朝の学び147 創世記21章

創世記21:22- 34
そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」するとアブラハムは、「私は誓います。」と言った。また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。アビメレクは答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。アブラハムは羊の群れから、七頭の雌の子羊をより分けた。するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」とアブラハムに尋ねた。アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。 彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。
序論
ゲラルの王アビメレクと彼の軍隊の将軍ピコルが、アブラハムに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」と告白するように、聖書を調べてみれば、アブラハムや神様に愛され保証される人々は、他の人々からも神様の人であることを認められました。例えば、モーセ預言者が神様の言葉に従って十の災いを一つずつ行うと、最初はエジプトの呪法師たちも自分たちの術法でそれを真似しましたが、三番目の災いからはそうすることができませんでした。すると、エジプトの呪法師たちは、出エジプト記8:19に「そこで、呪法師たちはパロに、『これは神の指です。』と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。」とあります。つまり、呪法師たちさえもモーセ預言者が表す権能がまさに神様から来たものであることを認めたのです。
また、出エジプト記11:3後半節を見ると、「モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。」とあり、エジプトの臣下と民とにモーセ預言者が、どのような存在であったかをよく知ることができます。サムエル預言者もやはりサムエル記第一3:19-20に「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。」と記しています。ダビデの場合もサムエル記第一18:28の前半節に、「こうして、サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。」とあり、ダビデの大敵サウルさえも神様がダビデと共にいることを認めるほどでした。
また、ヨシュアはヨシュア記3:7に「主はヨシュアに仰せられた。「『きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。』」とあり、ヨシュア記4:14には「その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなる者とされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れた。」とあります。ヨセフの場合も創世記39:3には「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」とあり、23節には「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」と記されています。
これは新約の時代においても同じです。使徒の働き2:43によれば、「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」とあります。神が使徒たちを通して示す権能の働きの前で、人々が恐れていたことが分かります。多くの不思議なわざとあかしの奇蹟の現れを通して、神が使徒たちと共にすることが分かったためです。それで使徒ペテロの場合は使徒の働き5:15に「ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。」と記されています。
また、使徒パウロもやはり使徒の働き14:11に「パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。』と言った。」というほどでした。このように神様の人には、神様が共にする証拠が明確に現れるので、人々がその権勢の前で恐れるようになるのです。そして、これはヘブル13:8に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」という言葉のように、今日も同じだという事です。 ヨハネ14:21に「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。』」という言葉通り、神様を愛し、その戒めを守ることで、神様と神様の愛を受ける人には、神様も必ず共にする証拠として示してくださいます。
アビメレクとアブラハムとの契約
アブラハムには神様から愛される証拠が現れたので、周辺の人々もそれを認めざるを得ませんでした。アビメレクの場合もアブラハムを通して、自分の家に閉じられた胎の門が開かれる神のみわざを体験しただけでなく、すべての事にアブラハムと共にする神の証拠を見たので、今日の本文にこのように「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」と告白しているのです。 だからアビメレクは一国の王でありながら、アブラハムが自分を責める時、その権勢の前で素直に自分の過ちを認めるのを見ることができます。このようにアブラハムに権勢があるからといって、人々の前で自らを高めようとしたり、相手を抑えようとする気持ちがあったわけではありません。アブラハムがアビメレクを責める時も、もしアビメレクが、アブラハムが自分を無視したり見下すと感じたなら、二人の間に和平がなされなかったでしょう。しかしアブラハムは、自身の権勢を前面に出して他の人を抑えようとする心ではなかったので、責めるべきことに対しては明確に責めたが、常に徳と愛で相手を抱いてその心を解放してあげたのです。
26節に「アビメレクは答えた。『だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。』」と言って、自分のしもべがアブラハムの井戸を奪い取ったことが、自分とは全く関係がないことを訴えると、これ以上責任を追及したり追い詰めたのではありません。 アブラハムの方から先に二人の間で和平を成し遂げる方法を提示したのです。アブラハムの方ではアビメレクに何らかの補償を望む気持ちではなかったので、一旦アビメレクに悟りを与えた後は、すぐに先に和平を求めていったのです。そうしながら、その後でもこの井戸によって再び争いが生じないようにするために、羊と牛を取ってアビメレクに渡すことで、両者の間に約束の証拠となったのです。
責めながらも結局は和平を追い、和平を追いながらも、お互いにはっきりさせる部分については明確に線を引いている様子です。これがまさに善の知恵です。 ある人は過度に相手の過ちだけを指摘し、それによってお互いの間で和平が崩れる場合があり、ある人は和平を追うと言いながら、はっきりと突き止めなかったことが、むしろ後で自分に帰ってくる場合があります。それでイエス様は私たちに「鳩のようにすなおでありなさい」とだけ言ったのではなく、「蛇のようにさとく知恵を用いなさい」とおっしゃっていらっしゃるのです。マタイ10:16「 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」
例えば、マタイ5:39によれば、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と言っていますが、この御言葉は、相手が自分に明らかに害を加えること、明らかに騙そうとしているということを知りながらも、毎回そうしなさいという意味ではないのです。これはつまり、善で悪に勝てという意味であり、悪で出てくる相手までも感動させるような深い善の次元を言っているのです。そうして敵までも抱いて変化させることができる完全な愛のことですね。したがって、このような善と愛を常に心に抱いていながら、敵である悪魔サタンの計略に対しては、正しく分別して霊的に対処しなければならず、人の心もまたよく分別して賢く対処していかなければならないのです。
アブラハムは、このように常に相手を抱いて和平を追うことを願う心ですが、同時に人の心をよく知っているため、30節を見ると、「アブラハムは、『私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。』と答えた。」と言って、アビメレクとの間に明らかな証拠を残して事を収めることが分かります。ここで7は完全数として、これはアブラハムの行いが神の前で真実であることを意味します。また、雌羊の子は生産を意味するもので、水があってこそ生産が行われるように、生産を意味する雌羊の子を通して、生産の源泉である水に対する所有権が、アブラハム自身にあることを確実にしたのです。そして、アブラハムは、このようにしてアビメレクと互いに誓い合った後にそれで終わったのではなく、父なる神様の前でも証拠を示したのです。
神様の前で、ベェル・シェバで祭壇を築いたアブラハム
33節に「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。」とあります。アブラハムは、人との間で結んだ契約で終わらず、それを神様の前でも認められようとしたのです。 このようにして神様の前でも認められてこそ、すべてのことが御心にあって守られ、さかえの道に導かれることができるのです。いつもアブラハムは、行く所はどこででも神様の前にまず祭壇を築き、神様に支えられ導かれたのを見ることができます。 これがすなわち神様を全面的に信じて信頼し、従順する人の姿です。
例えば、聖徒の方々なら、家を引っ越したり、新しい事業の場を始めることになる時、人と人との間でやるべきことを済ませて、それで終わる方はいないでしょう。つまり引越しをするという時、前に住んでいた人と契約書に印鑑を押して、荷物を移してきて整理を終えたら、それで「もうこの家は私が権利を持って暮らせる家だ。」というのではないですね。肉的にはそうだとしても、霊的にもやはり手続きを経なければなりません。 それは、まさに父なる神様の前で礼拝をすることで、神様が新しい家を許してくださったことに感謝することであり、神様の前でも認められなければならないということです。 そうしてこそ、神様が認める中で家庭や事業の場が守られ、すべての事が順調に導かれることができるのです。もちろん、その後でもすべてのことで真理の中で正道を追わなければならないのは当然のことです。
このようにアブラハムは、人との間ですべきことをした後にも、必ず神様の前でそれを認められるようにすることで、すべてを神様の御前に任せ従ったのです。 だから34節に「アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。」とあるように、長く異邦人の地に住みながらも、完全に守られながら生きていくことができたのです。皆さんも神様から愛され、保証される関係になれば、どんな状況でも心配する必要はなく守られることができます。そんな時、詩篇3:5-6に「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」という告白が、心から大胆に出てくるのです。



