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朝の学び145 創世記21章

9月11日
読了時間: 11分

創世紀21:15-21


皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。



 

序論

前の時間に申し上げた通り、アブラハムは、イシュマエルが正統の系図を通して産まれた息子ではないとしても、イサクと同じように同じ子供として愛を与え、差別する心を持ちませんでした。そんなアブラハムに神様が、「サラの言うとおりハガルとイシュマエルを送り出しなさい。」とおっしゃると、翌朝早く起きて、パンと革袋の水だけを与えて彼らを送り出しました。アブラハムが窮乏していたわけでもありません。彼らにいくばくかの財産を分け与え、召使いをつけて送ったのではなく、少し薄情ではないかと思うほどに接したのです。     


しかし、アブラハムの方では、これがまさに霊的な愛だったのです。彼らに、この世のほかの何とも比較できない最大の財産を与えて送ったのです。それは、まさに神様を頼り、神様を畏れ敬うことでした。ハガルとイシュマエルに、すべての祝福の根源であり、生死禍福の主管者である神様だけを頼る心を持たせたのです。財産というものは使えば消えるもので、人も裏切って去っていけばそれだけですが、神様を最後まで信じて頼る人を、神様は決して知らないとは言われません。このことをあまりにもよく知っているアブラハムだったので、彼はハガルとイシュマエルがどこへ行っても、神様を畏れ敬いながら生きることを願う気持ちで、むしろ肉的に頼れるものを与えて送らなかったのです。     


アブラハムが肉で考えれば、当然財産や奴隷を与えて送り出したかったでしょうが、それよりはすべてを解決して下さることができ、どんな困難でも救ってくださる、父なる神様にすべてを任せたのです。「ハガルとイシュマエルを送りだしなさい」と言った方も父なる神様なので、その御心に従って従順する時に、他のすべてのこともやはり神様におゆだねしたのです。これがまさに肉と霊の違いです。人の考えでは、ハガルとイシュマエルのためにより多くのことを世話し、サラに秘密にしてでも世話をしてあげるのが愛であり、霊の心だと考えることもできますが、これがむしろ神の御心とは反対になりうることを知らなければなりません。

ガラテヤ5:24「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とある御言葉のように、主の中で私たちは、肉的な情は十字架に釘づけしなければなりません。家族の間にも、人と人との間にも、肉的な情が残っているため、完全な霊的な愛がなされないのであり、その情に惹かれて神様の御心とは異なる道に進むことがあるのです。また、相手を本当に霊的に愛しているなら、どうすれば相手の魂が幸いになる道なのか、これを先に考えるようになります。もちろん時には慰めと激励も必要で、助けの手を与えなければならない時もありますが、父なる神様の御心の中で与えられた訓練や、自ら信仰の段階を突き抜けなければならない状況にある人には、慰めと激励と助けを与えることが必ず相手に益になるわけではありません。  


さらに、自分の方で肉的な情を断ち切れず、肉で接する為、相手の信仰がさらに成長できず、霊に入り込めないとすれば、何が果たして霊的な愛なのか考えてみなければならないでしょう。 そして信仰の中で、相手が神様だけを信じて信頼し、神様の愛される人として出てくるようにすることが一番大きな愛です。アブラハムは信仰の人です。霊的な愛を持った人だったので、ハガルとイシュマエルに、彼等自らが生きておられる神様を体験し、神様の中に住む者たちとして出てくることを願ったのです。皆さんもこのような信仰を持ってください。まさに父なる神様の心を動かして、父なる神様がすべてのことに責任を負ってくださるそのような信仰です。


神の御手を体験するようになったハガルとイシュマエル

アブラハムは、ハガルとその息子イシュマエルを送り出す時に、パンと革袋の水だけを与えました。それで、ハガルとイシュマエルが遠くに行けず、その水とパンが尽きてしまうのは、あまりにも当然のことでした。結局、ベエル・シェバの荒野でさ迷い歩いていたハガルは、どうにもならない状況を迎えることになりました。本文15-16節「皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、自分は矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。」とあります。     


イエス様も公の生涯の間、弟子たちを教えながら、弟子たちにこのような体験をさせたのです。ルカ10章1-8を見ると、「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。』」

イエス様が弟子70人を定めて、彼らをご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになりました。送る時、「財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。」と言いました。また、神様が恵みを受けた人々を通して供給してくださるものを食べて、彼らの家に留まるようにされます。そして、これについてルカ22:35を見ると、イエス様が「それから、弟子たちに言われた。『わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。』と尋ねると、弟子たちが答えるのは『いいえ。何もありませんでした。』」と言ったのです。イエス様は主の働きのために出ていく弟子たちに、お金や服や靴を与えたのではなく、これを契機にして神様だけに頼ることによって、神様から供給される秘訣を学ばせたのです。   

アブラハムもまさにこのような気持ちだったので、ハガルとイシュマエルに多くのものを与えて送らなかったのです。 結局、荒野でさまよって水が全部無くなると、ハガルとイシュマエルは、ついに神様の御手を体験する状況を迎えることになります。 17-19節「神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。『ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。』神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。」とあります。神の使いが現れ、彼らを助けたのです。 ところが、ここでハガルとイシュマエルがこのような助けを受けることができたのも、実はアブラハムのためだったということを知らなければなりません。

16節で見たように、ハガルは「もう子供が死ぬのだ」と思い、悲しい気持ちで声をあげて泣きました。神様からの助けの手が来ることになるとは思いもしなかったし、そのような信仰を持つこともできなかったのです。しかし、神様はすべてを父なる神様に任せたアブラハムの信仰を見て、ハガルとイシュマエルに御業を現わしてくださったのです。神様はアブラハムを覚えて、アブラハムが神様に信頼して任せた通り、ハガルとイシュマエルに神様を体験するようにしてくださいました。また、イシュマエルが将来大きな民族を成すことになるという約束の言葉も、やはりアブラハムを覚えて下さったのです。   

そして神様はこの約束の言葉を守られました。20節に「神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。」とある通り、神様はアブラハムを覚えて、イシュマエルが成長するまで共におられ彼を守り、彼に与えた約束どおりになるように働いて下さったのです。アブラハム一人の信仰によって、彼に属した人々が、どれほど大きな祝福の中で暮らすことになるかを、よく知ることができるのです。しかし、ハガルとイシュマエルは、これが誰によって与えられたものなのかを知りませんでした。ハガルとイシュマエルが神様から守られ、神様の手の中でイシュマエルが成長して、一つの民族を成すことになるすべての過程は、すべてを神様にお任せしたアブラハムの信仰のゆえでした。アブラハムは、ハガルとイシュマエルが神様を体験することで、神様の中で神様を畏れ敬いながら生きていくことを切望しました。     


ところが、いざハガルとイシュマエルは死ぬしかなかった状況で、神の使いを通して助けを受けて生き返った体験をしても、一時的なものとして流してしまったという事です。そのため、神様の守りの中で成長して、一つの民族を成すようになりましたが、これを心の中心で神様の恵みと祝福だと悟ることができなかったのです。それが蒔いた通りの実として現れるようになったことが、まさにハガルがイシュマエルのためにエジプトの女性を妻に迎えたことです。  



イシュマエルのためにエジプトの地の女性を妻にしたハガル

21節「こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。」とあります。ハガルはたとえ自分はエジプトの女性だったとしても、息子のイシュマエルはアブラハムの子孫でした。 また、ハガルはアブラハムが神に仕える人として、彼の息子イシュマエルも当然神に仕えることを望んでいることを知っています。 神様の命令に従って、アブラハムによって割礼まで受けたイシュマエルでした。 それでも、ハガルは息子のために、異邦人の女性を迎えて妻にしたのです。自分と同じエジプト人の女性を迎えたのです。 以前、サラの虐待を避けて逃げた時、息子と一緒に野をさまよって死にそうになった時も、神様の生きておられることを体験したハガルでしたが、心から神様を信じられなかったという証拠です。心から神様を完全に信じていたなら、当然息子のために異邦人ではなく、夫のアブラハムのような民族の中で、神様を信じて畏れ敬う女性を迎えて妻にしたはずです。     


アブラハムが何度もそのように教えたはずなのに、ハガルはそうしなかったのです。 このため、結局は人間耕作の摂理の中に、神の民イスラエルと対峙するもう一つの異邦民族が出てきてしまいました。異邦の女性と結婚したイシュマエルが、それでも残っていた神様に対する畏敬の念まで失ったまま、ますます神様から遠ざかっていった結果です。ハガルとイシュマエルも神の人アブラハムと共にしながら、これまで見て聞いて体験したことを心に悟れず、ますます神様から遠ざかってしまったのです。イシュマエルが異邦人の女性と結婚することになり、それがさらに急速に進展してしまったのです。したがって、いくら多くのことを見て体験したとしても、それを心の中心で信じず、心から神様を畏れ敬わなければ、結局は神様から離れることもありうるという事実を必ず肝に銘じて下さい。

そしてもう一つ19節によれば「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。」とありますが、これは、神様がハガルとイシュマエルのためにその瞬間に泉を創造されたのではなく、本来あったが発見できずにいたものを、ハガルの目を明るくして見させたという意味です。ハガルがいつ頃どこに来るということをすでに知っている神様は、彼らのために備えておいた泉がハガルの目に見えるようにしたのです。このように神様はアブラハムの祈りを聞き、すべてを備えてくださったにもかかわらず、ハガルとイシュマエルはそれを知らないまま、自分たちの力と能力に頼って生きていくことになります。 しかし、皆さんはすべてが神様の手の中にあり、神様によって動かされるという事を忘れないで、常に神様を信じて頼ってください。

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