様の預言者エリシャの前に出てきた時、ツァラアトを癒されました。エジプトの王パロと彼の民は、神の人ヨセフによって七年間の凶作の災いも乗り越えることができました。アビメレクやナアマン、またエジプト王のバロは皆、神を信じない異邦人でしたが、彼らが神の人を信じて頼った時、神は彼らにも恵みを与えてくださったのです。神様はこのように働いてくださることで、神様の人を保証して下さり、共に神様の摂理を成し遂げて行かれたのです。     


これは今日でも同じです。先週は中東に出張に行ってきましたが、そこで会う人たちは一般の階層の人ではありません。それでもそのような方々が私の前に出てくるのは、すでに私に対する噂を聞いて知っていて、私を通して現れる権能を信じるからです。また、祝福の祈りを受ければ問題が解決するということを信じているので、私を訪ねてくるのです。神様は彼らを通して中東に向けた神様の摂理を成し遂げていくのです。神様が本教会に下さったイザヤ60:3「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」とおっしゃった通り、すべてが今行われています。さらに今回の出張を通して私たちがどれほど核心に近づいているのかを悟ることができ、私たちを助ける方々がどれほど心強い力になってくれるのかをもう一度確認することになりました。中東に向けられた神様の摂理を完全に成し遂げるために、常に心に抱いて祈ってくださることをお願いします。 


イシュマエルによって大きな民族を成すようにしてくださった神様


アブラハムには、約束の子孫であるイサクが生まれる前に、サラの女奴隷エジプト人のハガルから得た息子イシュマエルがいました。しかし、イシュマエルはアブラハムと一緒に暮らしたのではなく、イサクが乳離れする頃にサラによって、ハガルと一緒に家から追い出されてしまいました。その後、イシュマエルはバランの荒野に住み、エジプトの地の女性を娶り、妻にしました。12節からイシュマエルの子孫について記録が出てきますが、これは神様がすでに以前にアブラハムに与えた約束どおりになされたものです。創世記17:20によれば、神様はアブラハムに「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。」と約束の言葉をくださったことがあります。     


その後も神様は、ハガルとイシュマエルを家から送り出し、心を痛めるアブラハムにもう一度、創世記21:13「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」」とおっしゃいました。ハガルにも創世記21:18「行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」と約束されました。このように神様は、イシュマエルの息子たちを通して、その御言葉どおりに十二人の族長を成す大きな民族として出てくるようにしました。このすべてが結局はアブラハムを覚えた神様の恩恵だということです。     


イシュマエルやハガルだけを見ると、彼らが決してこのような祝福を受ける資格はありませんでした。イシュマエルはアブラハムのそばを離れて以来、ますます神様とは遠ざかっていきました。アブラハムと一緒に暮らしながら、アブラハムを通して働かれる神様を見ましたが、ハガルとイシュマエルは神様に仕えたのではなく、異邦人の中に埋もれてしまいました。だから、イシュマエルは異邦のエジプト人の女性を妻にしたのです。しかし、神様はアブラハムを覚え、アブラハムに与えた約束の言葉を守るために、家を離れたイシュマエルが一つの大きな民族を成すまで彼を守って握り、彼の子孫たちを繁栄させたのです。反面、約束の子孫であるイサクは、父親であるアブラハムの教えの中で、神に仕える人として成長していきました。 そして、イサクが成長して四十歳になった時、アブラハムの故郷の出身の女性であるリベカを妻に迎えました。 イシュマエルが神を知らない異邦人を娶り、妻にしたのとは全く違いました。


イサクとアブラハムの信仰の違い       


ところが、イサクにも信仰の訓練がやってきます。結婚して二十年近く経っても跡継ぎがいなかったのです。もちろん、百歳になってようやくイサクを産んだアブラハムのことを考えると、長く待ったとも言えないでしょうが、結婚して二十年にもなり、六十歳になったイサクはもう待つことができませんでした。それで21節「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」とある通り、神様に祈って答を受けるのです。この言葉だけで見れば、イサクは本当に信仰の人であり、神の保証される人であることが分かります。イサクはアブラハムを通して信仰について見て聞いて学んだので、人の力や能力では解くことができない問題の前で、このように信仰で神様に祈って答を受けました。

しかし、イサクのこのような姿をアブラハムの姿と比較してみると、多くのことを悟ることができます。アブラハムは百歳で息子のイサクを得るまで、多くの忍耐の歳月を過ごさなければなりませんでした。神様から約束の言葉を聞いても、二十五年をもっと待たなければなりませんでした。それも若い年齢ではなく、百歳にもなるまで待たなければなりませんでした。 では、アブラハムはイサクのように神に祈ることはできなかったのでしょうか?「神様、私に後継ぎをくださると約束してからずいぶん経ちましたが、まだ後継者がいません。私に約束した通り後継者をください」と、いくらでも祈ることができたはずです。さらに、初めて神様の召しを受けた時から、無条件に信仰で従順だったアブラハムの信仰なら、イサクのように速やかに答を受けることができる信仰もありました。しかし、アブラハムはそうしませんでした。神様の側から答をくださるまで、静かに我慢して堪えて待ちました。それはまさに自分の方で答の時を定めたのではなく、神の方から与えられる時が来ることをひたすら信仰で眺めて待っていたということです。     


ところで、イサクはどうでしたか?アブラハムのように我慢したでしょうか?我慢できませんでした。イサクは、神様が「彼を通して天の無数の星のように多くの子孫を出させる」とおっしゃった約束の子孫なので、彼を通して子孫が出てこなければならないのは当然です。待っていればいつかは必ず子孫を授けてくださるでしょう。それが神様のお言葉だからです。 言い換えれば、イサクが神様に祈らなくても、神様はおっしゃったことを成し遂げ、摂理を成し遂げるために、当然しかるべき時にイサクに後嗣を与えられるということです。これはアブラハムにすでに約束したことであり、またイサクにも約束したことです。ただ、その時期は神様次第です。イサクもこのような事をよく知っていました。それでも、イサクは時が来るのを待ちきれなかったのです。二十年余りという歳月を待ちはしましたが、それでも答がないと結局、自分が先に神様に祈るようになったのです。

 

この時、イサクが祈って答を受けたこと自体は確かに信仰の実ですが、それでもイサクは父親であるアブラハムがそうだったように神様の御心に完全に任せることはできなかったという事です。イサクが神様の御心に完全に任せたとすれば、妊娠させてほしいと祈る前に「神様の御心の中で摂理されたすべてのことが美しくなされるようにしてください」と祈り、神様の側で先に働かれるまで待たなければならなかったのです。このようにアブラハムの信仰とイサクの信仰を通して、信仰の次元をよく分別しなければなりません。働き人になる方々も神様の仕事をしている時に分別しなければなりません。イサクの信仰が間違っているという意味ではなく、彼の信仰そのものだけを見れば優れた信仰ですが、信仰の父アブラハムの信仰と比べてみると、さらに深い次元には至っていないことを言うのです。    


もし皆さんにある問題が生じた時、それを信仰で祈り、答えを受けて解決してもらうことはとても良いことです。しかし、より深い次元に入ると、問題だけを見るのではなく、その問題の裏面に含まれている神様の御心と摂理を見ることができるようになります。そのため、問題があるからといって、それをすぐに解決してほしいと祈ることだけが最善策ではないということを知らなければなりません。例えば、ある方の事業の場に急を要する問題が起こった時、切羽詰まってこの仕事がうまくいくようにしてほしいと祈るようになります。この時、本当に信仰で祈れば、その問題が解決されます。しかしこの時、もう少し深い次元を見る人なら、すぐに問題を解決するよりは、このことの原因を悟ろうとするでしょう。それで、その原因を探して解決し、その中に込められた神様の意思を悟るのです。だからといって、じっと座って答えが来ることだけを待てという意味ではありません。父なる神様の御心がどこにあるのかをすぐに悟ってこそ、正確な解決策が見えるという意味です。

私が中東に出張に行くのも、父なる神様が摂理した中で行われることですが、一歩、一歩足を踏み入れることがあまりにも重要で意味があることです。そのため、一人の人に会うことも、また人に会って祈ることも、人の考えや計画ですることではありません もし人の考えを働かせるならば、そこに行って問題のある人たちにできるだけ多く会って祈り、彼らが答を受けて癒しを受けて噂が早く広がることを待つでしょう。または、すぐに私たちに益になる人々に会って、彼らが恵みを受けるようにして、私たちに物質的な益になるようにすることもできます。私に会うことを望む人に会って、一日に数十人から数百人ずつ祈って、問題を解決する道がいくらでもあります。 私が信仰でそのように祈っていけば、神様も必ず信仰通りに働いてくださるでしょう。 しかし、それは神様の御心ではなく、私もそれをあまりにもよく知っています。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
名古屋万民教会
Nagoya Manmin Church

〒 465 - 0014

名古屋市名東区上菅一丁目916番地

TEL/Fax: 052-774-8874

E-Mail: qqrb5br9k@gaea.ocn.ne.jp

2017 Nagoya Manmin Church,All rights reservde.

bottom of page