朝の学び164 創世記25章
創世記25:7-11
以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。
上のよみで果たさなければならない使命のために死を迎えることになったアブラハム
7-8節に「以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。 アブラハムは年を取ったからといって、何かの病気にかかったり、弱かったりしたわけではありませんでした。 彼のたましいが幸いだったので、いつも健康である祝福の中で生きていました。 このようなアブラハムも定められた時が来て、肉の死という過程を経なければならなかったのです。
アブラハムがなぜ肉の死を受けなければならなかったのかは、前にすでに申し上げました。 アブラハムは、死を見ずに生きたまま挙げられたエノクやエリヤ、また今日までその墓を知っている者がおらず、彼の死体をめぐって悪魔と天使長ミカエルが互いに争って弁論をする場面がユダ書に記録されているモーセ預言者と比較する時、彼もやはり死を見ないこともありえます。ユダ1:9 「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主があなたを戒めてくださるように。』と言いました。」
アブラハムがあえて肉の死を経験しなければならなかったのは、彼が死んだ後に上のよみで果たさなければならない使命のためです。 したがって、アブラハムは肉の死を迎えるとしても、それが罪の代価による結果ではなく、神の摂理の中で与えられた使命のためでした。 だからアブラハムは死を迎える瞬間までも健康な人生を送ったのであり、今や時が来て死を迎えることになると、神様が彼の全身から力を抜かれるので、自然に息を引き取るようにしたのです。さらに、アブラハムは自分が死ぬ時を知りました。それで、自分の周辺の整理を終えて死に備え、平安の中で息を引き取りました。 死という過程を恐れたり、恐怖の中で迎えたのではなく、喜びと感謝で迎えることができました。 この地で自分が果たさなければならない使命を全て終え、しばらく後にお目にかかる、愛する父なる神様を思いながら、人生を美しく終えたのです。
アブラハムが死を迎えた瞬間に思い返して告白した内容
しばらくアブラハムが死を迎えた瞬間に、その心に回顧しながら告白した内容をお話します。この内容は聖霊の感動の中でおっしゃってくださった内容です。
私がこのように生きて息をしている間
父なる神の摂理とみこころにあって導かれ
私が死を前にして
すべてを整理することにおいて私の心をつかさどり、私の心に幸せを感じさせ
私の心に喜びと感謝で
この道を迎えるようになさる父の御前に感謝と栄光をお返しいたします。
今日まで私がこのような祝福をいただいて生きてきたのも
父が私を愛され私を導かれたからなので
わたしがその愛のうちにとどまる者として
あまりにも満たされて乏しいことがありませんでした。
今は死を目前にしているこの時点においてまでも
私をつかさどり私をそのふところに抱かれますので
感謝と栄光をおささげいたします。
私は父の御目に
全き信仰を示すと言ったものの
ある時には思いが働いた時もありましたが
父が私を愛しておられましたのですべての道を開かれ
すべての道に導かれ、一つ一つ整えてくださいました。
私を整えて完全になさる父の御前に
わが心の奥深く感謝が積まれるようにされ
すべてを見る時にそれを
私の現実の目で見るのではなく
父のお心で見るようになる
そのような心に私を導かれたことに感謝申し上げます。
それによって今日このような富と
このような名誉とこのような名声と
このような父の栄光が私にありますので
多くの人にほめられて
私の息子のことで喜びになり感謝申し上げます。
私が生きていたとき、本当に具合の悪いところがなく
私の生きていたとき、どんな困難もなかったし
このようにからだでもどんな事でも
難しさや苦しみの状況がなかったことによっても感謝でありますが、
今や息を引き取った後に父のふところに抱かれるようになる
神の摂理を望むようにされることにも感謝申し上げます。
父よ、
私が死を前にしてこのような感謝と喜びと
喜悦があふれるようにされ、感謝申し上げます。
これから後のすべてが父の摂理のうちにありますので
私が肉のすべてのものを手放すとしても
今後の計画されたすべてのことが
父の摂理のうちに完全に成し遂げられることと
息子をとおした摂理を完全に成し遂げられることを信じております。
父よ、感謝申し上げます。
私がこのように父の御前に安らかに
抱かれるようにされて感謝申し上げます。
この地上の人生はあまりにもむなしいものでありますが
父が私にはその人生をむなしいものにされたのではなく、
あまりにも尊くて価値あるものとしてくださり
今、死を迎えるとき
このような喜びと感謝と喜悦があふれる中で
父のふところに抱かれるようにされ、感謝申し上げます。
すべてが父の御手にありますし
すべてのことによって
父よ、大いに栄光をうけたまえ。
アブラハムはこのように心の中心で告白し、この地での人生を終えました。息子のイサクとイシュマエルは、彼を妻のサラが葬られているマクベラのほら穴に葬りました。次の時間からはアブラハムの死後に繰り広げられるイサクと彼の子孫に対する内容が続きます。
結論
愛する皆さん、アブラハムは信仰の父です。つまり、将来出てくる世界のすべての国と民族にとって、信仰の模範となる役割をするのです。 皆さんは神様がアブラムを呼ばれる創世記12:1から始まり、今日の本文にアブラハムの死に至るまでアブラハムの信仰について学びました。なるほど、アブラハムは信仰の父らしく、公義に照らしてみると少しも外れることのない、全き信仰のひな型を見せてくださいました。神様だけを全面的に信じて、神様の言葉に従う信仰が何かを見せてくださいました。それなら、このような言葉を聞いた皆さんもアブラハムの信仰に挑戦されませんか? 多くの方々がアブラハムの信仰を見習うために唇では熱心に祈っておられますが、実際に行うことはアブラハムの最年長のしもべにさえも至らないことがみられます。
皆さんは今まで聞いたアブラハムの信仰を通して、本当に神様を信じて信頼する信仰、その信頼が最後まで変わらない信仰で出てくることを願います。神様の前に捧げられた心を決して世の中の何にも奪われず、主が再び来られるその瞬間まで信仰で勝利することを願います。 それで主を迎える瞬間に、アブラハムが父なる神様の前に表した告白のように「神様、私がこの瞬間を喜びと感謝と喜悦があふれる中で迎え、神様の胸に抱かれるようにしてくださり感謝します。」と告白できる皆様になることをイエス・キリストの御名によって祝福してお祈りします。



