朝の学び160 創世記24章

創世紀 24:1-12
4:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
神様が必ず叶えてくださるという信仰を告白したアブラハム
8節に「『もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。』」とあります。アブラハムはこの言葉の前に、「『私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。』」と断固として言いました。そして「『主は、御使いをあなたの前に遣わされる。』」と答えたのです。アブラハムは、神様が働いてくださることを確実に信じたため、このように告白したのであり、神様もアブラハムの告白どおりに必ず保証してくれました。ところで、もしアブラハムの最年長のしもべが選んだ女性が、ついてこようとしなかったらどうなるのでしょうか? 神様がアブラハムを保証してくれないことであり、アブラハムとの誓いが破れるのでしょうか? そうではありません。もう少し正確に言えば、そんなはずがないですね。女性がついて来ないこともないでしょうし、神様との誓いが解かれることもありません。
したがって、アブラハムは今否定的な告白をするのではなく、神様が必ず叶えてくださるという強い信仰をこのように告白するのです。だから「『私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。』」と言ったのです。女性がついて来ないことはないから、どんな場合でもイサクを連れてそこへ行くことはないという意味です。 「『もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。』」と尋ねるしもべの質問に、このように断固とした信仰の告白で答えを与えているのです。
では、アブラハムから答えを得たしもべはどうすればいいですか? この時、しもべが肉の考えを働かす人だったら、このような状況でもまた質問が出てくることがあります。 どんな場合でも、自分の責任を免れるために「主人がはっきりおっしゃったのですから、もし女性が私について来なくても、私とは関係ないのです。 私は主人の言うとおりにしたので、仕事がうまくいかなくても私は責任がありません。」こういう言葉が出てくることがあるということです。皆さんだったらどうしたのか一度考えてみてください。 私ではないと思うかもしれませんが、実際こういう状況になると「ご主人様、それでもイサク坊ちゃんを連れて行った方が確実ではないでしょうか?」と最後まで自分の主張を掲げる方もいます。 または、「イサクの妻になる女性をどのような方法で探し出すのでしょうか?」と、具体的な方法を尋ねる方もいます。
しかし、アブラハムの最年長のしもべはそうではありませんでした。9節に「それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。」とあります。 これはこれ以上、疑問をもって質問をしたり、自己主張をしたのではなく、直ちに主人の言葉を「アーメン」として受けたことを意味します。自分が気になる部分について主人に率直に尋ねはしましたが、この時主人が信仰の告白をすると、彼もやはりこれ以上思いを働かせず、信仰によって受けている姿です。
アブラハムの神様に信頼し、すべての事を益とするように働かれる神様に頼った最年長のしもべ
アブラハムの最年長のしもべは、女性を探すにあたって全く人の方法や考えを働かせず、ただ神様に信頼しました。10-11節に「しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。」とあります。ここで、「しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。」ということは、私心や欲からではなく、探そうとする女性に出会った時、彼女に主人の心を伝えるしるしとして、らくだと主人のあらゆる貴重な品々を持っていったのです。 そして、これが後でリベカに会ったときに、リベカやその家族に手渡されることになります。 創世記24:53に「そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。」とあります。
これは、アブラハムの最年長のしもべが、肉的な方法を使ったことではありません。もし、そうであったら、まず金銀の品物や衣服、宝物を取り出して見せることで、相手の歓心を得ようとしたでしょう。しかし、最年長のしもべがこれらを与えたのは、リベカがイサクの妻になると決めた後でした。 ですから、最年長のしもべが、主人のあらゆる貴重な品々を持っていったのは、肉的な方法を働かすためではなく、神の御心の中で女性に会った時、その女性と家族に主人の代わりに心を伝えるためのものだったことが分かります。
このように人の側でできることをあますことなく準備していったアブラハムの最年長のしもべは、夕方になって、アラム・ナハライムのナホルの町の外にある井戸のそばに到着します。ところが、しもべがそこに到着した時間も神様の正確な導きだったという事が分かります。 この時間が、まさに女性たちが水を汲みに出てくる時だったので、どれだけ万事が都合よくいったのです。わざと合わせようとしたのではありませんが、神様の正確な導きで、最も短い時間で備えられた女性に会えるように働いてくださったのです。この時、しもべは、「ただ主人のアブラハムをご覧になって、すべてを成功させてくださるよう導いてください。」と神様に全面的にゆだねる祈りを捧げます。
12節に「そうして言った。「『私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。』」とあります。 主人アブラハムの神様に祈っており、主が取り計って下さるすべての過程が、結局神様が主人アブラハムに恵みを与えることであることを明確にしています。アブラハムのしもべが探している女性に順調に出会い、「私がこのようによく女性を見つけた」とし、自分の功に回そうとする心ではなく、すべてがただ主人のアブラハムを見て、神様が与えた恵みであることを告白しています。ですから、このような善良な心と私心が全くないしもべの祈りに、どうして神様が答えて下さらないでしょうか?アブラハムの最年長のしもべが、どのような方法で神様のみわざを体験することになるかは、次の時間に続いて見ていきます。
結論
アブラハムは、自分の代わりにしもべを送る時に多くのことを話しませんでした。目的地とこの使命の趣旨だけを説明して、あとはしもべにすべて一任しました。 主人の所有の中で何を持っていくかも、また目的地に到着してどんな方法で女性を探さなければならないかも、すべてのことをしもべが判断するようにしました。 これはイエス様が弟子たちを訓練させる時も同じでした。イエス様は、ペテロに宮の納入金を払うようにする時も、マタイ17:27に「『しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。』」とあります。 どちらの湖に行くべきか、いつ行くべきか、どんな魚がかかるのかなど、他に何もおっしゃってくださったわけではありません。
エルサレムに入城する時、乗るロバの子を求める時もイエス様は二人の弟子を送り、「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」」とおっしゃったことが分かります。最後の晩餐を準備する時も同じです。マタイ26:17に「さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」」と尋ねると、18節に「イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」と言いました。 そして19節に「そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。」とあります。
このような状況で、もし弟子たちが肉の考えを働かせていたら、従順ではなく、色々な理由と言い訳が出たり、さらに細かいことまでも質問したでしょう。しかし弟子たちはイエス様の言葉に考えをはたらかせずに「アーメン」と言いました。 これが信仰であり、従順です。もし肉の考えを働かせて尋ねて、細かい質問一つまでも答えて、そのまましなさいとだけ言えば、おそらく子供でもできるでしょう。 しかし、信仰とはヘブル人への手紙11:1「仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」の言葉のように、「望んでいることの保証」であり 「見えないものの確信」という事実を悟り、真の信仰を所有してください。
また、最年長のしもべの役割がいかに重要であるかについても、お気づきいただければと思います。今の状況では、最年長のしもべの役割が非常に重要です。いくら神様がアブラハムの信仰を見て働かれようとしても、すでに、アブラハムはすべてを最年長のしもべに委任したので、しもべがいかなる人の考えも働かせず、ただ神様の全面的な導きだけを信じて従順していく心でなければ、敵である悪魔サタンが訴えることができます。 したがって、しもべの信仰と従順によって結果が変わることがあるということです。 ところが、このしもべは、主人のアブラハムのそばでこれまで信仰の訓練を受けてきたし、主人を完全に信頼したために、よく主人の意を成し遂げることができる道具として、十分に自身の使命に耐えられる信仰があったのです。
今は、このような信仰持った主のしもべと働き人が多く必要な時です。私たちの主のしもべと働き人たちとすべての聖徒たちも、イエス様の弟子たちのように、そしてアブラハムの最年長のしもべのように、御言葉に頼って従順で神様の働きを成し遂げることができる、霊的な成長を遂げた器として迅速に出てくることを主の御名で祈ります。



