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朝の学び152 創世記22章

9月12日
読了時間: 10分

創世紀 22:7-12


イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」




神の言葉にひたすら従うアブラハムとイサク


皆さん、お互いに完全な信頼関係がなされれば、あえて多くの対話がなくてもお互いの心を感じることになります。「私が今なぜこのようなことを言って、私がなぜ今このような行動をするのか」等をいちいち説明しなくても、相手が誤解したり自分の考えで判断しないだけでなく、私の立場と私の心になって理解してくれることができるからです。ですから、周りにこんな人がいたら、お互いにどれほど平安で幸せになれるでしょうか。 もちろん、これはあくまでも皆さんが霊に入ったときのことです。肉に留まる人たちは、いくらお互いが親しくなり信頼しているようでも、実際に自分の利益に合わない状況や自分の考えに合わないことに出会うと、結局移り変わってしまうからです。

ところがアブラハムは、まさに父なる神様とも霊的な信頼関係が積まれていたのであり、息子のイサクとも霊的な信頼関係が築かれていたことが分かります。自分の利益や、自分の考えに合うかを先に考えたのではなく、ただ父なる神様の御心に従ったのであり、イサクも父親であるアブラハムの言葉を全面的に信じて従ったという事です。皆さん、アブラハムは父なる神様から直接御心を示され、又これまで数多くの神様との交わりがありました。だから、たとえアブラハムが考えを働かせて自分の思いに合わないことがあるとしても、これまでの体験と神様から受けた確実な言葉があるので、結局従ったでしょう。

しかし、イサクの場合は違います。イサクは父なる神様から直接何かを言われたわけではありません。もちろん、父親のアブラハムのそばで、いつも神様の生きておられることと、その方の誠実さを見て聞いて体験したイサクでしたが、今は自分の命がかかっている状況です。このような状況でイサクはただアブラハムから、「あなたを全焼のいけにえとして捧げることが神様の御心だ」と聞いただけなのです。そして、すぐにでも自分の命を渡さなければならない状況なのです。それなのに、イサクは全く父の言葉を疑わず、その状況を避けようともしませんでした。何かの言い訳をしようともしませんでした。

 

それでは、皆さんが一度イサクの立場になってみてください。果たして、イサクのような従順の姿が出てくるのでしょうか? 私がもし皆さんに「これが神様の御心です。」と言った時、それが皆さんの考えと合わない時、皆さんはどうしますか?もちろん今は皆さんのほとんどが、"アーメン"と従順しようとしているでしょうが、今の姿があるまでには数多くの訓練が必要だったという事です。

皆さんの信仰が今のようではなかった以前は、祝福の道が目の前にあり、正道を歩む道を教えても従順でない姿を見ながら、私一人で切なく涙を流さなければならない時が多かったのです。皆さんにイサクのように「これが神様の御心だ」という一言に、そのまま服従してくれる信仰だけがあったとすれば、今とは比較できないほど大きくて驚くべき神様の国を成したはずです。今からでも、皆さんがアブラハムのような信仰、またイサクのような信仰に変化することで、これからは父なる神様が下さるいかなるお言葉にも、ただ従順だけが出てくることを願います。


急いで主の使いを送ってアブラハムを呼ぶ神様

アブラハムとイサクのふたりが父なる神様の御心に従い、喜んでイサクを全焼のいけにえとして捧げようとした瞬間、11節「そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』」とあります。すでにアブラハムの心と行い、すべてを美しい香りで受けられた神様は、急いで使いを送ってアブラハムを呼びました。主の使いが「アブラハム。アブラハム。」と呼ぶことができたのは、送られた主の使いがどのような立場だったかを物語っています。 もちろん、父なる神様から送られた使いは、その瞬間、父なる神様の名前に代わるものですが、アブラハムをこのように呼ぶことができたということは、普通の天使や天使長級ではないことが分かります。 

父なる神様の心をよく知り、その威厳と尊貴の中で、父なる神様の名前に代わることができる最上級のみ使いの頭が来たのです。天使たちの間にも明確な序列があって、それぞれの級が正確に分かれていますが、最上級の天使長といえばガブリエルやミカエル天使長級と言えますね。この二人の天使長以外にも、最上級に属する天使長がいく人かいらっしゃいますが、父なる神様はまさにその中の一人を送って、アブラハムに父なる神様の御心を伝えるようにしたのです。

これに対しアブラハムは「はい。ここにおります。」と答えましたが、これがもしかして、この時を待っていたかのように答えたと思われますか?そうではなかったのです。アブラハムは、神様が自分に下した命令を撤回してくださることを願う気持ちが少しもなかったのです。むしろアブラハムは少しのためらいもなく、刀でイサクをほふろうとしたので、急ぐ方はむしろ主の使いだったのです。それで「アブラハム。アブラハム。」と言って急いで2回もアブラハムを呼んだのです。


今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった

このようにアブラハムは最後の瞬間まで、彼の完全な信仰と従順を示し、これを通して神様がくださった試練を完全に通過した時、神様は御使いの唇を通しておっしゃいました。12節「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」とおっしゃいます。アブラハムの神様に対する愛と信頼、そして恐れる心を完全に認めてくださる場面です。では、父なる神様はここまでアブラハムを試す前には、アブラハムが神様を恐れることを知らなかったのでしょうか?もちろん、予知予定なさる神様は、アブラハムがどのように試練を通り抜けるのかも知り、神様を恐れる彼の心も知っていました。

それでも、このように試練という手順を踏ませたのは、これから彼に与えられるいかなる祝福も、また彼に与えられる信仰の父という地位が、全く訴えられないようにするためのものです。敵である悪魔サタンの前でも、信仰の父としてのアブラハムの信仰が明確に証明されるようにされたのです。したがって本文に父なる神様が、「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」とおっしゃったことは、人間耕作の歴史の中で最上の実といえるアブラハムを得た喜びの表現であり、彼を認めて下さるという最上級の表現です。 一人子のイサクを捧げる試練までも完全に通過したアブラハムに、どのような祝福が与えられるかを次の時間に引き続き見ていくことにします。


 

結論

皆さん、一人息子を全焼のいけにえとして捧げるということは、実際に現実に近づくと決して容易なことではありません。今日、神様を信じるという人は多いですが、どれほど多くの人々が神様の前に自分の小さなものを一つ捧げることをも、もったいないと思っているのでしょうか。物質を惜しんで、したがって十分の一も捧げず、時間がもったいないと言って、神様の前に献身することを敬遠する人もいます。やっと日曜礼拝に出席することで満足しており、それ以外の時間自ら進んで使命を担い、あるいは奉仕する姿はあまり見られません。家族に対しては、肉的な情を絶やさないのですが、神様の前には完全に捧げることができない場合もあります。神様の働きよりは自分の働きが先で、神様の国の利益よりは自分の利益が常に先んじている人もいます。だから神様がこのような人々を見る時、どうして「あなたはわたしを愛している。」と認め、「あなたはわたしを恐れている。」と認められるでしょうか?神様を愛し恐れるならば、そこには必ず行いと真実さが伴うようになり、証拠として出てくるようになっています。

ところで、神様を愛して恐れるという最も明らかな証拠が、まさに聖潔になることです。ヨハネの手紙第一5:3前半節「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」とあり、箴言8:13前半節には「主を恐れることは悪を憎むことである。」とあります。したがって、私たちが神様を愛し恐れの念で神様の戒めを守り、悪を憎むようになれば当然聖潔にならざるを得ないのです。このように聖潔になって肉の考えが徹底的に破られ、自分の枠組みと理論と知識が剥がれてこそ、神様の言葉に完全な従順が出てくることができます。そして、このように神様を愛し恐れる人々に神様も愛している証拠を表します。

今日の本文で、アブラハムは結局、イサクを殺して全焼のいけにえとして捧げることはなかったのですが、神様はアブラハムの行いを完全なものとして受け入れてくださいました。アブラハムの心の中心を受けた神様は、イサクを全焼のいけにえとして捧げたのと同じように受け取られたのです。すべての場合がこのようなわけではありませんが、皆さんの心を神様が認めてくだされば、皆さんが心に決めて抱くだけでも神様はすでにその香りを受けとられます。

例えば、ある方は急な問題について、決心の祈りや断食に入ろうとする時にすぐに回答をくださる場合があります。もちろん、急な場合でなければ、状況によっては決心の祈りが終わった後や断食を終えた後に答を与えることもできますが、突然急な問題について祈りや断食をすることになれば、父なる神様も急に答をくださるのです。なぜなら、あらかじめ回答をしても、その中心が決して変改したり途中でやめる人ではないことを知っているからです。すでに神様の前にその中心を認められたので、完全に神様に愛され保証される次元に入ってくれば、心に抱くだけでも答が来るということです。

皆さんもこのように、心に抱くだけで回答してもらえるような段階に入りたいですか? それなら、一生懸命に神様を愛し、恐れの念を抱いてください。私の側でだけそうするからといってできるのではなく、父の神様の側でも認めてくださる確実な証拠を示して見せるべきです。 それは神様の言う通りに生きればいいのですが、それをなぜそんなに難しがる方が多いのですか?皆さんが従順でなければならないという気持ちさえあれば、「わたしの戒めは重いものではない」という言葉のように、神様の言葉通りに生きることが決して重くて大変で難しいものではありません。 アブラハムにとって一人息子のイサクを捧げることが決して大変で難しいことではなかったようにです。皆さんもこのように神様を愛して恐れる次元に迅速に入ってきて、皆が父なる神様から「あなたが神を恐れることがよくわかった。」という認定を受けられますように、主のお名前でお祈りいたします。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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