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朝の学び150 創世記22章

9月11日
読了時間: 9分

創 22:4-8


三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。




二人の若者を残して、イサクと一緒に山に登るアブラハム

続く4-6節「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、『あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。』と言った。アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。」とあります。ここでアブラハムが目を上げてそこを遠く眺めたということは、彼がイサクを全焼のいけにえとして捧げる前に、少しでも躊躇する姿ではなく、父なる神様の言葉を完全に成し遂げるための決然とした意志と誓いが込められているのです。また、父なる神様の言葉に完全に従うための知恵も含まれていました。それは一緒に連れて来た二人の若い者は残したまま、イサクだけを連れていけにえを捧げる所に行ったという事です。

では、このようにすることがなぜ知恵なのでしょうか?例えば、アブラハムがいけにえを捧げる所まで、ふたりの若い者を一緒に連れて行ったと考えてみてください。アブラハムが実際にイサクを捕まえて全焼のいけにえとして捧げようとした時、おそらくこのふたりの若い者は、「ご主人様が少しおかしくなったようだ」と言って、アブラハムの行動を止めようとしたでしょう。主人であるアブラハムの行動が到底理解できないので、結局自分たちの考えの中でアブラハムがすることを妨害してしまうのです。アブラハムが、ふたりの若い者に「これが神様の御心だ」と言っても、彼らの考えでは、それが到底理解できなかったはずです。しかもひとり子のイサクで、自分たちが愛する主人です。 これを縛っておいて、薪の上に獣のようにばらばらにしていけにえにするということが、ふたりの若者は理解できますか?ふたりの若者は、アブラハムの信仰の行いに共に参加できる霊の水準ではなかったので、アブラハムは神の御心を成すにあたって、彼等を連れて行くことができなかったのです。

私たちはこの場面を通して霊の働きを成し遂げるにあたって、肉の人は決して一緒にできないという事をもう一度悟らなければなりません。例えば神様の働きを成し遂げるにあたって、肉の人は「人が多ければ、それだけ神様の働きももっとよく行われるだろう」と思いますが、霊的にはそうではありません。人の多さや少なさが問題ではなく、果たしてその中に霊の人がどれだけいるかが重要です。神様の働きを成し遂げるにあたって、人が多いとしても、その中に肉の人がたくさんいれば、むしろ神様の働きはもっと遅くなります。肉の人々は結局、肉の考えを働かせるので、霊のことを理解することもできないし、自分の考えの中で肉の方法を探すため、霊の方法で成し遂げていくのに邪魔になるだけです。完全な従順も出てこないだろうし、肉の人々に神様の意思と方法を教えても、結局は自分が見て良いように行っていくからです。それで神様は働きを成し遂げるにあたって、神様のみ言葉にただ従うことができる霊の人々を探すのです。

士師紀7章を見ると、神様の働きを成し遂げるにあたって、単に人の数が多いことより人の数は少なくても、従順になれる人がどれほど重要なのかをよく知ることができる事件が出てきます。ミデヤンとアマレクをはじめとする異邦民族の連合軍が、十三万5千人ほどの軍隊を率いてイスラエルを攻撃しに来た時、これに対抗するために神様が選ばれたイスラエルの軍隊は、たった三百人でした。そしてギデオンはその三百人を率いて、敵軍を大破させ勝利を収めます。

肉の人が見る時は、一人でも多くの戦士が必要なこの時に、神様はむしろ選び分けて三百人だけを残し、残りは家に帰らせるようにしたのです。まさに神様の働きを成し遂げるためには、従順になれる人々が必要だったからです。神様がギデオンに与えた戦略は、信頼できる人だけが従うことができる方法でした。刀と槍と弓でしっかりと武装し、敵陣に攻め込むように仕向けたのではありませんでした。武器の代わりに、それぞれの手に角笛と空の壺を持って、壺の中にはたいまつを隠したまま敵陣に近づき、壺を割ってラッパを吹きながら大声で「主の剣、ギデオンの剣だ。」(士師記7:20)と叫ぶのでした。だから命を惜しみ、人の考えの中で怖くて従順できない人はこの作戦に共にすることができなかったのです。

言い換えれば、従順出来ない人は早めに家に帰した後、どんな命令にも大胆に従順できる人だけを集めて、彼らを通して神様の計画を成し遂げたということです。このように従順であれば、神様が責任を負ってくださるという事です。ギデオンと三百人の勇士がこのように神様の言葉に従った時、敵軍は大変驚き、自分たち同士でお互いに刀で打って逃げることで、その混乱に乗じてイスラエルは大きな勝利を収めることができました。

これは今日でも同じです。ある場合は、いくら仕事が急で多くの人が必要な仕事だとしても、そうだからといって誰でも送ることができない場合が多いです。そういう場合、送るに値する霊の人がいなければ、むしろ送らない方がいいのです。父なる神様が本祭壇を通して世界宣教を成し遂げ、大聖殿を成すのもこれと同じ原理だという事です。なぜこのように訓練し訓練して、皆さん一人一人を霊の人々にしていくのでしょうか?また、なぜ時によって試練を許していただいて、混ざり物の入っていない穀類と中身のない殻を分けなければならないのでしょうか?私たちに与えられたこの大きくて驚くべき使命を果たすためには、まさに混ざり物の入っていない穀類が必要であり、霊の人々が必要だからです。それで、信仰で従順になれる皆さんを通して、父なる神様の意思と摂理を成し遂げることを願うのです。霊の考えができず、肉の考えに満たされ、神の言葉を信頼で受けられない人々は、霊的なことに共に参加するのが難しいのです。


主の山の上には備えがある アドナイイルエの神様

アブラハムはふたりの若い者を残したまま、イサクと二人だけで神がお告げになった場所に行きました。神様の御心によって成し遂げる霊の仕事を、肉の人々によって邪魔されないためです。このようにアブラハムは、神様の御言葉を成すにあたって、周辺の状況や環境に揺れ動くことなく、変わらない意志で従順であったのであり、決して途中で移り変わったり、不従順したりする気持ちが少しもなかったという事です。だから、このようなアブラハムのすべてを最初から見守っていた父なる神様は、その心の美しい香りを受けられ喜ばれ、アドナイイルエの神様として、必要なものを備えてくださいました。

8節に「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と尋ねるイサクにアブラハムは「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えます。この時、アブラハムは今後どんなことが起きるか分からない状況で告白したのですが、神様はアブラハムのこの告白どおり、自ら全焼のいけにえとして捧げる羊を用意しておいたのです。アブラハムは、イサクの代わりに他のものでいけにえを捧げるとは思ってもいませんでしたが、彼の善良な告白を聞いた父なる神様は、彼の告白どおりに叶えてくださったということです。次の時間には、アブラハムが、最後まで変わらない心で、イサクを全焼のいけにえとして神様の前に捧げる過程と、神様がアドナイイルエの神様として祝福された内容について、引き続き見ていくことにします。


結論

私たちはアブラハムという一人の人物の人生を通して、本当に多くのことを悟ることができます。 肉の考えを徹底的に打ち砕いてしまうということがどんなことなのか、大きくて広い心、すべての人と共に和平する心がどんな心なのか、また完全な信仰から出てくる従順はどんなことなのか、このようなことを一つ一つ悟ることができます。それなら、皆さんもこの言葉を聞きながら、すべてをそのまま自分のものにしてください。今は霊の急速な流れに乗っている時なので、皆さんが決断して祈りながら努力していけば、以前よりはるかに迅速に霊に入ることができる時です。先ほども申し上げたように、今は父なる神様の意思を成し遂げるために、本当に霊の人々が必要な時です。

例えば、イエス様が変貌山に登る時、誰と一緒に行きましたか? マタイ17:1「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた」とあり、弟子たちの中でペテロとヤコブとヨハネだけを連れて登ったことが分かります。また、会堂管理者ヤイロの死んだ娘を助けに行く時も、マルコ5:37に「ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。」と言いました。このようにイエス様が霊的なことを成し遂げる時には、弟子たちの中でも特別に選んで連れて行かれたことを見ることができます。 

最後の時を準備するにあたっても、このように霊の働きに参加するためには、霊として準備された人でなければなりません。それで父なる神様の側でも時が急なので、自分を振り返り、肉の姿をごっそり脱いで霊に入るように多くの言葉で悟らせながら導いています。しかし、選択はまさに各個人の自由意志にかかっています。「霊の流れに乗るのか、それとも肉の流れに乗るのか」自分で選択しなければなりません。神様があなたは霊だ。あなたは肉だと分けるのではなく、自らが選ぶのです。 


ヨハネ3:20-21「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」という御言葉のように、皆さん自らが自分の行いを通して「私は何を選んでいるのか」振り返ってみてください。ですから、すべての事に霊を選び、日々光によって御前に出ていくことで、父なる神様の働きを成し遂げるにあたって、大胆に用いられるようになることを主のお名前によってお祈りします。

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