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朝の学び149 創世記22章

9月11日
読了時間: 10分

創世記22:1-6


これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。




序論

創世記22章では、信仰の父アブラハムが「ひとり子のイサクを全焼のいけにえとしてささげなさい」という神様の言葉に、どのような信仰で従順したのかを調べることになります。アブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげるということは、単にひとり子までも惜しみなく神様の前にささげるという次元ではありません。自分のすべてを捧げるそれ以上の次元です。それはまさにイサクが持つ霊的な意味のためです。イサクは神様が将来アブラハムの子孫を通して成し遂げると言われた約束のための子孫です。

 

神様はアブラハムに、創世記15:5「『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」と約束されましたが、まさにこの約束を成し遂げるためにくださった息子がイサクだったのです。 ですから、肉的に考える時は、イサクを全焼のいけにえとして捧げると、結局イサクを通して成し遂げられるという契約の御言葉も一緒に、水の泡となってしまうのです。変わらずに信じて待っていた25年という歳月も、またイサクを産み、今まで育ててきた歳月も、みな一緒に消えてしまうのです。しかし、アブラハムはこのような状況でも全く肉の思いも働かせなかったのです。

神様のお言葉の前ではどんな理由も言い訳もありませんでした。神様はまさにこのようなアブラハムの完全な従順と信仰を確認するために、彼を直接呼んで試したのです。「なぜイサクを捧げるようにとおっしゃるのか」それに対する何の説明もなく、また「イサクを捧げるならどのようにしてくださるのか」といういみことばもなく、無条件にイサクを捧げるようにおっしゃったのです。 まさにこの時、アブラハムが持っていた神様に対する愛と信頼の真価が出てくることになります。


神の言葉に直ちに従順するアブラハム

3節「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」とあります。どんな肉の考えや、瞬間の間の迷いもなかったし、また悩むこともなくすぐに従順が出てきています。アブラハムは神様を完全に信頼したので、肉で考えれば到底理解できないことだとしても、このように従順の行いが出てきたのです。父なる神様の善良な御心を信じていたので、少しの誤解や寂しさもなかったのです。神様が自分の愛と信頼を認めてくださるので、このような命令までも守ることができたという事に対して、むしろ感謝する気持ちでした。

例えば、私が皆さんにある使命を与える時に、それが肉的に考えると到底不可能で、実現が難しいものであればあるほど、実際にその使命を受けた方はもっと感謝しなければなりません。それは皆さんの信仰が、それだけ認められているという証拠になるからです。私の方から見て信仰も足りず、神様を愛することや牧者を愛することも足りない人なら、そんな方にどうして大変で難しい使命を任せることができますか?それだけ信仰もあり、牧者の愛される人であってこそ「あの方にはこれを任せても、十分に信仰と愛でやり遂げることができる」と心に働きかけられるのです。 結局、あることを指示して使命を与える時も、各人の信仰の分量に合わせるしかないのです。 だから皆さんにとって、肉では大変なことで難しいことを成し遂げなければならない使命が来たとすれば、「私の信仰と愛をそれだけ認めてくださるのだ」と、むしろ喜んで感謝しなければならないのです。

アブラハムの場合も同じです。神様が誰にでも、アブラハムに与えたものと同じ試練を与えられるわけではありません。ダニエルと彼の3人の友人に許されたような試練を、誰にでも許されるわけではありません。試練や訓練も各人の信仰によって許されるものであり、神の国のための使命や職分も、各人の信仰と器によって与えられるものです。まさにアブラハムは、自分に「ひとり子のイサクを捧げなさい」というこのような試練まででも与えることができた父なる神様の心を感じたので、それによっていろいろな心配や悩みをしたのではなく、喜びと感謝で神様の御心を行ったという事です。

それでは、皆さんが一度アブラハムの立場になってみてください。もしかして、「神様、イサクだけはだめです。他のものは何でも差し上げることができるので、他のものを代わりに差し上げてはいけませんか?」こんな返事をされる方はいらっしゃいませんか?または、「神様、少しだけ考える時間をください。妻も説得しなければならないし、準備もしなければならないので、もう少し時間をいただければと思います。」と、こんな理由をつける方や、「神様、私がもう少し祈ってみます。」と言ったり、自分の考えに合わないので、最初から不従順になる方はいらっしゃいませんか?

アブラハムは、神様が具体的で詳しい内容をまだ教えてくださったわけではないにもかかわらず、神様のお言葉に直ちに従うために、このように朝早く起きて旅に出たのです。アブラムは以前にも「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」という神様のお言葉があった時、行き先を知らないのに、お言葉に従順して出ていきました。ところが今回もアブラハムは「モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」ということばだけを聞いて直ちに従順して旅立ったのです。

私もこのようなケースをたくさん経験してきました。例えば、海外の聖会を導きに行く時、父なる神様が具体的な内容をおっしゃってくださらない場合もあります。もちろん大部分は結果がどうなるかまであらかじめ知らせてくださいますが、ある場合は「あなたが行ってみれば分かるだろう」とおっしゃってくださる時もあります。その結果は常に大成功であり、父なる神様に栄光を捧げるようになりますが、中間過程にどんな困難が来るかは話してくださらない時もあるのです。しかし、私はいかなる場合でも父なる神様が「行きなさい」と言えば、考えを働かせずに無条件に従順でした。テロの脅威があるところであれ、キリスト教の集会を法律で禁止したところであれ、集会を妨害する勢力がいるところであれ、関係なく従順して行ったのです。肉の考えや方法を働かせて危険や困難を避けようとしなかったし、集会をしやすいところだけに行こうとすることもなかったのです。このように人の方での考えを働かせず、ただおっしゃる通りに従順した時に、父なる神様はすべてのことを働かせて善を成し、導いてくださったという事です。

中東出張の場合は、さらに信仰と従順が必要です。「行って誰々に会いなさい」という言葉もなく「会ったらこれこれの対話をしなさい」という言葉もありません。ただ神様の言葉に従いさえすれば、神様がすべてを主管してくださるということです。だから人の側での計画ということ自体が必要ないのですね。それで父なる神様は、働きを担当する働き人にも常に考えを働かさないようにおっしゃって、悪は形もあってはならないことをおっしゃっています。アブラハムは、自分のいかなる考えも働かさず、父なる神様の言葉に無条件に従順して従うことができる信仰の人だったので、堂々と信仰の父として立てられたのです。


万端の準備をして旅に出るアブラハム

アブラハムは、全焼のいけにえを捧げるために旅に出る時、適当に準備をして行ったのではありませんでした。二人の若い者を連れて、全焼のいけにえに使う木まで準備して旅立ちました。全焼のいけにえに使う木を一本準備するにあたっても、現地に行って適当な木を取って準備しようとする気持ちではなかったことが分かります。最初から完全に従う心で準備したのです。適当に従順のふりをして状況を見て心を変えたり、あるいは偶然を待ち望む気持ちではなく、本当に捧げものとして捧げる完全な心だったので、すべての準備を整えて行ったのです。

ところが今日、多くの主のしもべが、今日の本文の内容を説教しながら、まるでアブラハムがしぶしぶイサクを捧げたように説明しています。アブラハムは、イサクを全焼のいけにえとして捧げるために3日間の道を歩きながら、悩み、煩悶して苦しんだと説明したりもします。しかし、神様が霊の眼を開いて当時のアブラハムの姿を見せてくださる時、アブラハムは決して悲しんだり煩悶したりしませんでした。三日の道のりを行く時もわざわざゆっくり歩いたのではなく、むしろその足を早めたのです。顔に憂いが満ちていたわけでもなく、イサクを見ながら悲しんで涙を見せたわけでもありませんでした。穏やかな顔で、心には依然として喜びと感謝が溢れていました。

では、アブラハムのこのような行いはどこから出てくることができたのでしょうか?それはヘブル人への手紙11:17-19「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と述べています。つまり、アブラハムには死者の中から再び生かすことができる神に対する完全な信仰があったという事です。このような信仰があったため、アブラハムはイサクを全焼のいけにえとして捧げることにおいて、少しの躊躇や寂しさ、または疑いや移り変わりがなかったのです。

皆さんはもしかしたら、それなりに一生懸命走っていると思っていたのですが、思いがけず試練や訓練が来た時に「自分になぜこんな試練が来るのだろう」と思い、それによって感謝と喜びが離れることはなかったですか?アブラハムは、イサクを捧げなさいという試練が来た時、「私はこのように熱心に神様に仕えるのに、なぜ私にこのような試練が来たのか」と考えたり、それによって心にある感謝と喜びが消え去ることはありませんでした。父なる神様に向けられた心が一度も変わらず、むしろ父なる神様の心と意思を推し量り、真剣に信じたのです。アブラハムのような試練が来た時に、その心を変えずに完全に心の中心で喜び、感謝できる方がいるなら、そのような方は父なる神様が必ず祝福して、大きく現わして用いることができます。皆さんが祝福を受けるためには、いずれにしても通過しなければならない試練があるはずです。この試練を喜びと感謝で通過できる人には、父なる神様がいくらでも試練を許して、祝福されるようにすることができます。しかし、もし試練がきた時に苦しんで倒れる人なら、最初から祝福を与えるための試練を許すことさえできないのです。

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