朝の学び148 創世記22章

創世記22:1-3
これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
神様が試練を許される場合
22章では、神様がアブラハムを試すために、彼に一人子のイサクを全焼のいけにえとして捧げるようにと言った時、果たしてアブラハムがどのような信仰と従順を示したのかについて見てみることにします。1節に「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ。』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります。』と答えた。」とあります。この言葉によれば、神様がアブラハムを試そうと自ら呼んでいるのを見ることができます。
ところがヤコブの手紙1:13-14には「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」とあります。つまり、神様は誰かを試す方ではありません。では、今日の本文にはなぜ神様が試練に会わせられたとおっしゃったのでしょうか?ここで「試練」という言葉の意味をよく知らなければなりません。
ヤコブの手紙でおっしゃる試練は、人の中に悪の形があって、それによってサタンの訴えを受けることで、神様が許す試練のことです。それは、ヨブのようなケースです。表面では純粋で完全に見えても、その心の中にはまだ悪の形が残っているので、神様はそれを抜いてしまうようにするために、サタンの訴えを受けてくださったのです。このような場合は、ヨブがある悪を行ったり罪を犯したりして、それに対する応報が与えられるわけではないので、このような試練をうまく通過すれば、結局、祝福が臨むようになります。それで、訓練がすなわち祝福だと言うのです。
反面、ある悪を行ったり、罪を犯して、それに対してサタンの訴えを受ける場合は、祝福のための訓練ではなく罪の値に対する応報を受けるのです。これは、ある試練や患難、災いを受ける場合で、このような場合は試練を受けたからといって、その後に祝福が来るわけではありません。このように敵である悪魔サタンの訴えを受けて、公義の中で神様が試練を許される場合との二つの場合があることを知らなければなりません。
一番目は、心の中にある悪の形を発見し、それを抜いてしまうことで、後に祝福を与えるための目的で、神様がサタンの訴えを受け入れることで試練を許される場合だと言いました。それで、ヨブはサタンの試練を通して、結局は自分の悪を徹底的に悟り、悔い改めることができたのであり、このようにして悪を脱ぎ捨てた時、以前よりさらに祝福が来るようになったのです。
二番目は、公義の法則に従って、罪の結果に対する応報としてサタンの訴えを受けることで、試練や患難を許される場合だと言いました。神様の言葉通りに生きることができず罪を犯す人に、病気が訪れたり、家庭、事業の場、仕事の場に問題が生じる場合です。ところが、このような二つの場合は、すべて神様が直接試されるのではありません。サタンの手に任せて試練を許される場合です。
しかし、アブラハムのような場合は、アブラハムに何らかの悪の形があって、それを引き抜くために試練を受ける場合でもなく、アブラハムになにか罪があって、応報を受けなければならない場合でもありません。すでに今までの訓練の過程を通して、悪はどんな形でも捨てて、肉の考えが徹底的に砕かれたアブラハムでしたが、神様は、これから最後に自らアブラハムを試して、彼が信仰の父として立てるのに完全な人であることを証明されるためでした。この試練を通して、アブラハムの心の奥底からわき上がる深く感動的な香りを吸い込みながら、彼に完全な祝福を与えるための祝福の試練だったのです。ですから、このような試練は、サタンの手に任せられるものではありません。サタンは人の心の中に悪の形が無ければ、それを引き出して試練を与えることができません。
例えば、サタンがアブラハムにある過酷な災いをもたらしたとして、アブラハムはヨブのように神様を恨むでしょうか?それとも、その心から感謝と喜びが出てくるでしょうか?たとえその場で命をさし出すとも、喜びで捧げられるアブラハムです。ですから、サタンがどんな試練を与えようとしても、サタンの能力の中でできるのではありません。アブラハムにはそうするほどの悪の形がないので、サタンの力を超えているのです。
アブラハムを自ら試した神
だから神様はアブラハムを自ら試したのであり、この試練も祝福に祝福を加えるためのものでした。父なる神様はアブラハムにこのような試練を与えた時、彼がどのように通過するのかをあまりにもよく知っていましたが、それでもこのように試練の過程を経るようにしたことによって、敵である悪魔サタンもそれを見守りながら、どのような異論も出てくることがないようにしたのです。
1998、99年度に私にあった訓練がまさにこのようなケースでした。父なる神様は、訓練が始まる前からこれが祝福の訓練であることを何度もおっしゃっていました。そして、この訓練を経験するにあたって、神様は私を決してサタンの手に渡したのではありませんでした。神様が自ら試した場合でした。神様が私を試したのは、私に何かの過ちがあったからでもなく、私の中に何かの悪の形があったからでもありませんでした。 私を試した目的は、私の中に臨んでいる愛がどんな次元かということを明らかにすることで、以後は敵である悪魔サタンが全く訴えられない中で、創造の最上の権能の次元に導くためだったし、その試練を通して、私の中に臨んでいる愛の次元を敵である悪魔サタンも見たので、今は神様が私に創造の最上の権能を与えて、父なる神様に属した初めの声を発するようにしても、敵である悪魔サタンが決して訴えることができなくなったのです。
しかし、聖徒の皆さんたちの場合は違いました。私は神様の手に自ら握られて試練を受けたのですが、聖徒たちは、敵である悪魔サタンの手に渡され試みられたのです。だから、その試練を通して、皆さんは自分の中のあらゆる悪の形が明らかにされ、自分の悪に気づき、後日それらをすべて覚えて悔い改める時、その対価として祝福が臨みました。このように1998、99年度の訓練が私にもたらす霊的な意味と、皆さんにもたらす霊的な意味が違うのです。結果的には、皆さんもその訓練を通して、今は自分の悪を悟りそれを引き抜くことができるようになったのです。その訓練が皆さんにも祝福となったのであり、このようにして魂がさいわいになる霊的な祝福を受けたので、今後は皆さんに肉的な祝福も一緒に来ることになるのです。私はこのようなことを全て知っていたので、一方では死に向かう魂を見ながら心に悲しみ、苦痛を受けましたが、心の中心ではいつも喜びと感謝で訓練を受けていったのです。
続く2節からは、果たして信仰の先祖として立てられるのに十分なアブラハムの信仰の真価が現れることになります。アブラハムを呼んだ神様は、いかなる状況説明や理由もなく「神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』」とおっしゃるのです。なぜ、いつどのようにすべきなのかについて、何の説明もなしにこのように命令されたのです。では、皆さんは果たして神様からこのような命令を受けた時、どうしますか?肉の考えを動員せず、完全に神様の言葉に従うということが果たしてどんなことなのかについて、次の時間に続けてアブラハムの従順の姿を通して見ていくことにします。
結論
私たちが祝福を受けても神様の中で受けてこそ祝福であり、訓練を受けても神様の手の中で受けることが祝福です。これはすなわち神様の干渉がどれほど祝福なのかを悟らなければならないということです。肉的にはいくら祝福を受けているように見えても、それが神様から来るのでなければ、いつ瞬間にも消えるか分からないのです。人の間でしなければならないことは当然しなければなりませんが、それと共に神様の前でも認められて保証されてこそ、すべてが完全な祝福になることができます。それでアブラハムは人との関係を優先させたのではなく、まず神様との関係を優先させました。そうした時、神様が保証してくださって、人との間の関係でも不足することがないようにしてくださいました。神様がアブラハムを高め、周辺の人々からも認められるようにしてくださるので、王だといってもその前でむやみにできなかったことを見ることができます。まさに皆さんもこのように神様との関係が確実になった時、皆さんがいるところで認められ、頭になっても尾とならないように働いて下さるのです。
また、皆さんもアブラハムのように従順する心になれば、神様が自ら皆さんを訓練し、霊に導いていきます。もちろん、まだ悪の形を全て捨てるまでは、それによって敵である悪魔サタンの訴えを受けることはありますが、皆さんが罪を犯してそれによって応報を受けるのではないとすれば、コリント第一10:13に「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」という御言葉のように、信仰の分量の試練だけを許され、その試練を通してさらに霊的な変化を導かれます。だから神様の手の中で訓練を受けることは、魂がさいわいとなる祝福の道であり、結局、すべての事が幸いとなり健康になる祝福も共に臨むことになるのです。続く、創世記講解の御言葉を通して、アブラハムがどのような信仰を持っていたかを悟り、常に神様が共にして下さる証しが、皆さんの人生の中に現れることを主の御名で祈ります。



