朝の学び156 創世記23章

創世紀 23:1-9
サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。6 「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、 彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、 彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」
死んだ後に救われた魂はどうなるのか?
父なる神様はこの地に耕作を始めながら、すべての人々が皆救われるのではないことをあまりにもよく知っていました。それで死んだ後、救われた魂が行く所と救われない魂が行く所を区分しておきました。皆さんが天国と地獄の説教や書籍を通してご存知のように、霊の世界はあまりにも正確に分かれています。例えば、今救われた魂が肉の体を離れることになれば、二人の天使に導かれて上のよみに行くことになります。そこで3日間滞在し、霊の世界に適応する期間を持つことで、将来行くことになる待機場所での生活について教育も受けることになります。その後、パラダイスの端に設けられた待機場所に移り、そこで主の再臨の時まで過ごすことになるのです。
ただ、新しいエルサレムに入る資格を持った人は、パラダイスの端の待機場所に留まるのではなく、すぐに新しいエルサレムに入ることになるのです。しかし、新しいエルサレムに行って将来自分が住むことになる家に入るのではなく、新しいエルサレムの中に用意された他の空間に住むことになります。ところが、このような過程は人間耕作が始まってから今まで同じだったわけではありません。つまり、アブラハムが信仰の父として立てられ、この地の人生を終えた後、上のよみをつかさどる前とその後、そしてイエス様がこの地に来て十字架を負って死んだ後、復活、昇天する前とその後それぞれの状況が違うのです。
アダムがこの地に降りてきて耕作を受けるようになった後、多くの人々が生まれて死ぬようになり、そうなれば死んだ後にその魂が行く所がなければならなかったので、神様はすでに人間耕作が始まってから、上のよみと下のよみに分かれて存在させ、救われなかった魂は下のよみに、救われた魂は上のよみに行くようにしました。それで救われた魂たちは上のよみに導かれ、そこでの秩序に従って暮らすようになりました。そうするうちに時が来て、アブラハムがこの地の人生を終えて上のよみをつかさどる使命を引き受けた後からはもちろん、以前と同じように救われた魂が上のよみに行くことになりますが、この時はアブラハムの胸に抱かれたと言うようになりました。
ルカ16:22によれば、イエス様が比喩を話されて「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」とおっしゃったことが見られます。つまり、アブラハム以前までは、救われた魂がそのまま上のよみに行くのですが、アブラハム以後は、救われた魂が上のよみに行き、アブラハムのふところに抱かれることになるのです。
ところが、イエス様が十字架を背負われた後は、また状況が少し変わることになります。 イエス様がこの地に来られ十字架で死なれ復活される以前に救われた魂は、ひとまず皆が上のよみで、アブラハムの主管の下で待機していました。そうするうちにイエス様が復活、昇天すると、上のよみにいた魂も一緒にパラダイスの端の待機場所に移されることになります。この時からは上のよみが救われた魂の待機場所ではなく、パラダイスの端の待機場所に行く前にしばらくとどまる場所と概念が変わりました。上のよみを経た魂たちは、パラダイスの待機場所に移って暮らすことになりますが、この時からはアブラハムのふところに抱かれたと言わず、主の胸に抱かれたと言うようになります。しかし、すべての救われた魂が主のふところに直接抱かれるわけではありません。
ヘブル12:14に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」という御言葉のように、すべての人と共に平和と聖めを追うことができなかった人々は、主に会うこともできません。まして、このような人々の魂が、どうして主の胸に直接抱かれることができるでしょうか?したがって、救われた魂の中で、パラダイスの待機場所に留まることになる魂は、直接主の胸に抱かれるのではありません。それでも、主の胸に抱かれたと表現するのは、主が復活、昇天した後からは、ただイエス·キリストによって救いに至ることであり、すべての救われた魂が主の主管の中に住むことになるという意味で、このように表現するのです。ただ、この時も新しいエルサレムに入ることができる人たちは、あらかじめ新しいエルサレムに行くことになるので、主の胸に抱かれたという言葉どおり、主にお会いして抱かれることもできるのです。
そして、最後の審判の後、各人の魂は自分が永遠に生きることになる場所に入ることになるのです。これは一度決まれば永遠に変わりがないですね。アブラハムはこのような霊的な奥義を悟っていたので、パラダイスに行くしかないサラの境遇を考えて、悲しみ、哀痛するしかなかったのです。
亡きサラのために埋葬地を得る為正しい道を歩むアブラハム
3-4節に「それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。『私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。』」と言ったとあります。これまで「創世記講解」を通して見てきたように、アブラハムはたとえ異邦民族の中で暮らしていたとしても、常に彼らと平和を成していました。これは異邦民族がアブラハムと共にする神様を恐れたためであり、肉的にもアブラハムは強大な力と権勢を持っていたためです。それで周辺の国の王でもアブラハムにはむやみにできなかったことが見られます。ところが、アブラハムは自分にこのように力と権勢があり、周辺の異邦民族が自分をあえてどうすることもできない状況の中で、それによって心が高くなったり、他の人々を無視する気持ちは決してありませんでした。死んだサラのための埋葬地を得る過程を見れば、アブラハムが何事にもどれほど正確で、また正しい道を歩んだかが分かります。
アブラハムは埋葬地を求めるにあたって、当時滞在していた土地のヘテ人に「私はあなたがたの中に居留している異国人です」と表現しています。もちろんアブラハムは、その地のヘテ人の人々が自分をむやみにできないということも、またいくらでも自分の力や権勢を持って、彼らにいかなることを要求することもできるということもよく知っていました。だから、最初から自分が望む土地を選んで、そこを取りたいと言うこともできたのです。しかし、アブラハムの心は、そのようではありませんでした。とても謙虚に自分を居留者で異国人であると語り、へりくだって相手の心をつかもうとする姿を見ることができます。
これに対し、ヘテ人が答える6節には「『ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。』」とあります。アブラハムのことを「ご主人。」と呼んで、欲しいところを選んで好きなように使えと言っていますね。彼らがアブラハムを「主人」と呼ぶということは、彼らの立場でアブラハムをどのような存在と見ていたのかがよく分かります。たとえアブラハムが彼らに「ここを下さい」と言ったとしても、ヘテ人の立場では喜んで聞いてあげなければならないほど、当時アブラハムは大きい権勢と力を持っていたということです。だから、このようなアブラハムの立場からすれば、ヘテ人がこのように申し出てくるのを見た時に、その心に少しでも貪欲や傲慢な心があったとすれば、すぐに自分が望むところを得ることもできたはずです。
しかし、アブラハムはそうではありませんでした。むしろ、7-9節に「そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、彼らに告げて言った。『死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。』」と述べています。彼らの前に身をかがめるほど、最大限の謙遜と礼儀を備えているだけでなく、自分が望むことを言うにあたっても、相手が「ただで差し上げる」と言っているにもかかわらず、それに見合うだけの十分な代価を払うと言っています。
このようなアブラハムの言葉と態度には、決して傲慢ではない謙遜な心とともに、肉の人の心をあまりにもよく知っているために出てくる善の知恵が含まれているという事です。たとえ今は「ただで差し上げる」と言っても、後で状況が変わり、歳月が経てばその心がいくらでも変わることもありうるということを知っているのです。だからアブラハムは重要な埋葬地を得るにあたって、後日いかなる紛争の余地も残さないようにするために、正確な価格を払って、その土地を買おうとしたのです。ところが、続くヘテ人の答えを見ると、肉の人の心がどのようなものなのかがすぐに分かります。アブラハムがこのような肉の人々をどのように抱いて事を成し遂げていくのかを次の時間に続けて見てみましょう。
結論
愛する皆さん、人々はよく自分が他人より権勢と力があり、自分が望む通りにできる立場にいるならば、簡単に指示して命令し、自分の思い通りに事を成し遂げようとします。さらに、心の傲慢な人は、相手が自分を認めて高めてくれるとかえって勢いが増して、もっと高くなろうとするようになります。しかし、アブラハムはそのような姿ではありませんでした。自分が持っている力と権勢なら、いくらでも望むものを得ることができ、それもただで得ることができたのですが、アブラハムの心には、自分の利益を求めたり、他人のものを貪る心、相手を無視する心などが全くなかったのです。たとえ時間と費用が少しかかっても正しい道を歩んで、相手の心を先につかもうとしたのです。「私もいくらでもそうできる」と思われるかもしれませんが、人の心の奥底に潜む悪の姿は、いざその状況になってみないと分かりません。他人に仕える立場にいる時は謙遜であるかのようであっても、自分が仕えられる立場に立つと本性の中にある悪の形が出てくるからです。
また、頭の立場にいる方なら、まだ霊に変化していない人の心もよく把握して、凡ての事に是々非々がないようにしなければなりません。ある仕えは喜びで受けてもいいですが、ある仕えは受けてはいけない場合もあります。これはただ皆さんが霊に入ってきて、相手の心を分別できてこそ可能な場合です。今日も聞いた言葉を通して、皆様の心を迅速に霊の心に築き上げ、主の胸に抱かれることができる皆様になられることを、主の御名でお祈りします。



