朝の学び151 創世記22章

創世紀 22:7-12
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
序論
アブラハムは「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」という父なる神様の言葉に、いかなる考えも働かせずに、直ちに従順の行いが出てきたことが見られます。それもお言葉に従うために朝早く起きて、全焼のいけにえに使う木まであらかじめ準備し、神様が指示する土地に旅立ちました。アブラハムは三日の道のりを行った後、実際にイサクを全焼のいけにえとしてささげなければならない瞬間が近づくと、家から一緒に同行した二人の若い者を残したまま、イサクと二人だけで全焼のいけにえをささげる場所に上ります。
前回、アブラハムがこのようにした理由について説明しました。それは、霊のことには肉の人が一緒にできないからです。肉の人は自分が持っている肉の考えと知識の限界の中に留まるので、その限界を越えることについては理解できません。ですから、肉の人と霊の働きを一緒にすると、肉の人は肉的な考えと枠の限界の中で働きを成し遂げようとするので、むしろ霊の働きを成し遂げる上で邪魔になりかねないという事です。
それでアブラハムは、イサクを全焼のいけにえとしてささげるために家を出る時にも、妻のサラには一言の相談もせず、それも朝早く起きて去ったことを見ることができます。もしサラに本当のことを話していたら、果たしてサラが素直にアブラハムの言葉に従ったでしょうか?依然として肉の考えと悪の形を捨てることができなかったサラは、明らかにアブラハムがしようとすることを妨害してしまったでしょう。だから、これをあまりにもよく知っているアブラハムは、サラに知らせずに去るしかなかったのです。
また、イサクを全焼のいけにえとして捧げようとした瞬間に、ふたりの若者を全焼のいけにえをささげる場所まで連れて行ったとすれば、二人の若者もアブラハムの行動を理解することができなかったでしょう。「どうして自分の息子を殺して、獣のように切り分けて、全焼のいけにえを捧げようとするのか」と考えて、「うちのご主人様がちょっとおかしくなったようだ」と判断することになります。 そうすると、アブラハムがイサクを全焼のいけにえとして捧げようとすることを、妨害することもあるのです。そのため、アブラハムはふたりの若者を残したまま、イサクとふたりだけで全焼のいけにえを捧げる場所に行くしかありませんでした。
全焼のいけにえの子羊は、神ご自身が備えてくださる
本文の7節を見ると、イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「『お父さん。』すると彼は、『何だ。イサク。』と答えた。イサクは尋ねた。『火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。』」イサク自身も今のところ、全焼のいけにえに使う供え物が、まさに自分自身だという事について知らなかったことが分かります。全焼のいけにえのために使う火とたきぎはあるが、いざ全焼のいけにえに使う子羊がいないことを不思議に思ったイサクは、アブラハムに尋ねます。「『火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか?』」と言ったのです。 するとアブラハムは「『イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。』」と答えます。アブラハムがこのように言ったのは、イサクに真実を隠そうとしたのではなく、まさにすべてを父なる神様に任せる姿です。
イサクは、父親が自分を縛って全焼のいけにえにしようとした時、いかなる抵抗もしませんでした。父がどんな行動をしても、喜んで従う気持ちになっていたのです。そのためアブラハムは、このような心を持ったイサクにあえて状況を隠す必要がなく、イサクは自分が全焼のいけにえとして捧げられることを知っても、抵抗しないということを知っていました。しかし、同じ言葉でも「全焼のいけにえとしてささげる供え物は、まさにあなただ。」と話すことと「全焼のいけにえとしてささげる子羊は神様ご自身が備えてくださるのだ。」と話すこととは、その言葉から漂う善良さが全く違います。 同じ状況でもその心にどれほど善があって美しいのかによって言葉が変わってきます。
これがどういう意味なのか、ダニエルの場合を通して説明してみます。ダニエル6章を見ると、ダニエルが仕えていたダリヨス王は、自分がそれを望んだわけではありませんでしたが、結局、やむを得なくなった状況で、ダニエルを獅子の穴に投げ入れなければなりませんでした。 しかし、ダニエル6:18に「こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。」と言うほど、ダニエルを心の中心から心配しました。そして翌日の明け方に起きて、急いで獅子の穴の所に行って、悲しく大声を張り上げダニエルに呼びかけ「『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。』」と尋ねます。
この時ダニエルは何と答えましたか? まず、皆さんならどのようにお答えしますか? 皆さんが今、ダニエルの立場です。 そうするとしたら、皆さんはどう答えますか?もし心が善良でない人だったら、まず出てくる言葉が、「なぜ罪の無い私にこのように行ったのか、私が王のためにどれほど忠誠を尽くしたのか、どうして私をこのようなところに入れたのですか? 私の体が一つも傷んでいないのを見てください。これは私が無罪だという証拠ではないですか? もう私の無罪が証明されたので、私の無念を晴らしてください。」と言って、先に寂しさと感情混じりの言葉が出たはずです。
しかし、ダニエルはそうではありませんでした。ダニエルはまず王に「『王さま。永遠に生きられますように。』」と言います。王がたとえ自分を獅子の穴に入れるよう命令したことではあったが、それでも自分は王にいかなる感情や寂しさもなく、依然として「私は王に忠誠している臣下です」という意味がこの告白には含まれているのです。その後「『私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。』」と告白します。この告白もやはり自分の悔しさを主張したり、残念な感情を表に出そうとする言葉ではなかったのです。 自分を無念に陥れた人々に対する報復を望むという心もありませんでした。だから、このような告白を聞く王も、ダニエルの善良で美しい心に感動を受けるしかないのです。このように同じ状況で話をしても、その心がどれほど善良で美しいかによって、出てくる告白は全く変わるという事です。
それでは皆さんの唇はどうですか? もしかして、寂しさ、悔しさ、不平、不満、イライラ、憎しみなど、いまだにこのような感情混じりの言葉が出てくるのでしょうか?皆さんはいつも自分の唇を点検して、エペソ4:29に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」という言葉のように、常に相手に徳を立てて恵みを与える善良な言葉だけを出す唇になって下さい。しかし、結局唇から出るものは根本的に心から出るものなので、善良な唇になるためには、何よりも善良な心にならなければならないという事です。心に善が臨まなければ、善良な言葉を言いたくても思い通りにならず、極限状況では本性にある悪の形が出てくるようになります。しかし、アブラハムはこのように一言にも善良な心が込められていたのです。
ところがアブラハムが「『神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。』」と告白したことが、もしイサクの代わりに他の全焼のいけにえが備えられているだろうと思ったり、そうなることを願ったりして、このように告白したのではないことを知らなければなりません。 アブラハムは、すべてが父なる神のみこころの中にあり、父なる神の手の中にあり、神が導いていかれることを知って、信じたので、このような心を込めて告白をしたのです。
神の言葉にひたすら従うアブラハムとイサク
本文9-10節によれば、全焼のいけにえをささげる場所に到着したアブラハムは、少しもためらわず、イサクを全焼のいけにえとしてささげるための手順を進めていきます。「ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。」とあります。実際にイサクを捧げなければならない瞬間が近づいた時、アブラハムは少しも情にひかれて、心に少しの動揺もあったわけではなく「私の息子をどうして殺すことができるのか!」と言って、悲しく泣いたり嘆いたりしたわけでもありません。少しの後悔や躊躇もなく、刀を差し出してイサクをほふろうとする最後の瞬間まで、少しの考えも働かせなかったことが分かります。 終始一貫して揺れ動くことなく、ただ父なる神様のみ言葉通りに従っていったのです。
肉の人が見れば「父親としての情もなく、子供を愛する心もないようだ」と思うかもしれませんが、これがまさに霊の人の姿であり、心から父なる神様を第一に愛する人の姿です。「これが父なる神様の御心だ」と知っていたら、どんな状況、どんな環境でも変わらず心に決めたことを成し遂げるのが霊です。「一生懸命やってみようとしましたが、途中でこんなことがあってできませんでした。」と言うとか「もう一度考えてみたら、こうした方が良いと思いました。」という理由や言い訳がないということです。
詩篇15:4後半節に「主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。」と言われた通り、一度父なる神様の前に定めた心は、たとえそれによって日が経過したとしても守らなければなりません。だからといって、「一度定めたことだから仕方ない」という心で、いやいやながら行うのは完全な従順ではありません。アブラハムはイサクを全焼のいけにえとして捧げることにおいて、最後の瞬間まで心に喜びと感謝と平安があり、少しの肉の考えも働かせませんでした。うわべだけ平安なふりをしたのではなく、心から平安であり、喜びと感謝を失わなかったのです。
ところが、自分自身が全焼のいけにえとして捧げられるということを知ったイサクも、従順の人だったことが分かります。アブラハムは息子のイサクに多くを説明したのではありません。「なぜ、イサクあなたを全焼のいけにえとして捧げなければならないのか」と、イサクにどんな説明もしないで、ひたすら「これが神様のみこころだ」とだけ教えたのです。それでも、イサクは何の抵抗や反対もしないで、素直に父の言うとおりに従ったのです。自分の生命を渡さなければならない状況で、イサクがこのように見せた行動は、イサクがそれだけ神様を信じ、父のアブラハムも信じたという証拠です。
イサクが普段見てきた父のアブラハムは、いつも父なる神様の御心を明らかに知っていて、ただその御心通りに行ってきた父親だったので、そのような父親がしようとすることならば、それが明らかに父なる神様の御心だということに対して、心から信じて確信をしたということです。もしそのような確信と信頼がなかったとすれば、いくら父の思いでも素直に従うのはやさしくはなかったでしょう。これはアブラハムが息子のイサクからどれほど信頼されていたのか、端的に伝えてくれる場面です。つまり、アブラハムは神とはもちろん、息子のイサクとも霊的な信頼関係が積まれていた、ということがわかります。(つづく)



