朝の学び153 創世記22章

創世紀 22:13-19
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。
序論
愛する皆さん、ひとり子のイサクまでも惜しまず、喜んで父なる神様の前に捧げることができた、アブラハムの心の香りと行いを受けた神様は、主の使いを送って、アブラハムがイサクをほふろうとしたことを止めさせます。そして、アブラハムが神様を愛し、畏れ敬うことを完全に認めてくださいます。では、これで神様がアブラハムに与えた試練が全て終わったのでしょうか?アブラハムは、息子のイサクを連れて山を下って、家に帰ればいいのでしょうか?そうではありません。アブラハムとしては、すでに神様の前に全焼のいけにえを捧げることに決めたことだったので、たとえ息子のイサクを全焼のいけにえとして捧げることはないとしても、一度捧げることに決めた全焼のいけにえは必ず捧げなければならなかったのです。
父なる神様は主の使いを送って、アブラハムに「あなたの手を、その子に下してはならない。」と言ったのであって、「全焼のいけにえを捧げなくてもよい。」と言われたのではなかったのです。そのため、アブラハムはイサクに手を下しませんでしたが、何か代わりにする全焼のいけにえがなければならないということが分かりました。 それで、そのことが心に働きかけられ、目を上げて見たのです。神様がアブラハムの心をつかさどられ、彼が目を上げて周りを見回した時、神様が備えておかれた雄羊を発見し、それで息子に代わって全焼のいけにえとして捧げることができました。
イサクの代わりに雄羊を供え物としたアブラハム
13-14節に「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」とあります。 私たちはここで二つのことを悟ることができます。
第一に、神様の前で一度決めたことは、決して変えてはいけないという事です。アブラハムは、神様が自分に何を要求しているのかを正確に把握しました。「イサクに手を下してはならない。」と言われたのであって、「全焼のいけにえを捧げなくてもよい」と言われたのではありませんでした。 この時、もしアブラハムが肉の考えを働かせたとすれば、「イサクを全焼のいけにえとして捧げるようにとおっしゃったが、もうイサクに手を下してはならないとおっしゃるので、それなら全焼のいけにえを捧げなくても良いのだろうか。」と考えたはずです。今日も、多くの人々がこのように肉の考えを働かせるので、誤った結果を得ることになります。
例えば、皆さんが心に働きかけられて、ある神様の働きを成し遂げるのに物質を蒔くことを心に決めました。たとえば、海外の聖会のために蒔くことにしていたのですが、いろいろな事情で先延ばしにしていたら、海外の聖会がすでに終わってしまったのです。それではこの時、皆さんはどんな気持ちですか? 「もう聖会も過ぎてしまったから、次の機会に蒔こう」と思いながらその考えを飲み干しますか?
または、皆さんがある行事の進行のために、全体の必要な財政のいくらかを負担することに決めたとします。 ところが、色々な所から賛助が入ってきて、行事に必要な財政が満ちて溢れるようになったのです。 最初は財政が足りないと思って「私がこの程度は果たさなければならない」と思ったのですが、今は財政が溢れることになり、最初に定めたより少なく果たしても大丈夫になったのです。 それではこの時、皆さんはどうしますか? 「感謝します」と言って、足りないものだけを果たそうとしますか? すでに自分の心に神様の前に捧げることに決めたことや、神様の働きのために捧げることに決めたら、それは必ず実行されなければなりません。途中で状況がどのように変わったとしても、最初に自分の心に決めた通りに父なる神様の前で真実に行えば良いのです。
第二に、肉の考えを働かせず、神様が言われる正確な意図を把握しなければなりません。神様が「全焼のいけにえ、そのものを捧げるな。」と言われたのか、それとも「イサクに手をくだしてはならない。」と言われたのか、アブラハムは正確に神様の意図を把握しました。
例えば、私がどこかを見て回っていて、「これがなぜここにあるのですか?」と尋ねました。 すると、周りにいた人が自分で判断し「あ、これをここに片付けろということなんだ」と言って、すぐに片付けてしまうのです。 むしろ私がそのように尋ねた正確な意図を調べてから処理すれば良かったのに、自分勝手に考えを働かせたのです。 もちろん時には私が心にある意中を相手がそれに気づくように遠回しに話す場合もあります。 しかし、多くの場合、私が何かを言った時、その意中を把握しようとするよりは、それを自分の考えの中で受けて処理してしまう場合を見ることになります。
「アドナイ・イルエ」と「主の山」の意味
14節に「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」とありますが、ここで「アドナイ・イルエ」という言葉は「主が備えてくださる」という意味で、もう少し簡単に解くと「神様が聖徒の必要なものをいつも調べて、あらかじめ備えておかれる」という意味です。それでは皆さんの人生の中で、このようなアドナイ・イルエの体験をしていますか? マタイ6:31-33によれば「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とおっしゃいました。
皆さんもまだアブラハムのような信仰ではないとしても、心を尽くして神様を愛し、畏れ敬い、神様の国と義のために努力していけば、神様は皆さんの人生の責任を負ってくださいます。 もし唇では「愛している」と告白しながらも、神様の前に小さなものを一つ捧げることも惜しんで、自分の利益だけを先に考える人ならば、神様も責任を負うことはできません。したがって、皆さんは「神様が一番先です。神様の国が一番優先です。」という、祝福された聖徒たちになって、アドナイ・イルエの祝福がいつも共にありますように、主のお名前によって祈ります。
次に「主の山」という言葉は、父なる神様の摂理の中で、定められた通りにすべてが備えられてなされたという意味です。アブラハムに向けられた計画も、またアブラハムを訓練し、ついに一人子のイサクを捧げるという試練を通して、彼を信仰の父として完全に立てられることも、父なる神様が、すでに決められた御心と摂理の中で行われているということです。このように神様が定められた公義の法則の中で、神様の摂理の中で行われるので、「主の山の上には備えがある。」と言うのです。神様が決めた通り、すべてが準備され行われたという意味です。だから、神様のこのような細やかな導きを感じるアブラハムは、神様が備えられた雄羊をもって全焼のいけにえを捧げる時に、その心はどうだったのでしょうか? あふれる感謝と喜びの中で、感動の全焼のいけにえを捧げることができました。
例えば、皆さんがとても大きな訓練を通過しましたが、父なる神様はあらかじめ皆さんが通過することを知って、皆さんのために驚くべき祝福を準備しておいたのです。皆さんが訓練を通過してからそれを見つけた時、皆さんの気持ちはどうですか? 「父なる神様が私のすべてを受けてくださったのだ。私のためにこのようなものを備えてくださったのだ。」と感激しませんか? アブラハムがたとえイサクを全焼のいけにえとして捧げることにおいて、少しもためらったりしなかったとしても、また悩みもなかったとしても、それでも、あまりにも愛していた息子を死の直前で取り戻した気持ちは何とも表現できないでしょう。 さらに、神様が自分のすべての心と行いをお受けになり、代わりに全焼のいけにえとして捧げる雄羊まで準備してくださったので、その瞬間、アブラハムは感激するしかなかったのです。
祝福の約束を受けたアブラハム
祝福の試練を通過したアブラハムに、主の使いの唇を通して神様がくださる祝福の約束が出てきます。 「『これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」
続く18節後半節に、アブラハムが、このような祝福を受けることができた理由が、一言で説明されています。 まさに「『あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」とあります。祝福され、答えられる最も確実で簡単な方法は、神様の御言葉に聞き従うことです。私たちは今までアブラハムが、神様の前にひとり子のイサクをどんな心と行いで捧げたのかを調べました。 このように完全なアブラハムの信仰と従順、その行いを、父なる神様は非常に喜ばれました。 その理由は、罪人たちのためにひとり子を、和解の供え物としてさし出してくださった父なる神様の心に、とても似ているということです。
もちろん、根本的に神様と一つであり、何の欠点もないイエス様を、罪人の手によって十字架に死なせるまで犠牲として出されたことと、アブラハムがイサクを全焼のいけにえとして捧げることとは次元が違います。しかし、一次元の公義の中で生きていくこの地で、アブラハムほどの信頼と愛を見せるということは決して容易なことではないのです。 神様をあまりにも愛しているので、自分の最も貴重なものでも喜んで捧げる心が、私たち人の子らを愛し、ひとり子まで渡して下さった父なる神様の愛の心と、とてもよく似ていることが分かります。 このようなアブラハムだったので、神様は彼を信仰の父としてお立てになり、その名は祝福となるようにされたのです。



