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朝の学び163 創世記25章

9月12日
読了時間: 9分

創世記25:1-11


アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。 ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。 以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。




序論


愛する聖徒の皆さん、先回見た通りアブラハムの最年長のしもべは、少しの思いも働かさずただ神の主管に従い、自分の使命を完全に果たしました。イサクを通して出て来る彼の子孫たちが、多くの星のように壮大に繁栄していくことが神様の摂理だったので、当時アブラハムにとって最も重要な関心事は、約束の子孫である息子イサクの妻になる人を迎えることでした。何よりも、イサクが結婚して跡継ぎを産み、彼らが繁栄してよく生きていく姿を見てこそ、アブラハムとしても安堵の気持ちが持てるのです。だから、イサクの妻を求めることは決して小さなことではなく、当時の状況では家の中で最も重大な事といえるのです。

まさに、アブラハムにとってのこのような重要な仕事を引き受けて成し遂げたのが、彼の最年長のしもべでした。それも単純な仕事をやり遂げる次元ではなく、主人であるアブラハムの心を推し量り、その意に合わせて仕事を成し遂げたのです。したがって、この最年長のしもべはアブラハムにとって、単に家で仕えるしもべとしての存在を越え、自分の心を推し量り、いかなる困難も共に分かち合える友のような存在といえるのです。これは、人と神との関係においても同様です。  


ヤコブ2:23によれば「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」とあります。また、出エジプト記33:11の前半節には「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」と記されてあります。 このように、人であったとしても神様と友のような関係になれるという事です。では、モーセやアブラハムはどのようにして神様とこのような関係になれたのでしょうか?もちろん聖書の中でこれに対する多くの答えを見つけることができますが、その中で最も重要なのはまさに悪のない彼らの心です。神様は、人としては理解できないはるかに高い霊の次元にいらっしゃる方です。 したがってこのような神様を、人が生きている肉の次元の限界から見ると、理解できない分野がいくらでもあり得ます。     

例えば、「イサクを全焼のいけにえにするように」というお言葉が、人の考えとして理解できることでしょうか?あるいは「紅海を分けなさい」という言葉が人の理論として理解されることでしょうか?ところが、モーセやアブラハムは、肉の限界を持って神様を眺めませんでした。そのため、神様のどんなお言葉にも何の理由や言い訳をせずに、ただアーメンと従順だけが出ることができたのです。 さらに、彼らは心に悪がなかったため、神様のすべてを常に善として霊として見ることができました。 彼らの心が善良なので、善良な神様の心を感じることができたのです。だから、神様が何を言われても、どんな命令や指示をされても、彼らはすぐに従うことができました。それで神様は彼らに深い御心を伝えることもおできになりました。     


聖徒の皆さん、世の中でも真の友人関係とはどんなものでしょうか? たとえ親にも妻にも打ち明けられないことを、率直に打ち明けて対話できる関係がまさに真の友人関係です。そして友人の間で、このように秘密なしにどんなことでも対話ができるということは、お互いに誤解せずに相手が理解してくれるという信頼が土台になっている時だけ可能なことです。 ところが、神様との関係においても、心に悪が全くなく、真理だけで満たされた人は、その心が霊の次元にある人なので、霊である神様の心を理解することができます。 どんな仕事をする時もいつも神様の心を先に推し量って、それに合わせて従うことができるのです。このような人を見つけた時、父なる神様も喜んで友人のような関係で接してくださるという事です。

 アブラハムはまさに神様とこのような心分かち合う友のような関係を築くことができたのです。又、人との関係でも、信じて信頼できる友人のような最年長のしもべがそばにいたのです。 このように、この地で何一つうらやましいことのない恵まれた人生を生きたアブラハムにも、肉の死という瞬間が近づくようになります。 今日はアブラハムを通して出てきた子孫たちとアブラハムの死について見てみたいと思います。


生存中に他の子らをすべて独立させて送るアブラハム        


アブラハムはサラが世を去った後、ケトラというもうひとりの妻を娶ることになります。そして、そのケトラからジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハと6人の子供が産まれました。彼らはたとえアブラハムの嫡流を継ぐわけではないとしても、彼らの子孫も将来民族を形成し、人間耕作の働きの一部門を占めることになります。ところが本文によれば、アブラハムは自分の生存中に、このようにケトラを通して産まれた息子たちをすべて独立させて送り出すことが見られます。 5-6節に、「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。

では、アブラハムはなぜこのようにしたのでしょうか? これは、イサクを通して成し遂げようとする神様の摂理が、他の子らによって、いかなる形であれ妨害されないようにするためでした。しかし、アブラハムがこのようにしたことは、以前にサラが肉の思いを働かせて、ハガルがアブラハムに産んだ息子イシュマエルを、イサクから遠く離れるようにしたこととは全く違います。 以前、サラがイシュマエルをイサクから遠くへ行かせるようにしたのは、もしやイシュマエルによって自分が生んだ息子であるイサクが約束の子孫として正統の系図を継ぐ上で支障があるかという肉の思いからでした。また、イシュマエルによって、自分が産んだ息子のイサクに害が及ぶのではないかという心配のためでした。     


しかし、アブラハムが他の子らをイサクから遠ざけたのは、肉的な考えや心配のためではありませんでした。 アブラハムは、神の摂理にあって嫡流を継ぐ民族は、ただイサクを通してだけ出てくるということを知っていました。したがって、たとえ自分の子供たちだとしても、イサクを除いた他の子らは嫡流を継ぐ神様の摂理の中に入れないということも分かりました。 言い換えれば、イサクではない他の子供たちを通して出てきた子孫たちは、次第に時間が経つと神様を離れることになり、ついには神様と関係のない民族として生きていくことになるということです。今は子供たちがアブラハムと共にいるので、神様を畏れ敬い、神様の御心の中で生きますが、アブラハムが死んだ後に時間が経てば次第に神様を畏れ敬うこともなくなり、神様とは遠ざかるようになってしまうのです。     


だから、もしアブラハムが肉的な情にひかれて彼らをイサクから遠ざけないなら、どうなるでしょうか。今すぐは良いように見えても、後日彼らの子孫たちが、イサクを通して出てきた子孫たちの正統性さえも損ないかねないのです。イサクの子孫たちがいくら正統性を守りながら生きようとしても、神と離れていく他の子孫たちと混ざって共に生きていけば、イサクの子孫までも世に染まっていくことにもなるのです。  



神様がイサクを通してアブラハムの正統系図を受け継ぐことを願う根本の理由        


神様がアブラハムの系図の正統性をそのまま受け継ぐことを願う根本の理由は、まさに神様に向けた心と仕えがそのまま続くことを望まれたためです。 ところが、もし正統性を維持できない他の子らとその子孫によって、イサクの子孫までも、神に対する心と仕えが変質したらどうなりますか? 決してそのようなことが起きてはいけません。 まさにこのような事実をあまりにもよく知っているアブラハムだったので、彼は自分の生存中にあらかじめ嫡流の流れを継ぐイサクから彼らを遠ざけるしかなかったのです。 まるで肉と霊が一緒にできないようなものです。    


コリント第二6:14に「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」とおっしゃった言葉の通りです。このようにアブラハムは神様の壮大な御心を知っていたので、肉的な情に引かれず、彼らが自分を離れて、それなりに自分たちの人生の基盤を築くことができるようにしたのです。 しかし、アブラハムはイサクと他の子たちを差別しようとする気持ちはありませんでした。 それで、嫡流を継ぐイサクにすべての所有を与えたとはいえ、他の子らにもそれなりに定着する場所を探して生きていけるよう、ある程度の財産を分け与えたのです。 

神様は将来、彼等と彼等の子孫がどのように変わるのか知っておられたので、アブラハムの心をつかさどって遠ざけるようになさいました。たとえ彼等が嫡流を継ぐことはできないとしても、父アブラハムから学んだことを心に留めて、神を恐れて神だけに仕える生き方をしたなら、彼等の心と行いをご覧になって、救いの道を開いて、神の祝福にあって生きていくように働いてくださったでしょう。神様は独裁者のようにすべてを定めておいて強制的に導いていかれる方ではありません。誰にでも公平に機会を与えて、自由意志をもって選択するようにされる方です。それでも自らその機会をつかまないので、神の恵みの中に入れないのです。    


神様は2003年度に「肉と霊を分ける」とおっしゃって、今年は霊の主導的な流れの中で肉と霊がより一層明確に分かれることをおっしゃいました。 肉は肉に、霊は霊にさらに偏っていくことになるのです。 すると、ある方々は考えの中で「なぜあえて肉と霊を分けなければならないのか?」「一緒に行ったらダメ?」と、こんな風に思うかもしれません。もちろん神様が「あなたは肉だ、あなたは霊だ」このように分けるのではありません。自分自身が肉は肉の道に、霊は霊の道を選んでいくのです。まるで本文で正統性をつなぐイサクとそうでない他の子供たちが一緒に混ざり合えなかったように、肉と霊は分かれることになり、霊に属した人々によって神様の摂理はなされることになるのです。これから神様の仕事を主導的に導いていく人々は、霊に属する人々にならざるを得ません。

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