朝の学び155 創世記22章

創世紀 23:1-9
サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。6 「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、 彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、 彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」
序論
今日は、創世記23章全体を本文として、アブラハムの知恵と彼の心について見ていきましょう。アブラハムは信仰の父として神様から認められる信仰と従順があっただけでなく、その心には悪が全くなかったので、上から来る善の知恵が臨み、周辺の多くの人々を抱くことができる広くて大きな心になることができました。新約に記録された八福、聖霊の九つの実、愛の章の言葉に照らしてみると、どれ一つ不足のない完全な姿のアブラハムだったのです。聖書を見ると、アブラハムには悪そのものを見ることができません。今日の御言葉を通して、アブラハムがどのようにしてすべての事に栄え、周辺のすべての人々とも和平できたのかを悟る貴重な時間になることを願います。
やっと救われてパラダイスに入ることになったサラ
1節に「サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。」とありますが、175歳を生きたアブラハムに比べれば、サラは比較的早く人生を終えたと言えます。実際、人間耕作の歴史において、信仰の父という一つの手本として立てられるほど完全だったアブラハムの妻なら、サラもやはり優れた信仰の所有者になって当然でしょう。しかし、実際にはそうではありませんでした。
『創世記講解』を通してお聞きになった通り、サラは依然として肉の考えを捨てることができず、心から悪の形を捨てることができませんでした。霊的な信仰というよりは、アブラハムのそばでいつも見聞きしていたので、ただ知識的に知っている肉的な信仰に近かったのです。だから、肉的にはアブラハムといつも一緒にいましたが、霊的にはアブラハムの水準に合わせることができませんでした。しかし、アブラハムが、このようなサラを愛していないわけではありません。当然愛しただけでなく、サラも何とかして良い天国に一緒に入ることができることを切に願う気持ちでした。しかし、結果はそうではありませんでした。2節の御言葉を通して、このような事実を知ることができます。「サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。」とあります。
アブラハムは神様と明らかに交わり、後の世についてもよく知っていました。人が死んだ後、永遠の裁きが待っていること、天国、地獄がどんな所なのか、また、自分の妻のサラが天国のどの場所に入ることもわかりました。それで、今日の本文のように、アブラハムは悲しみながら泣くしかなかったのです。 誰よりも長い歳月をこの地で一緒にし、色々な訓練の歳月をともに過ごした愛する妻であり、約束の種であるイサクの母だったので、アブラハムはこのようなサラが将来天国でも、永遠の栄光の中で共に暮らすことを願ったのです。ところが、結果がそうではなかったので、アブラハムは悲しみながら哀痛するしかありませんでした。
では、サラは死んだ後、どのような場所に行ったのでしょうか?その答えを得るために、ここでしばらく今までのサラの姿をもう一度振り返ってみます。神様が約束の子孫であるイサクに対する契約を下さった時に、サラはその言葉を聞いても信じられず、つい笑ってしまいました。アブラハムを通して多くの神様のはたらきを見て、誠実な神様を体験したにもかかわらず、心から完全に信じられなかったのです。神様の言葉に無条件に「アーメン」できる心ではなく、依然として肉の思いが働いて、自分の思いと合わなければ聞き従わないこともある姿でした。
そのため、アブラハムは、イサクを全焼のいけにえとして捧げに行く時も、サラに話すことができませんでした。いくら「これが神様の御心だ」と言っても反対することが明らかだったからです。だから、サラは歳月が経っても依然として肉の考えを捨てることができず、肉の方法を取っていくしかありませんでした。ハガルとイシュマエルを追い出すようにしたのも、すべてを神様に任せたのではなく、人の側で見るのに良い方法を取ったのでした。サラは息子のイサクを見るにも、彼を神様がくださった約束の子として見るよりは、ただ肉の母としての心で見ていたのです。だからこのようなサラが、息子のイサクを全焼のいけにえにするようにという神様のお言葉を直接聞いたとしても、決して従順することはできないのです。
これは結局、サラの心に悪があるからです。サラがハガルをどのように扱ったのかを見れば、その心にある悪の形を発見することができます。ねたみ、そねみ、自分の利益を求めようとする心、自分の心に合わなければ遠ざけ、さらに相手はどうなっても自分の好きなようにしようとする心など、その心にある様々な悪の形を発見することになります。ただ心に留めておく次元ではなく、自分の持つ権勢と立場でもって、心にある通りふるまう姿でした。もちろん当時は旧約時代であり、内住される聖霊の助けがないので、自ら心に割礼ができる時ではありませんでしたが、サラは夫のアブラハムを通して、善が何で愛が何なのか数えきれないほど見たはずです。
ゲラルの王アビメレクと周辺の異邦の民族に対するアブラハムの姿を見ながら、たとえ自分に力があって権勢があってもそれをむやみに乱用するのではなく、自分より低い人でも常に善と愛で理解し包容することが真理であることを見ました。それでも、サラはただ悪を心に留めておく次元ではなく、それを表に出して行う次元でした。だから信仰の二段階にも及ばない姿です。信仰の二段階にある人は、たとえまだ肉の働きを全て脱ぐことはできなかったとしても、真理が何かを聞いて知っているために、肉の働きを捨てるために努力する人であり、それで少しずつでも変化していく人です。ところが、サラは歳月が経っても変化したのではなく、依然としてその悪の形を心に持っていて、それを表にも表わす姿でした。さらに、サラはアブラハムという立派な信仰のモデルがすぐそばにいたにもかかわらず、心や行いが変化できなかったのです。
ルカ12:47-48によると、「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」とあります。この言葉に照らしてみると、サラは確かに主人の心を知っていながらも行わない場合と言え、神様から多くのものを受けた者であるにもかかわらず、神様が精算される時に差し出すものがない人と言えます。たとえ当時が旧約時代とはいえ、サラは相対的にあまりにも良い条件の中で、依然として肉に住み、心も行いも変化しなかったのです。だから、このようなサラが行ける場所はどこでしょうか?やっと救われたとしても、パラダイス以上の良い天国には入る資格がないのです。
サラがパラダイス行ったことに悲しんでいるアブラハム
信仰の父アブラハムの妻サラがやっと救われてパラダイスに行ったという事は、あまりにも驚くべきことで衝撃的なことです。しかし、聖書を調べてみると、サラがなぜパラダイスしか行けなかったのかがよく分かります。さばきは確かに御言葉通り行われるからです。この地でアブラハムの妻だったからといって、これ以上大目に見ることもなく、むしろアブラハムの妻だったにもかかわらず、その程度しかできなかったことが恥ずかしいのです。来世についてあまりにもよく知っているアブラハムが、普段どれだけ多くのことでサラを悟らせてあげていたのでしょうか?多くの教訓も与えただろうし、さまざまな悟りと神様の御心について教えてあげました。しかし、結局サラ自らが、その言葉と悟りを心から受けることができずに流してしまったため、今日の本文で見られるように、死んだ後もアブラハムの心をひどく痛めてしまったのです。
私もこのようなアブラハムの心情をよく感じるようになります。私は主のしもべや働き人、聖徒たち一人一人に接する時、肉の家族よりももっと気になります。さらに、長い間一緒にしながら神の国のために努力してきた方々なら、いつも感謝する気持ちであり、さらによく見ることになります。それでは、私が彼のように努力してくださった方々のためにしてあげられることは何でしょうか?本当に霊的な愛は、何とかしてその方々を必ず新しいエルサレムに導くことです。そのため、その方々が霊に入ってくることを心からもっと切実に祈ることであり、足りない姿がある時はもっと焦がれる心に変化することを祈ります。
さらに、各人の信仰の分量が分かるので、そのまま留まっていては、ややもするとパラダイスにすら入りにくいような方々のためには、涙で悲しみながら祈るしかありません。新しいエルサレムに必ず一緒に入らなければならない方々が、そうでない道に向かっているのを見ると、悲しみながら悲痛になるのです。このように多くの御力の働きを見て、どこでも聞くことができない霊の言葉を数え切れないほど聞いて、また聞いたにもかかわらず、今日の本文の「サラ」のようにその心と行いが変化せず、救われたとしても、やっとパラダイスぐらいしか行けない方々が決していてはならないでしょう。



